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長塚洋一さんのブログより転載
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『科学大予言』 武谷三男
カッパ・ブックス 1983年
武谷三男さんは、物理学科の学生で弁証法を学ぼうとしていた僕にとっては先達といえる。この本は、たまたま図書館の索引で見つけて借りだしたものだ。武谷さんの本といえば、勁草書房の著作集しか知らないから、カッパ・ブックスで、しかも、こんな軽いノリで俗流自然科学者ばりの予言本を出していたのは意外だった。読んでみても、センセーショナルな見出しや文体で一貫しており、『ノストラダムの大予言』あたりから流行していたオカルトや似非科学、自然科学本の系列にきちんと収まる出来栄えである。ただ、対話から文章おこしされたものなので、このあたりは編集者の裁量で飾り付けされたものとみるべきなのだろう。
書かれている内容は、コンピュータについて批判している部分にやや無茶な論理があったり、現実に今の状況で見れば予言が外れたとみられる部分も多々あったりするため、元来が大衆向けの娯楽本の一ジャンルであることを考えると、まじめにとりあげにくいところも多い。普通なら読み捨てて終わりで、書評も出ないだろう。
しかし、さすがだと思わせる所も少なくないので、それらについて少し紹介してみたい。とくに、原発や放射能汚染に対する予言はほとんどあたっているのではないか。カッパ・ブックスは、シリーズ自体中断しているし、本書ももう古書店か図書館でしか入手できないと思うので、興味を持たれた方は是非探して読んでみてください。
まず、放射能汚染だ。
研究機関などでの放射能汚染事故は、毎年のように繰り返されているというところからだ。それが、微量であっても、放射能汚染にかかわる事故で、環境に影響のないものなど科学的に言ってありえないと述べる。我が国での放射性物質の扱われ方はずさんであり、公的機関での事故は表面化せざるをえないが民間の事故は単に表に出ていないだけではないかという。ついで、いわゆるフォールアウトによる地球の放射能汚染が進んでいることを指摘して、これは、地球規模で人間に平等に襲いかかる未来型公害と見る事ができるのだという。また、具体的に、ストロンチウム90とセシウム137という今や日本でも有名になった核種が原因となって、1954年以降に生まれた人にガンが激増することを予言している。しかし、問題なのは、ガンの増加がこれらの放射性物質のせいかどうかをつきとめるのが困難なことであると、このような放射性物質の恐ろしさを描きながら、まさに今福島に起こっている事態を武谷さんは予言する。
「しかし、他人事ではないのだ。現代では世界中のだれもが、マーシャル諸島の住民と同じように、モルモットにされる可能性をもっている。」
放射能汚染にも関係する大事な話しがもうひとつ書かれている。これは、著者が繰り返し説いているところだが、「許容量」ということの意味である。武谷さんは、政府当局者や科学者がこの言葉を科学の概念のように使っているうちはわれわれは救われないという。どこまで摂取しても大丈夫かという意味のこの概念は、本来は次のように解釈すべきだと武谷さんは言うのだ。
「「許容量」というのをたとえて言えば、学者や政府の側からすれば、「人間はここまで暴力を使っても死なない量」という意味である。・・・(略)・・・これをわれわれの実感から解釈すると、じつは「暴力に対してがまん(太字は原書では傍点)しなければならない量」ということになる。」
これは、武谷さんがビキニ水爆実験の時に米国原子力委員会と争うなかで明確にしたことだと書かれている。また、許容量という言葉を使う事が認められるのは、レントゲン検査のように当人が受ける利益が多いと思われるときに「その量までは仕方ないだろう」としてやむをえず受けいれなければならないときだけだと言い切っている。この考え方は、ICRPの勧告ですら今や配慮れていると思われるのに、日本の科学者の常識には必ずしもなっていないことは今回の事故で図らずも暴露された。これは、日本の原子力関係の科学者の水準を示すものと考えてよいのではないかと思う。僕自身はといえば、武谷さんと考え方はまったく一緒である。バックグラウンドを超える放射能を受け入れる義理はまったく無いのである。それが、政府に対してものを言うスタートラインであって、どこまで許容できるかという話しはその次に日本全体で受け入れざるを得ない事実として考えるべきものである。
