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ドイツ文学者で保守派論客を自認する西尾幹二氏については、80年代末から90年代初頭にかけての“バブル経済”晩期に盛んに唱えられていた「外国からの単純労働者の受け入れ」に明確な論理で反対の論陣を張っていたのをNHKテレビで見て以来、価値観的な違いはありながらも、好意的にウォッチし阿修羅にも彼のブログからいくつかの記事を転載した記憶がある。
「外国からの単純労働者の受け入れ」は、財界は“利益追求”の観点から、リベラル派も“国際化”や“貧民救済的思い”から賛意を示していた。
西尾氏は、ドイツの事例を引きながら、この好景気がいつまでも続く保証はなく、合法移民であれば家族も呼び寄せ子どもも生まれる。日本人は、不況になったときも、彼らの面倒をきちんと見ることができるのか?と問いかけ、そのような経済状況下で生まれる“修羅場”を避けるためにも、安易に外国から単純労働者を受け入れるべきではないと主張していた。
原発に関しても、いわゆる保守派としては珍しく3.11の原発事故後早い段階から「脱原発」を唱えてきた。
今回のSAPIOへの寄稿文でも、原発に関する保守派の言動をいくつか取り上げながら、その姿勢を強く批判している。
原発に対する西尾氏の根底にある考えは、
「1回の失敗が国家の運命にかかわるような技術はおおよそ技術とはいえない。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ、リスクは無限大に等しい。それが原発なのである。」
というものであろう。
少し前にインターネットに掲載されたもののようだが阿修羅をざっと見たところ転載されていないようなので引用させていただく。
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保守言論人の「脱原発」宣言!「守る」とは何か──。
目覚めよ、保守派! 経産省の幻想に由来する原発事故は鉄道官僚が暴走した中国の新幹線事故と共通する
(SAPIO 2011年8月17日・24日号掲載) 2011年9月5日(月)配信
文=西尾幹二(評論家)
福島第一原発事故後、日本社会は「脱原発」へと向かい始め、「反核・反原発」推進派の勢いが増している一方、原発賛成派だった保守系言論人の多くは口を閉ざしている。そんな中、評論家の西尾幹二氏が「脱原発宣言」をした。なぜ脱原発なのか。
私は福島第一原子力発電所事故が起こってから、原発賛成派から反対派に転じたと見る人がいるが、必ずしもそうではない。私が判断を替えたのは、保守言論人としての思想転向でもないし、反原発・反核運動に与するものでもない。ましてや菅首相の「脱原発」と意を同じくするものでもない。地震が多く、狭い国土では、もう原発をやめてほしいという一般国民の常識に基づくものである。エネルギー問題はイデオロギーで考えるのではなく、合理的にクールに考えよう、それが常識であると言っているだけだ。
福島の事故以来日本の社会は「異相」に入った。東日本で放射能の不安を訴えた投書にある女性作家が、生存に不安は付きもので運命を逃げるようなあなたの弱さが問題だ、と答えているのを読んで、これは間違えていると思った。「異相」に入った社会で今までの一般的な人生論は通用しない。子を持つ親が放射能の心配をするのは当然である。私は3月にすでに福島の学童集団疎開を提言している。
それを「勇気」だとか「精神力」とかで解決しようとする人たちがいる。ことに保守派に多いが、間違っている。原発事故は飛行機事故などとは明らかに異なるのだ。
原発事故の土地でもいつか再び耕作や畜産ができるという説があるが、なにびとも他人の運命に変更を加えることは許されない。地震や津波だけなら諦められるが、人生を奪われ、故郷を失う人の悔しさを考えてみよ。同じような事故が国内の別の原発で重ねて起きたら、それこそ日本は崩壊する。人間が多数死んでもかまわない中国とは異なるのである。
「保守」とは何か。「守る」とは何か。「守る」ということは生命の本来の欲求である。私は国を守ることも、文明を守ることも、家族を守ることも、自分の生活を守ることも、どれにも共通する「守る」ことに必要な条件があると考えている。それは、最悪の事態を想定して生きることである。
そしてその上で平静に、晴朗に生きることである。それには真の勇気が要る。今日本人は奔然と自分を守る生命力をたぎらせている。
