http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/500.html
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http://supersymmetry.air-nifty.com/blog/2011/09/post-f8ad.html より転載(一部投稿者注釈してます)
長塚さんも述べているように、原発の是非はおいといて、日本の巨大プロジェクトの抱える技術的な問題点について、明快に述べておられます。
長塚さんへツイッターにツイートする方法も知らない(ツイッターということばしか知らない)ので、勝手に転載させていただきます。
2011年9月13日 (火)
『新原子炉お節介学入門』元京大原子炉実験所長 柴田俊一著(2005) (本編 第六回:最終回)
〔投稿者注
柴田俊一:兵庫県生まれ、加古川商業学校中退、村野工業学校、神戸高等工業(現神戸大学)精密機械工学科卒
陸軍技術少尉、川崎航空機で、軍用輸送機の設計・製造に携わる。
大阪大学工学部電気工学科卒、阪大助教授、京大原子炉実験所所長
時代的には、今中さんや小出さんの上司にあたるのか?
『新原子炉お節介学入門』柴田俊一著(2005) の前著は、「原子炉お節介学入門上・下」。これを読むと、シバタさんは、阪大時代、電気工学の授業はほっといて、理学部物理学科の量子力学などの授業をうけていたらしいが、理学部物理学科の秀才どもと自分を冷静に比較して「こんなやつらとまともに勝負したら死んでしまう」と悟り、以後技術屋としての研究者を歩む。
この「原子炉お節介学入門上・下」には、大手の原子炉メーカーの課長に説教する場面がありますが、爆笑もんです「わたしをただの大学教授とお考えだが、・・・・・・」図書館で見つけたら読んでみてください。以上長い注釈終わります〕
だれか、このブログをあるサイトに転載してくれた人がいて、いくつかの書き込みを読んだ。だらだらと長文を垂れ流すなという意見が面白かった。たしかに、ちょっと長いな。自分でも飽きてきた。もちろん、一応意図があってのことなのだが。さらに続けてこの方は、責任とれれば原発もオーケーという理路らしいがと書いているのだが、もちろん、僕自身はそんなことは一言もいっていない。柴田さんも別にそんなことは言ってない。元々柴田さんは、資源小国では原発開発は不可避だという立場だ。その上で、この危険なプラントを開発・運用していく体制に問題があり、このままでは大事故が起こるということを警告しているのにすぎない。原発が「オーケー」かどうかはまったく別の問題である。また、柴田さんの本をだしにしてここで僕が問題にしているのは、原発が是か非かということではない。原発を人間が開発・運用するための技術的な基盤が信頼に足るものなのかどうかを問題にしているのだ。特に、日本における巨大技術の限界、官民で遂行するプロジェクトの限界がどこにあるのかをだ。原発が必要か必要でないかの政治論を聞きたいなら「今」ここに来ても仕方ない。他へ行ってくれたらよい。
今回の主題は、第一回目に書いた図でいえば一番上のレイヤーに相当する。全体を統括するということ。官民のプロジェクトの課題、日本における大規模プロジェクトの課題はこの部分に象徴的に現れる。責任をめぐる議論は、国民に重大な影響がある計画についての統括をどう行うかという技術的な問題の側面と、国家や社会の体制にまつわる許可や認知の問題との二つの側面がある。厳密に言えば、柴田さんはその双方のあり方に対して疑問を呈しているといっていい。この責任の問題については、非常に多くの人が誤解している。本当の問題は、開発の現場においてとられるべき責任がないがしろにされ、さらに、本来は、市民、社会が負うべき責任が隠蔽されることで、市民が適切な判断を下す機会を奪われてきたことにある。隠蔽して目の届かないところで秘密裏に処理された「責任」は、誰にもとられることなく、誰が招いた事故なのかすらよく分からない中、この破局まで至っているのはほぼ確かだと僕は考えている。この無責任についての体系が、太平洋戦争の敗北とまったく同じ様相を示している点にこそ、この福島第一の事故の根深い問題があるのだ。「日本人全体」の責任について頭を悩ますくらいなら、むしろ責任をとることを禁じられてうまくあやつられたということに本当は怒るべきなのだ。