次は、確率論に潜む問題だ。100年に1度の事故が年に1度起こる、という小見出しが雄弁に語っているように、確率論がいかにあてにならないかについての指摘がなされている。今度の地震でも、これを教訓として今後に生かすのに数百年単位の確率に対して防御策を講じるのかということがまたきっと問題になると思うが、他方で、確率が低くてほとんどおこりえないと考えられているような故障や事故が起きてしまうということが存在し、しかもそれが今後増えていくことが指摘されている。これは、実は僕自身、何度か経験がある。システムの構成要素で確率的には起こりえないと考えられている事象が二年続けて発生したというようなことである。こうしたことが起こるのは、確率というものが試算される際に、影響を受ける依存関係や拘束条件を考えに入れるのが難しいことを意味する。解かなければならないのは、非線形な要素がでたらめに関係しあった複雑な問題なのだが、そのままでは計算機で処理できないために単純化したモデルを用いて計算した数字を元に、限定された議論をしていたはずなのに、その数字がいつのまにか一人歩きした結果とみて、ほぼ間違いないと思う。著者は、「あてにならないコンビュータ処理」とコンビュータに責任の一端を負わせているが、それはあながち間違いとも言い切れない。最初の前提や初期条件が示す狭い範囲でのシミュレーションに過ぎないことをしばしばコンピュータ利用者は忘れてしまいがちだからだ。しかし、それが笑い事で住まないのが、巨大技術分野でも、そのようなお寒い事情がないわけではないと想像できるからだ。数字は、言い訳の材料としてはとても使い勝手がいい。議論の都度引き合いに出しているうちに、前提条件が外れて絶対化していく。こうなったら、それを前提として全てのストーリーを描かざるを得なくなる。技術者を統括するのが、技術に暗い官僚だと、こんなことはしょっちゅう起こっていても不思議ではない。
再び、原発。スリーマイルの事故後にアメリカの研究機関が計算した結果によると、日本の原発が大事故を起こす確率は8年から25年に一回だという。ただ、これは24基の稼働中の原子炉に対してのものなので、50基なら4年から13年に一度になるという。平均すれば、だいたい10年に一度だ。こんな確率論にどれだけ意味があるか分らないが、実際そのようになっている。また、アメリカの原子炉は一基に対して年間42回の故障が起こっているのに対して、日本は年間一回だという。これは、事故を隠しているとしか考えられないと著者は指摘する。豊田有恒さんの本について同様の指摘をしたが、これは多分ただしいだろう。
事故調査委員会の問題についても触れている。被害者の側や第三者の立場の人間をいれないで、官僚や政府指名の学者が現場に群がって内輪で処理してしまう結果として、「原因不明」で片付けられてしまうものがともかく多いのだと言う。いちいち、今回の事故を思い浮かべながらうなづいてしまうのである。原因不明でなければ、人的ミスとして運転者の責任にされ技術そのものの問題は問われない。こうした性格は、現代の技術体系の軍事的性格の強さに由来するのだと著者は断言している。実は、この箇所を読んだことがこの本を紹介しようと思った理由だ。巨大技術は、すべからく米国の輸入品であること、そしてそれは米国国防省製であること、このことの意味のもつ重要性に気づいたのは僕自身ごく最近のことだ。著者は、続けて、戦争が科学技術を進展させるというのは妄信であり、それは科学技術を堕落させただけだと言い切る。その象徴として例にひかれるのはスペース・シャトルである。行ったきりで帰ってくる事を要求しない軍事技術の集大成がこれだというのだ。スペースシャトルの大事故をもって、高性能至上主義技術の時代は終わり、安全至上主義の科学・技術の時代が始まらなければならない、と。チャレンジャー事故は本書の発行の三年後、しかも現在は、その維持費の問題と安全性の低さから運用が終了し、今後の有人飛行については不透明なのが現状だ。
最後も、原発。30年後、原子力発電所は超粗大ゴミと化す、としている。なんと、30年後とは、2013年、今から2年後である。ウランが低廉に入手できるのはそのあたりまでだからということとならび、安全性が犠牲にされていることが理由としてあげられている。慧眼、恐るべしである。
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