福島第一原発の事故で、電源の位置や非常設備の改善について、公式文書や公式会議の場で警告がいくたびも出されたのに、責任ある関係者は馬耳東風と聞き流していた。そのときの台詞は報道されているが、例えば「そこまでのことは過去に起こっていないので考えなくていいのです」であるとか、「今の時点で定められた安全基準に合格していれば、それでいいのです」であるといった杓子定規であったことに国民は衝撃を受けた。
日本の原発はどれもみな海辺にあり、海上からの高速船によるテロの襲撃にはまったく無防備で、海上保安庁の巡視艇も対応力がないことを、私は電力会社の関係者から聞いている。韓国の原発のゲートには機関銃座が設けられていることも知っておくべきだ。
恐らくこれから地震と津波の対策にはある程度手が打たれるだろう。
しかし新しい「想定外」の出来事が起こったら、責任ある関係者はまたしても口を揃えて「海上からのテロは過去に起こっていないので考えなくてもいいとされていました」とか、「テロは定められた安全基準に含まれていませんでしたから準備しなくてもそれはそれでよかったのです」などと平然と答えるだろう。
そのような間の抜けた、心の腐った連中に私たちは原発の運転を今後も任せてよいのか、今の日本人はこのレベルなのだという厳然たる事実に絶望しつつ、強い不安と懐疑をここに表明せざるを得ない。
国家の運命にかかわる失敗は技術にあらず
一方、私たちは今、近代社会の中で“進歩の逆転”という現象に直面していることも忘れてはならない。便利なものを追い求めた結果、不自由を強いられている新しい局面だ。貧しい時代に「学校」は解放の理念だったが、いつしか抑圧の代名詞となった。「脱学校」という解放からの解放の理念が求められる逆転が起こった。同じようなことが多数ある。原発も鉄腕アトムの夢の時代には解放の理念だったが、自己否定が生じた。
「あらゆる科学技術の進歩に起こった禍は、その技術のより一層の進歩でしか解決できない」というのが、これまでの技術革新における考え方であった。だが、原発はそういう類の技術ではないのではないか。どんな技術も実験を要する。そして実験には必ず失敗がある。失敗のない実験はない。しかし、1回の失敗が国家の運命にかかわるような技術はおおよそ技術とはいえない。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ、リスクは無限大に等しい。それが原発なのである。
人類が「プロメテウスの火」をもてあそんだように、原発はやってはいけない神の領域に手を突っ込み、その火の玉を制御できなくなってしまった。その結果、自分たちの頭上に落ちてきたのが今の日本の姿であり、進歩した科学技術の結果なのである。
「技術大国日本」を盲信する保守系の人たちは、この現実をどう考えるのかと私は問うている。保守系の言論人・知識人は日本の科学技術は世界一だという。福島第一原発の事故後でさえも、女川原発は壊れなかった、たまたま想定外の津波が起きただけだ、日本の技術を信じろという。私はこういう保守系人士を「愚かな甘い保守、日本万歳の保守」と呼んでいる。
新幹線に事故のなかった国鉄を顧みて、日本の技術力をもってすれば原発にも事故なきを期待できると強弁する観念保守が今なお後を絶たないが、彼らはおよそ現実というものを正確に見ていない。
国鉄には山之内秀一郎というような伝説的な逸材、事故事例を追い求めて、二度と同じ事故は許されないという強い信念と哲学を持つ技術者が中心にいた。彼がもし東電にいたら、反原発派の主張にも膝を屈し、進んで謙虚に耳を傾けただろう。
ホンダでも、トヨタでも一流の企業文化にはそういう人間力、献身的な人格と技量と哲学を兼ね備えた技術者たちに培われた時期というものがあった。だが、残念ながら日本の原発は基本的にアメリカの模倣であり、加えられた日本の技術は改良技術にとどまっている。
福島の事故は東電よりも経産省(通産省)の積年の技術革新への幻想に由来し、学者や政治家を巻き込んで肥大化した閉ざされた密室の進歩イデオロギーの帰結と私は考えているが、この点で政治と一体化し鉄道官僚が暴走した中国の新幹線事故とどこか共通する面がある。その冷徹な自責と敗北感をしっかり認識して思想を立て直すことこそ、保守系言論人のすべきことではないのか。目覚めよ保守派! 原発の幻想から脱せよ!
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20110905-01/1.htm
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