僕はこれまで、よくあるように、原発を必要悪のようにみなしていた。現に3割の電力を原発が供給し、石油が枯渇したり産油国の生産調整に多大な影響を受けたりという状況があるなら、エネルギーの供給源を複数用意しておくのはいたし方ないのではないか、という程度の認識だ。しかし、ここ数年、自然エネルギー開発や分散発電、スマートグリッドなどに消極的な電力会社の姿勢やその独占的な体質を知るにつけ、これは少しおかしいのではないかという疑問を抱くようになった。原発は二酸化炭素を出さないクリーンな発電だという気持ちの悪い宣伝パンフレットを眺めていても、原発がクリーンだなどとは到底信じられないのに、それが当然のように宣伝される様は少し異常だった。原子炉の冷却のために大量の熱を海中に放出しているのは温暖化と無関係なのか?海水温の上昇が異常気象の原因になりえるとしたら、原発は本当に無実なのか。燃料の採掘から運搬にいたる過程、使用済み核燃料にまつわるいまだ解決しない保管や運搬、リサイクルにまつわる不可能性の問題、思いつくのはダーティなところばかりなのに、なぜ原発はクリーンだなどという訳のわからない宣伝をしているのか。そこにこの事故が起きた。テレビで原子力関係者の姿を見ている内に、その裏にある無責任体質についてはほぼ疑いえなくなった。
柴田さんは、リスクのある新技術を用いた開発について触れて次のように書いている。
「似たようなことがロケットの場合にもある。打ち上げに度々失敗して、最近、これからの進め方についての提言が出たが、その中に少々のトラブルは容認してほしい、ということが述べられたようである。このことは原子力でも同様で、進歩の過程で起きる失敗を恐れては満足なものはできない。しかし、容認してもらうためにはその前の努力と責任の取り方が条件である。例えば大きな予算を無駄にしたときは退職金なしの辞職をする。原子力の場合は、自分は安全な状態においたままやるべきことをやらず、一般大衆とか、部下の現場作業員に危険を追わせた場合は、刑事罰まで含めた解職処分とするなどである。また、現実には難しいことだが、その責任者には今までの研究者、技術者の護送船団方式とは違って、然るべき特別強力な権限と待遇を与え、その代わりに、責任を取ってもらうという方法が必要であろう。
真似でない自主開発には体質を改めることが必要で、誰が責任者だか分からず、いつも解説だけでお茶を濁されては、堪忍してあげようにも誰が相手か分からず、腹が立つのは当然である。」
大規模プロジェクトでは、責任を体系化して垂直統合の構造にするのが普通である。少なくとも、経験的にはそうでないとなかなかうまくいかない。多少なりとも僕の知っている分野は、宇宙開発でも情報システム開発でもその他のプロジェクトでも大概そうなっている。現実の問題として、極めて危険性の高い大規模プロジェクトについては垂直統合型の管理体系しか成功体験をもたないのが現在までの一般的な科学技術の状況なのである。垂直統合型の管理体系とは、責任の階層化による管理を意味する。システムを分割し、分割した構成要素ごとの責任者を決め、複数のコンポーネントを束ねる責任者、開発の責任者と運用の責任者、そして全体の統合に関する責任者、という具合に責任階層を組み上げることで、プロジェクト全体の意思統一をはかり、当初の目的に効率的に答えようとするわけだ。「責任は、どこへ行った?」の議論が必要になるのは、実際にはそうした常識においてのことである。
