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武谷三男
「放射線というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる。・・・
・・・・つまり、許容量とは、利益と不利益のバランスをはかる社会的な概念なのである。」
許容量とは、生物学的に安全な基準ではなく、社会的な概念だとさ。
ところで武谷さんって、どなた?名前は、むかし聞いたことありますが。1967年いうたら、まだ保育園にも行ってない頃か。
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長塚洋一さんのブログ Supersymmetory Brothers より
2011年9月14日 (水)
『安全性の考え方』武谷三男編
岩波新書 1967年
公害が一番問題になった時代の本だ。目次は下のとおり。()内は筆者。また、扱われている公害などの事件を付記した。
主婦のちから(高田ユリ) ・・プラスチック食器からホルマリンが溶け出す問題
小児マヒと母親(久保全雄) ・・ポリオ・生ワクチンの認可の遅れ
水俣病(宇井純)
公害の街・四日市(吉田克己) ・・ぜんそくなど
沼津市・三島市・清水町の勝利(星野重雄) ・・石油コンビナート建設に対する反対運動
三井三池の悲劇(河合武 資料提供:細川汀、金子嗣郎) ・・一酸化炭素中毒の後遺症
白ろう病(山田信也)
原子力の教訓(河合武、藤本陽一)
薬の危険性(高橋晄正) ・・肝臓の働きを促進するという薬の危険性
加害者と数字(三須田健) ・・統計などの数字にだまされない正しい見方
「原因不明」のからくり(川上武) ・・事故調査委員の問題点
法律の限界(熊倉武) ・・民法、刑法上の公害などの扱い
安全性の哲学(武谷三男)
学校の教科書で習ったような代表的な公害に加え、今ではあまり顧みられないかもしれない公害闘争の記録もあり、資料的な価値が高い本だと思う。全般に、企業が公害をまき散らしながらも犯罪にも問われず責任も問われない状況に対する抗議が根底にあり、そのための対抗勢力として旧左翼系、労働組合系の運動を評価するトーンになっている。労働者、市民の視点にたって書かれた本で、徹底して企業の横暴が批判されている。しかし、時代だったんでしょうか。今読むと当時の企業は本当にひどい。これらの運動を経て今があるという事を忘れてはいかんなと珍しく思った。世の中、少し進めるだけでもの凄く力がいるんだなと。みんなの。
「3 水俣病」には、次のように書いてある。
「こういう事件の経過には、一定の順序、あるいは定石のようなものがあるらしい。「公害」が発生した当初は一体何が原因なのかさえわからない。考えられるたくさんの原因の中から、長い間かかって一番確からしいものが洗い出されると、その段階ではじめて加害者から猛烈な反撃が起る。原因となった工場や発生源ばかりでなく、中立をよそおった学者や公的な機関まで動員される。反論の声が大きく、数も多いということになると、事件の外から見ている人にとっては、どれが本当なのかわからなくなる。こういう状態がつづいて、世間の関心が別の事件にうつってしまうまで反論がくりかえされる。」
これが過去の大きな公害事件のほぼすべてに当てはまるのは本書の他の事例を読んでいてもよくわかる。また、こんなことも。
「地方行政の組織にも問題は多い。最大の問題は、日本の地方自治が自立をあきらめてしまっている現状にある。水俣病の初期に、保健所や医師会が自分たちの手で行った調査は、原因の究明に大きな役割を果した。しかし、行政の問題としては、市は県へ、県は厚生省へと、順送りに対策を要求し、予算を要求するだけだった。」
この自治体の姿や、企業側の正しさを証明する結果を無理にこじつける研究をしてしまう学者など、どこかでみたことがあるわけだが、貧しさがその理由としてあげられているのには時代を感じさせる。そんなに貧しくないはずの現代では、何と言えばいいのだろう。
また、市民運動においては、この役所の硬直した姿勢を認めず、それぞれの階層(中央、県、市のそれぞれのレベル)でそれぞれが最大限の努力をするように要求しつづけることの重要性が説かれている。問題を上へ順送りするようなやり方を認めると、必ず問題がぼかされるからだと。住民の手の届かないところでたてられる対策が住民の役に立つことはまず絶対にないと断言されているあたりでは、思わず福島を思いだす。
