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【ムラの掟 原子力“先進国”の構造(中)】「デジャブ」な規制機関再編劇
http://sankei.jp.msn.com/science/news/110925/scn11092521100001-n1.htm
2011.9.25 21:09 産経新聞
「あのときと同じ。デジャブ(既視)だ」。原子力規制をめぐる議論を、こう評するのは、原子力安全委員会の委員長代理を務めた大阪大名誉教授の住田健二(81)。日本原子力学会長も務め、日本の原子力発電を黎明期から知る人物である。
福島第1原発の事故では、経済産業省に推進側の資源エネルギー庁と、規制側の原子力安全・保安院がぶら下がり、「アクセル」(推進)と「ブレーキ」(規制)が同居する組織形態が問題視された。
原子力の分野でいかに実効性のある規制機関を持つかという議論は事故やトラブルのたびに繰り返されてきた。しかし結果として、規制機関は原子力ムラの中で常に「頼りない存在」にとどめ置かれてきた。
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「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」。1953年、当時の米大統領、アイゼンハワーが国連総会で行った演説にあった言葉だ。
戦後復興期、エネルギー不足にあえいでいた日本は「夢のエネルギー」への期待を膨らませ、原子力開発に突き進んだ。その中心的役割を果たしたのが、昭和31(1956)年、後の国務大臣、正力松太郎を初代委員長として設置された原子力委員会だった。発足時はノーベル物理学賞の湯川秀樹、経団連会長だった石川一郎ら大物が委員に名を連ね、推進、規制などを一手に引き受けた。
昭和45年以降、新原発が次々と運転を開始し、ようやく原発大国への道を歩み始めた矢先に、原子力船「むつ」の放射線漏れ事故(昭和49年)が発生。これを機に原子力委が推進と規制の両方を監督していることへの不信が噴出した。
これを払拭する目的で53年、規制機能を分離した原子力安全委員会が新設された。一般原発の商業炉は通産省(現経済産業省)、研究炉などは科学技術庁(現文部科学省)と、それぞれ推進役でもある監督官庁が施設によって規制を担当。その適正さをチェックするのが安全委の役割だ。首相を通じて行政機関に勧告権を持ち、形の上では独立性も担保されていた。
しかし、実際は、安全委の事務局は、科技庁原子力安全調査室に置かれていた。「安全委の“実行部隊”である安全調査室は、監視対象である原子炉規制課と部屋が隣り合わせで壁もなく、自由に行き来できていた」(当時を知る原子力関係者)という。肝心の「独立性」もあやしいものだった。
そして平成11年、茨城県東海村のウラン加工施設でJCO臨界事故が起きた。監督官庁の科技庁が中心となって対応し、安全委は主体的に動けなかった。このため、「今回のように『規制側』を『推進側』から独立させる必要性が叫ばれた」。JCO事故で事故収束の陣頭指揮にあたった住田は振り返る。冒頭の「デジャブ発言」はこれだ。
JCO事故後、安全委の事務局は総理府に移され、人員は5倍に増強されたが、科技庁など後ろ盾となっていた関係機関とのつながりが薄まり、影響力はかえって低下する皮肉な結果につながった。
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現在の安全委と保安院のダブルチェック体制を生んだのは、13年の省庁再編だ。経済産業省の傘下に、科技庁の一部を取り込んだ保安院が新設された。
推進側の経産省の下にある保安院に本当の規制業務ができるのか、当初から疑問視する声はあった。経産省との人事交流もある。「重要な判断を迫られる局面で保安院はいつも、安全委ではなく、電力会社の側についていた」と住田。実行部隊を失って影響力を低下させた安全委、見せかけの独立性をまとった保安院。いずれも中途半端な存在で、かえって責任の所在は曖昧になった。
保安院初代院長を務めた佐々木宜彦(67)は「規制機関の一元化は国際常識で、日本は特殊だった。ただ、出来たばかりの保安院に、制度がおかしいと、自らが言うこともできなかった」と悔やむ。
安全規制の独立性の確保なしに、原子力への信頼回復はありえない。だが、規制当局の背後に旗振り役が存在するという「原子力ムラ」の力学が働き、骨抜きにしてきたことは歴史が物語る。そして、それは、これまで原子力行政とは無縁だった環境省の下に新設される「原子力安全庁(仮称)」にも暗い影を落としている。(敬称略)
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