こうした文脈においてみるとき、日本の原発で、体制の上にいくほど責任の所在が曖昧になっていたことが、いかに危険な状態だったかは、この一連の危機対応を見ていれば自明であろう。管理されるべき情報が管理されず、指揮系統が乱れ、憶測が乱れ飛ぶ。情報がないから、官邸は最小限の情報しか出せないために不信感が増幅し、事故対応にあたる現場との意識にも乖離を生じる。全ては、マイナスの方向に働いてしまうのだ。はたして、このたび選任された事故調でどこまで真実に迫れるのか分らないが、事故対応の拙さが傷口を広げた可能性だってあると思う。また、そもそも、そのような体制しか作れない曖昧な責任体制、その体制の脆弱性がいきつくところは破局的な事故であるということをずっと柴田さんは問題にしていたのだ。また、僕の視点からは、それが、原発固有の問題ではなく、多かれ少なかれ我が国のあらゆる分野に見られる現象であること、それが腐敗ではなく敗戦をくぐってなお変わらない日本人の特質なのではないかということ、そうした点にこそ今回の事故が示している問題の深刻さがあるのだ。この問題の深刻さは、いくら強調してもし足りない。政府の予算編成はなぜ膨らむ一方なのか、年金制度改革はなぜ進まないか、税制改革がいつも煮え切らないのはなぜか、例をいちいちあげたらきりがないが、道路公団や社会保険庁の腐敗は言うまでもなく、日本の官僚機構の改革が再三叫ばれても、いっこうに官僚制度改革が進まないのも同じ事だ。民間でも同じような情けない事件が連続して起こり、毎度おなじみの謝罪会見の光景がテレビで繰り返されるのには明確な原因がある。ただ単に役人の腐敗とか、なれあいとか、談合体質とか、日本人の堕落とかの言葉で済ませることはできないのだ。
「責任を取る気のない人、何かあったら困る人、何かあったら他の人のせいにする人ばかりでは、この資源のない国は立ちいかない。そういう人達は自分だけの立場を守っているだけならまだしも、自分と違う考えで進めようとするのを妨害する傾向がある。せめて妨害だけはやめてもらいたい。何かあれば責任は取ると言っているのだから。」
柴田さんのいう資源小国云々の意見には、現時点では僕は同意できないが、上にも述べたように数年前なら特に違和感なく受け入れていただろう。小学生の頃から日本には資源がないと繰り返し聞かされてきているし、太平洋戦争の原因にしても敗因にしても資源と無関係ではない。まして、戦争経験者が日本の戦後において核エネルギーに将来を見出しても少しも不思議ではない。実際、戦後の長い間、原子力が希望の灯だったのは鉄腕アトムが証明してくれている。また、戦後の体制の中では、軍事技術は御法度だった。原子力にも原子爆弾に代表されるマイナスの側面と原子力発電に代表されるブラスの面があり、日本はブラスの面だけに関わるものと信じられてきた。宇宙開発についても同じことが言える。日本は、宇宙技術の軍事転用は行なわないと、神経質なまでに喧伝されていたはずだ。今となっては、これもプロパガンダであったかと思う面もあるのだが、政治家からの発言として、実際には核兵器開発のための生産設備の維持、技術力の維持という裏の目的があったことが既に明らかになっている。これについては、最近刊行された山本義隆さんの著書『福島の原発事故をめぐって』に簡潔に説明されている(この本については、機会をあらためて書きたいと思う)。しかし、そのような暗い政治家の思惑とは別に、科学技術者は合法的に獲得した研究開発の機会をある意味では無邪気に利用し、その平和利用を本当に願って、ここまで原子力開発を進めてきたのだ。これは、上の柴田さんの言葉によく現れている。ただ、責任はとるといっているのだから、邪魔をしないでほしい、という時のその責任は本当に取れるのか、ということについて今はもう問題にせざるをえない。原発事故後ですらこの問題は曖昧に放置されたままなのだから。
では、その責任とはどのような責任か。技術側の責任とは、その結果が予期した通りにならなければ、取り得る対応を取って一般の人々に影響が及ばないようにすることを約束するということだ。あるいは、正しいとしていた理論に間違いがみつかればこれを修正して、本来の正しい姿に戻すことだ。それができなかったなら、上に引用したような「責任」をとる覚悟をもつべきだと柴田さんは言うだろう。だが、想像にすぎないが、こんなことを言い出したら、技術者は集まらないのではないか?特に責任の重い政府委員会などを作ってしまったらなおさらだ。なぜ、そんなリスクを冒してまで、元々危険な原発の開発、運用に携わらなければならないのか?そんな理由は、普通の人間には存在しない。だからこそ、そのようなリスクから徹底して保護することで原子力関係者をつなぎとめてきたというのが真実だと僕は考える。班目委員長が少しも悪びれることなく、自分達に責任はないと言い放つのは、そういう約束だったはずだという「心の叫び」にしか聞こえないのだ。