福島と言えば、ビキニ水爆の第五福竜丸の被曝に関する米国との交渉のなかで許容量に関する議論が出ている。昔は、許容量が随分高かったことがわかる。1934年のICRPの勧告(このころにはすでにあった)では、一週間に1レム以下というのが職業で放射能を扱う人の許容量だったというのだからすごい。1レムは、0.01シーベルトすなわち10ミリシーベルトだ。一年では、500ミリシーベルトになる。その後数字がみなおされて一週間に300ミリレム、一般の人は30ミリレムとしたがとくに根拠はなかったらしい。これは、それぞれ、3ミリシーベルトに0.3ミリシーベルトで、一年では、150ミリシーベルトと15ミリシーベルトですね。職業人の方の基準が今とあまり変わらないのは、仕事にならないからだろう。
その許容量というものは、それ以下では障害が起らないというものではないということは当時から明らかで、そこに武谷さんが許容量の概念を明確に定義する。
「放射線というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる。しかし一方では、これを使うことによって有利なこともあり、また使わざるを得ないということもある。その例としてレントゲン検査を考えれば、それによって何らかの影響はあるかもしれないが、同時に結核を早く発見することもできるというプラスもある。そこで、有害さとひきかえに有利さを得るバランスを考えて、”どこまで有害さをがまんするかの量”が、許容量というものである。つまり、許容量とは、利益と不利益のバランスをはかる社会的な概念なのである。」
ICRPの勧告のなかにもこの考え方は浸透しているが、当時はまったく独自に日本が提案した考え方だということはもっと知られてよいと思う。このあたりの科学者の活動は、岩波新書『死の灰』、『原水爆実験』にくわしい、と宣伝が入っているのはさすがだ。
『新原子炉路お節介学入門』の最初に京大原子炉の用地がなかなかきまらなかったことが書かれているが、本書には、まさにそのひとつの候補地吹田でのやりとりが出ている。原子炉を建設したい学者と、反対派を応援する武谷三男の討論がなかなか面白い。大阪大学の助教授Sさんという人がでてくるが、柴田さんだろうか。読む限り、武谷さんの理路整然とした批判に答えられずに推進側完敗に見える。武谷さんの原子炉の安全に対する考え方は、柴田さんのそれとまったく同じで、これも面白い。
最終章は、その武谷さんの安全性の哲学が述べられている。微量長期の問題という、まさに今われわれが放射能で直面している問題について許容量との関係で述べている箇所の現代性にも驚くのだが、むしろ僕が注目とたのは、「公共」について述べた次の箇所だ。
「何といっても、専門知識以前の概念の分析ということが非常に重要なのである。専門的に、技術データを集めたところで、そのデータをどういうふうに使うかという考え方、いってみれば ”文明とか、公共という名における高度の哲学” というものがないといけない。概念の分析が十分でないと、かえって逆の結果を招くことになるので、科学者はもちろん、すべての人が、そういう高い立場の哲学を持たないといけない。ところが日本には公共という概念が完全に欠如している。日本で公共というのは、お上、国家と同義語だった。」
「技術者をはじめ、公共とか公衆とかいう感覚のない人、足りない人に、どうすればそういう感覚を植えつけることができるかということが、これからの大きな問題である。」
「日本はいまだに身分制が強いというのも問題だ。外国では”職能”という観念があるが、日本では、技術者として会社に入っても、すぐ管理職への昇進ということを考えるようになって、技術者としての職能意識を忘れて企業の歯車になってしまう。そういうプライドを失った技術屋さんでは、技術者の人権、研究者・科学者・技術者としての権利、危険を指摘する権利というようなものが、なくなってしまう。」
「根本的には憲法の”基本的人権”をちゃんと守るということだ。日本では公共の福祉のために基本的人権を制限する方向でのみ公共という言葉が横行している。しかし、本来公共の福祉のために制限さるべきことは”特権”であって、”人権”ではない。基本的人権を守るためにこそ公共の福祉があるのだということなのである。それこそが、「安全の哲学」の根本である。」
著者の嘆きと同じことを違う確度から、『新原子炉お節介学入門』 (第六回) で考えた。この問題は、武谷さんが書かれているように公共意識の少ない人にどうやってその感覚を植えつけるのかという問題の解き方では決して解けないと僕は思う。 これは、次の宿題にしておこう。
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