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「ご被害者のみなさまへ」と送った東電の言語感覚
慇懃無礼化する社会を象徴する企業体質
2011.10.04(火)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/24488
言葉は社会の鏡である。ここ数年ことあるごとに痛感する。格差は広がり雇用は不安定になり、自殺者や心の病に悩む人のことがよく報じられる。いまの社会はふつうに働いている人たちがピンチに陥ったとき、優しいとはとても言えない。
しかし、言葉だけはその反対というか、この心寒い世相をごまかすかのように、妙に丁寧になり、過剰とも言える“敬語”が使われている。それを政治家や企業のトップ、あるいはマスメディアに登場する地位の高い人たちが当たり前のように発している。
ひと言で言えば、「慇懃無礼」な言葉や表現が、まさに社会の鏡として蔓延している。改めて慇懃無礼の意味を辞書で引けば、「表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を軽く見ていること。また、そのさま」(大辞林より)となる。
これまでにも何度か、こうした現象についての違和感を記事にしてきたが、「3.11」の大震災を経て、これはぜひもう一度問題として提起しなければならないと感じた。そのきっかけは「ご被害者のみなさまへ」という言葉を目にしたからだ。
「ご被害者のみなさまへ」
東京電力が福島第一原子力発電所の事故によって被害を受けた多くの人たちに対して損害賠償請求の申請書を送った際に、まず挨拶として始めた言葉が「ご被害者のみなさまへ」である。
この請求書類は、被害者が記入する請求書が60ページもあり、これを156ページにも及ぶ説明書を参照しながら記載していく煩雑な様式になっていて、普通の人が処理するにはかなりの時間と労力を必要とするだろうことは一目瞭然である。
被害に遭って日々の暮らしすら平穏におくれず、加えて再起に向けてやるべきことは山ほどある人たちの仕事量を考えたら、この書式は配慮に欠ける、という各方面からの批判が噴出したのは当然だった。
また、いったん申請の後は「異議申し立てをしない」という約束を求めていた点も傲慢であると同様に批判を受けた。
これらの批判を受けて、さっそく東電は新たな補足資料を作ることや高齢者には直接訪問して説明するといった改善案を出したが、果たして本当に被害者の置かれた状況に想像力を働かせているのかどうかといえば疑問である。
「ご被害者のみなさまへ」という言い方はそれほど重く、企業の体質を表していると言いたくなる。言葉尻をとらえているのではない。これこそまさに「表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を軽く見ていること。また、そのさま」が、形になって表れている。
この言葉に違和感を持たれた方は多いのでないだろうか。ただし、メディアのなかでは私の知る範囲ではあまり取り上げられなかったような気がする。
ともかく、「ご被害者」とは、なんという言葉か。なんでもかんでも言葉に「ご(御)」をつければ丁寧な言い方になったり敬意を表すことになると思うところが安易だし、おかしい。
「被害にあわれた方々」という言い方はあるだろうが「ご被害者」はない。
そもそも「被害者」という言葉は、被害を受けているという点で否定的なイメージがあり、こうした言葉に「ご」はなじまない。例えば、負傷者に対して「ご負傷者」は誰が考えても不適当だと分かる。
「お殴られになった人」と同じ
ひどい目に遭ったりすることに、あえて敬意を表したりするのは、逆にばかにしているとも取られかねない。極端な例を言えば、誰かに「殴られた人」を「お殴られになった人」とか「殴られなさった人」などと敬語で言い表すことは通常ではあり得ない。
財布を掏(す)られた人に対して「あなた、先日財布をお掏られになったんですね」などと言うのは変だ。
確かに「財布を、掏られたんですね」とは言いにくい。そういう場合は、「先日は、お財布のことで、とんでもない目に遭われたそうですね」と、掏られるという言葉を使わないで婉曲に言い表すところが、日本語としての敬意であり配慮であるというものだ。
敬意を表するのがおかしいという点では、殺戮者とか独裁者を「ご殺戮者」とか「ご独裁者」と言うのも同様だ。これらはとてもほめられた人間ではない。揶揄するためにあえてこういう言い方もあるかもしれないが、通常はこういう方法は取らない。
こういう無神経な敬語、あるいは過剰な敬語について『バカ丁寧化する日本語』(光文社新書)などの著書のある、野口恵子氏(日本語、フランス語教師)は、「ご被害者」という言い方についてこう話す。
「あきらかにおかしいですね。『ご(御)』は敬意を表すときにつけるもので、犯罪に遭われたとか被害に遭われたということに対してつけることはありません。マイナスのイメージの言葉に対してつけるのはおかしいでしょう」
いつだったか、作家の嵐山光三郎氏が、確か国が出した失業対策についての新聞広告に対してだと思うが、言葉遣いに怒っていた。
そこには失業者に対しての呼びかけに「失業された人」だったか「失業された方」といった言葉を使っていたのだが「失業はするもので、されるものじゃない」というのが同氏の怒りの理由だった。
「ご被害者」と同じく「失業する」というマイナスのイメージの言葉に敬語を使うのは不適当である。「ご失業者のみなさん〜」と言っているのと同じである。「失業」は胸を張って言えることではない。それを丁寧に言い表したり、敬意を表するのはおかしい。
さらに言えば、この場合、失業という雇用問題は、失業した本人だけでなく国にも責任の一端がある。その当事者が相手に「失業された〜」と言うのでは、まるで問題を他人事のように感じていると言いたくなる。
想定外の事故で自分たちに責任がないという感情の表れ?