それでは、最後の引用だ。「だらだらと」長く続いた引用もこれで終わりである。
「自主開発より導入方式の方が楽だが、本当の力がつき難いからいつまでも問題が残る。政治家や経営の首脳は、担当の技術系の人から僅かな例をうまく引用して説明されると、日本はハイテク、能力は優れていると勘違いする。何が本当に足りないかを真剣に考える時機なのだが。」
「最近は新しい問題が起こると、それを解決するというより、その問題からの逃げ道を探るようになってきた。問題が起きて外国の真似もできない場合、解決する経験、実力は蓄えていないから、本質的な解決はできない。失敗して立ち往生という例が随所に見られる。」
「原子炉技術について基礎、基盤から築いて組み上げるということをしないで、見掛けだけのいわば砂上の楼閣構造がJCOまで行き着くことになってしまったのは必然であったと少々不謹慎だが、敢えて言わせていただく。」
「今までのトラブルについては、この辺の事実は全く明らかにされず、結果の現象だけが対象にされて無難な結論にまとめられている。計画、手続き、設計、製作、点検、監視、保守などを通した総合的な検討の上、部分的あるいは局部的に優れていても、これらを総合的にまとめる、ということでわが国の技術は到底一流国とはいえないレベルと考えられる。国民性、教育、社会制度等何が原因か、明確に分かるわけはないが、とりまとめの責任者を決めない、また決められない、というのが一番大きな理由ではないか。適当に権限は分割して持つが、いざというときは誰も責任を取ろうとはしない、また取らなくてもいいシステムを工夫して作り上げる。こういう性格のシステムでうまくいく方法はどこかの前例をそっくり真似する方法しかない。しかし真似するとか、そっくり買い入れるのは「ハイテクの国」としては体裁が悪い。部分部分で思い思いに工夫、変更を加える。これは当然統制を取ることなく、勝手に行なわれる。値段も上がるし、機能的にも問題が起こる可能性が増える。」
日本がハイテクの国などフィクションだと言わんばかりだ。とくに、総合的に全体をとりまとめる責任者を決められない体質について嘆いている。だが、ここはもう少し正確に言いたい。もちろん、日本にだって優秀なエンジニアは大勢いるのだ。PMだってSEだって、長年経験を積み修羅場をくぐった技術者がいて、初めて多くのプロジェクトが成功しているのは間違いない。それなのに、なぜこのようなことが言われなければならないのか。米国はどうだろう。米国が、戦争でも宇宙開発でも独力で方法論を築き上げ実際にプロジェクトを遂行してきたことは疑い得ない。原爆もハイテク兵器開発もインターネットもアポロ計画もジャンボジェト機もスペース・シャトルや宇宙ステーションも最終的にはなんとかしてきている。原爆はともかく、日本人もどれだけアメリカ発の技術やプロジェクトの恩恵をこうむっているのか分からないほどだ。では、日本発のものはどうだろうか?新幹線を初めとして思いつくものはいくつもあるが、どこかみんなでがんばるという世界が展開されているような気がしないだろうか。『プロジェクトX』というテレビ・シリーズがあったが、あれはプロジェクト管理の専門家から見るとプロジェクトではない例ばかりが出てくると言われる。プロジェクトは、開始と終了が定義されWBSとマスター・スケジュールで管理され、もっと組織立った進め方がされるものであり、行き当たりばったりにしか見えない発見の過程はプロジェクトとは呼べないというわけだ。研究や開発の本当に探求のようなことがテーマである場合、確かにこのようなプロジェクト体制は敷きにくいわけだが、それにしてもという感覚が残る。このことはヒントになる。日本が明治維新でやったこと、つまり、まげを落とし、洋服に着替え西洋の学問を輸入し、西欧化を急いだことが可能にしたことと、可能にしなかったことの結果がこのようなところにあらわれている可能性があるのだ。
また、もうひとつ注意すべき点がある。日本が、米国が、という議論には穴がある。実際に技術を担うのは人である。この点は、非常にしばしば忘れられていると思う。技術は、書物の中にあるわけでも設計書や開発方法論のなかにあるわけでもない。それは、人の中にある。科学技術の本質は、適用にあり、適用は技術者の日々の仕事の中にしかないからだ。結果としてできあがる設計書、図面、製品やシステム、構築物は、技術そのものではない。この点では、科学技術も職人も何ら変わるところはない。科学技術者は、科学の適用に関する職人だといってもいい。現役の、たとえば、三十代くらいの働き盛りの技術者が米国と日本でそれぞれ異なる時間を過ごしているわけではない。どちらも、学び始めは同じ、直面する仕事も同じ、もっている知識だってそれほど変わりはないだろう。違うのは技術者を働かせる環境だけだ。では、その環境における彼我の差とはいったいなんなのか。情報は何でもとれるようになったこんな時代に、果たしてそれは、それほど大きな差なのだろうか。
あなたが、エンジニアなら、今とりくんでいるプロジェクトにメイン・アーキテクトが任命されているかを思い出してみよう。プロジェクト・マネージャーは、最近は大抵任命されているのではないかと思うが、メインのデザイナー、アーキテクトが明確に任命されているプロジェクトはまだ少ないのではないか?ところが、福島第一の1 - 4 号機の仕様を調べると、そのどれにもアーキテクト名が記されている。1号機は、GEの技術者の名前になっていたかと思うが、日本人の名前も見える。つまり、どこまでの認知度、実効性があったのかは別にして、日本人だって全体を統括するエンジニアを任命して仕事を統括するということは、やってきているのだ。まさに、福島第一においてすら。では、その何がまずかったのか。
今の所、これらの問題について、僕は仮説を立てることしかできない。僕の考えでは、これらの全体統括の方法論や技法が、ほとんど軍事技術から来ていることに重要な意味がある。原子力利用であれ、ロケットであれ、航空機であれ、その源をたどれば軍事技術であり、軍事研究や兵器開発から生まれた技術がベースになっている。これは、要素技術にとどまらない。プロジェクト・マネジメントやシステムズ・エンジニアリングといった開発管理やシステム統括に関する技術も、多かれ少なかれ軍隊の行動概念の影響下にあるとみて間違いない。大規模でリスクのある開発の典型は軍事技術であり、その開発における成功体験の横展開が宇宙技術やシステムズ・エンジニアリング技術なのだ。垂直統合型のマネジメント・システムが前提になるのは、この意味では当然だといえる。原発の世界で生きてきた柴田さんが統括技術、統合技術の弱さを痛感しているのも、もしかすると軍事技術とそれらが近親関係にあることと無関係ではないのかもしれないのだ。
これらの技術が暗黙の前提としているのは、集団に対する帰属意識のようなものである。軍隊は、国家に対する忠誠心がなければ成立しないが、プロジェクトはその目的に対して忠誠心がなければ成り立たない。柴田さんが、資源の乏しい我が国に役立てるために原発を研究し、それに役立つ人材を育てるという目的に忠実なのに対して、行政の世界ではそれを建前としてかがけつつも、政治的なかけひきや利権に群がる人々の中で純粋な目的の追求に対する義務の展開が妨げられる。義務は集団の目的に奉仕する概念だ。それが何たるかが忘却されたとき、垂直統合のマネジメント・システムはうまく機能しなくなるのだ。メーカーの優秀なエンジニアは企業に対する忠誠心はあるに違いない。あるいは、会社の仕事に対する忠誠心を通してお客のシステムに対する忠誠心は維持しているに違いない。これは、自分のこれまでのささやかな経験を通じてもほとんど疑う事のできない日本人の美質だと考えている。しかし、目的に関する使命感についてはどうだろうか。大規模システムといえども請負契約で仕事をするなら、仕事の範囲というものがある。しかも、それぞれのメーカーなどができる範囲もばらばらである。ゼネコンのようなところがとりまとめをするといっても、限界がある。発注は分割され、個々に責任が割り振られていけば、その過程で失われるものもある。それが、全体を通しての目的に対する忠誠だ。分割発注により、企業は、発注の仕様に対して忠誠を誓うことになるからだ。