「ご被害者のみさなさまへ」と、被害者に対して挨拶をした東京電力も、その被害をもたらしたのは、100%とは言わないまでも自分たち東京電力であることを考えれば、こういう言い方がいかに不適当かが分かりそうなものだが、どうだろう。
ひょっとすると、どこかで「事故は想定外であり、自分たちには本質的な責任はない」などと思っていることが、他人事のような言い方になって表れているのだろうか。
他人を殴っておいて、「お殴られになられた方へ」とは言えまい。野口氏も「これは、突き放した言い方で、自分たちが被害を与えたことに対する気持ちがみえない」と話す。
朝日新聞で、読者からの投書を載せる「声」欄には、飯舘村から福島市に避難しているという76歳の男性が、この東電から送られてきた請求書類について「一体、誰がこの慇懃無礼で難解な文書を自力で判読できようか」と怒りを混じえて訴えている。(9月25日付朝刊)
この男性の投書で、東電からの「ご被害者のみなさまへ」という挨拶文のことを知ったという明海大学外国語学部教授の山岸勝榮氏は、自身のブログのなかで、言葉の専門家として「なんとも醜い日本語ではないか」と驚きを表している。
「マイナス要因の大きな特殊な語に、いくら丁寧さを表す接頭語『ご』を付けても、結局は無駄なのだ」と呆れる同氏は、もう1つ重要な指摘をしている。
「東京電力には『ご被害者』などという言い方を、“醜い日本語”だと感じられる“常識的語感”を持った社員はいなかったのだろうか」と疑問を投げかける。
まったく同感だ。東電は、言うまでもなく社員の履歴からすれば学業的に優秀な人が集まり、社会的な常識も備えているだろう人たちが随所で働く、世間で言うところの一流企業である。
被害者のことを真剣に考え、失礼があってはいけないという配慮があれば、こうした書類や文書を作る際にも、細心の注意を払うことが可能な組織のはずである。
それほどの組織がどうしてまともな日本語を使えないのだろうか。請求書類を作成することなど、原発建設のために使われる巨額なPR費などに比べれば微々たる額で、しかるべき人に監修させて、言葉遣いも含めて処理できたはずである。
きっと言葉や書式などは軽んじていたのだろう。書類をどう作ったのか実際のところは知らないが、だから「どうせどこかの広告代理店に丸投げして作らせたんだろう」といった声が世間から出てくる。
テレビでは、「〜させていただく」のオンパレード
この「ご被害者のみなさまへ」は、おかしな敬語、過剰な敬語、慇懃無礼な表現のなかのほんの1つに過ぎない。「私は東電の記者会見でのやりとりをよく聞いていますが、ほんとうに過剰な敬語が使われますね」と、野口氏。
もちろんこうした言葉遣いは東電だけでない。
「大学生でもやたら丁寧語を使うし、若い人だけでなく、世間では地位が高いとされている人もよく使っていますね。敬語を使って、言葉を飾ったり事実をごまかしていることもあります。過剰な言葉や敬語を取ってしまったら、簡単なことを言っているだけということになるはずでしょう」と、野口氏は見ている。
過剰な敬語の典型といえば、「〜させていただく」という表現である。これについては、日本語の専門家や文学者をはじめ一般の人までが、いろいろ批判的にとらえている。私も何度か“問題あり”と書いてきた。
だが、マスコミの世界ではいまでも「〜させていただく」のオンパレードである。テレビではタレントが「○○番組に出演させていただきました」というのは当たり前。別に許可もいらない取材でも、報道番組の司会者は「取材させていただきました」と言う。
サッカー選手が「私もあのグラウンドで蹴らさせていただいたことがあります」と言ったのを聞いたことがある。前宮崎県知事の東国原英夫氏が、都知事選への出馬を取りやめた際、「出馬させていただかないことにしました」と言ったのには驚いた。
そしていまも、テレビに登場する政治家がことあるごとに、「〜させていただく」を使っている。どういう言葉を使おうがもちろん自由だが、やはり気になる。ではなぜ、これだけ「〜させていだたく」に象徴される過剰な敬語が氾濫するのか。
とにかく表向きへりくだっていれば文句は言われないだろう、という気持ちの表れなのか。その理由をあれこれ考えてみると、いまの社会のある種病理のようなものが見えてくる。これについては、改めてご報告したい。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/24488?page=4
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