仕事の定義は当然、発注元が行う。これを行うのは、原発なら電力会社であり、法律の整備や現地との交渉も含めれば、国がやるべきことでもある。もちろん、調達に際してはコンサルタントのような企業との契約などもあるには違いない。しかし、こうした大プロジェクトの目的の設定は、どんなコンサルタントに助けてもらったところで、電力会社と国の機関が行っていることには変わりない。おそらく、ここに巨大プロジェクトが腐敗していく一番の原因がある。分割調達の仕様書の体系の中で、当初の理念や目的は薄められ、その真の担い手が消滅しているのではないか。そこに、つまり、発注元に、もし一人の全体を統括するエンジニアがいなければ、僕は、開発から運用に渡る全体の理念を統合し目的を明確にして責任をとれる形に事業を統括するのは極めて困難になると考えるものだ。
もうひとつ重要な問題がある。この国の人々には、国が目指すべき方向とか国の目的とかに対する忠誠心は、絶望的なまでに乏しいのだ。われわれは、どこへ向いているのだろう。何に向かっていくので、このプロジェクトをやっているのだろう。分りやすく言えば、こうした疑問に対して、つまり、誰も答えを与えてくれない疑問に対して答える人間が、どこにもいないということだ。それを自ら創り出す者もまた。
民主党の特に小沢一郎の「政治主導」の理念が意味するのは、この問題点の解決なのである。明治政府は、日本を世界に冠たる一流国にするという目標があった。その是非はともかく、なんとか西欧に負けない国にしようというのが一番大きな目標だったはずだ。戦後の日本に、これに代わる目標はあっただろうか。誰か、これを簡単に説明できる人はいるだろうか。三島由紀夫の自決は、この戦後の日本人の姿に対する死を賭した猛烈な抗議だった。だか、多くの日本人はこれをただの奇行ないし蛮行とみなしただけだったのではないだろうか。自衛隊員が、演説する三島にやじを飛ばし続けるのを見て、三島由紀夫は絶望したに違いない。しかし、彼は、明治以降、政府の目的意識が自動運動を始め、誰にも止められなくなったあげくに二発の原爆とともに破裂した姿に幻滅しきった日本人の大衆というものが理解できていなかったに違いない。その大衆の姿は、おそらくは江戸期と比べてもさしてかわりがない人々であり、そして、この民衆の姿は、そのまま現在のわれわれの姿でもある。われわれの中では、明確な国家像が共通のイメージにまとまることは永遠にないのかもしれないのだ。鳩山由起夫がそっと提示した「新しい公共」の概念も、おそらくはこうした日本人の姿への彼なりの提案だったはずだ。そして、政治主導も新しい公共もどちらも失速してしまったのが現在のわれわれのいる地点というわけだ。
資源の乏しい国には原子力発電が必要なのである、という定義を国はやってきた。電力会社もそのたてまえだ。では、その結論はこの国のコンセンサスなのか?もちろん、どこの国でも賛成と反対との意見がある。国が進める事業をだれもが歓迎しているわけではない。こういう点では、世界中どこでも変わらないだろう。我が国では、それをオープンな議論として、政治家も意見を述べ、市民も意見を述べ、賛成と反対の意見の基本線を引き、それらの線上で妥当な結論を導きながら進めるという普通に民主的なやり方でやってこられたのだろうか。微妙な問題なら、世界中どこの政府でも扱いには慎重になるだろうし、情報の出し方にもバイアスがかかるだろうが、我が国での情報の扱いは特にオープンとはいえない方に分類されると思う。あらゆることが機密として分類され、開く事の出来ない情報の核にあるのは、おそるべき空白ではないのかと僕は想像している。理念などはどこを探しても存在しないのだ。国を動かす原理のようなものも。官僚機構は、それがあるかのように塀をつくり、溝を掘るが、それは大事なものがなにもないことを証明しているだけだ。電力会社のビジネス、米国の要求、資源調達の動向、株価、政治家の票、省内政治や人事、天下り先の創造、様々な要因を器用に考え合わせて絶妙にバランスさせた点を大事にしまいこみ、その判断根拠を粉飾する。実際のところ、理由などなんだって構わないはずだ。原発を推進するときめたのだから、ともかく推進するのだ。なぜ推進するのか、必要なら適当に理由を考えろ。これが、自民党の政治家の指示だったはずである。世代をまたがってひきつがれていく内に、このフィクションが実体化していく。今、われわれが目にしているのは、このようにして構築した膨大なフィクションの体系がほころび始めている姿にすぎない。
なぜこの事故が日本の敗戦とかぶるのかは自ずと明らかだと思う。自動運動を始めた官僚機構という機械が破綻するときのパターンとして、それはまったく同じ姿を示さざるを得ないからだ。東京電力は、日本陸軍、東電社長は、陸軍大将だとみなせば、やっていることは何も変わりはしないと僕は考えている。
今年、豊田有恒さんの本を読んで、その手放しの日本の技術賛美を読んで批判を書いた。こんなものは輸出できないと断言した。それは、企業がもっている技術や技術者の質に対してではない。かれらを支えてきたはずの、官、学を主体とした人的ネットワークが作る産業の推進体制に対してだった。国内の原子力発電に対して、また同じ事を言わなければならない。こんなやり方では、安全な原子炉を長期に運用することなどできるとは思えない。長期にわたる廃棄物の保管や再処理など出来ると言われても到底信じられない、と。この期に及んで、なお政府のやり方は大事な情報を隠蔽し国民を信用せず協力を求めず、自分達だけでなんとかけりをつけるという枠を超えられていない。以前のべたように、本当は、この事態は政府だけではもう収拾することは不可能だ。住民の理解を得て、うまく協力しあって進める以外に危機を回避する方法はない。あまりにも汚染範囲が広すぎるのだ。そのために必要なのは、きめ細かな放射能測定と情報共有、手の足りない所は民間の手をかりてともかくみんなで仕事にとりかかるという姿勢なのだ。現在も、最重要課題は、子供と妊婦を守る事であり、基準値の議論にふけることではない。この重要性の前で、官僚的な仕事のやり方がふきとばないのなら、政治主導も新しい公共も十分には理解されていなかったと言わざるを得ない。みずからくみ上げたフィクションで、自分達が滅びるのなら勝手にしてもらえばいいのだが、子供を巻き添えにする権利は誰にも無いと言わなければならない。
ところで、垂直統合的なプロジェクト管理に対抗する考え方として、近年情報システム開発の現場で浸透を始めているのは、アジャイルと呼ばれる概念である。今は詳しく説明しないが、アジャイルには、エンジニアの水平統合的なチームワークの重視という考え方が入っている。具体的なプロジェクトでの成功例も増えていて、「方法論」としても一定の地位を占めるようになったといって構わないと思うが、しばしば議論になるのは、大規模開発でのアジャイルの有効性である。システムズ・エンジニアリングとアジャイルを組み合わせるとか開発現場の行動様式はアジャイルでも、垂直統合の管理系統は残すなど、いろいろな考え方が試行されているが、まだ十分に方法論として確立され認知されたとまでは言えないのが現時点の状況だと思う。
しかし、僕は、思い出すのだ。そんな中で、世界的に見てもめざましい成果を残したハヤブサのプロジェクトを。これは、日本人の得意とする分野、進むべき方向性がどこにあるかを垣間見せてくれた稀有なプロジェクトだったのではないだろうか。比較的小規模でも高品質のプロジェクト(製造した衛星にはいろいろと課題もあったようだが、それを乗り越えたという意味で)、チャレンジングで高リスクでも諦めない精神性、そのようなものが日本人にあることを高らかにこのプロジェクトはアピールした。そして、そのようなプロジェクトのあり方は、われわれの住む世界の次のステップを、つまり大規模技術に依存しない、軍事技術に基づかない、風通しが良く個人がきもちよく尊重され水平の広がりの中で大事業を完成させるような新しい世代の技術に基づく未来をたぐり寄せるのではないか。軍隊は有していても攻撃をしかけることを禁じられ、軍事技術由来の垂直統合管理が苦手で、目的も方向性ももたない、わが日本人が、その先導役としてうってつけなのではないか、と僕は空想してみるのだ。もしも、それが、ただの空想でないとしたら、と。
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