22. 2011年9月12日 11:06:02: 186Q5NGJb6
衝突が起こらず、作業員が説得に応じてくれて、着工作業を停止してもらえる様にと。何も綺麗ごとなどでこんな事を書いているのではない。 僕は体験したことがある。 その衝突を。 そういう時に起こりうる実は誰も望まない衝突を。 たしか自分が11歳ぐらいの頃だった、二歳のとき両親が離婚したあと、母子家庭で当時は母と母の恋人と山のなかで三人で暮らしていた。 旧ソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリ原発が大爆発を起こしたわりとすぐ後、だったと記憶している。 当時通っていた、山梨県長坂町(現在の山梨県北杜市)の小泉小学校の校舎の窓からクラスメイトたちと曇る空を見上げながら『きっと死の灰が降ってくる』と不安を囁きあったものだ。 そしてその事故の同年か翌年に、四国の最西端に建つ伊方原子力発電所で、とある実験があった。 出力調整実験、という実験だった。 市街地などで電力消費の落ちる夜間の間、出力を100%から約50%に落として、また消費の上がる夜明けと共に出力100%に戻す。 という技術的な実験だったのだが、原発の炉心は簡単にいうと、本来は稼働率100%、つまり絶対にフルパワーで回していないといけないものだ。 それを100%では何だからと、稼働率を人の手で、出来れば毎晩上げ下げするという。 技術は、まだ追いついていない。 炉心のひとつひとつは広島や長崎に投下された原爆の数倍以上、核爆弾とまったく変わらないかそれ以上の破壊力を持っていることなど周知の事実。 ましてや炉心のなかは絶えず核分裂を起こしていて、ただでさえ『すこしづつ爆発』し続けているのだ。 それを技術がそこまでしっかりと追いついていないのに、そんな実験をするなんて、とさすがに小学生の僕でもとんでもないことだと感じた。というか、単純に恐怖だった。 そして、まさに、その出力調整中に、あのチェルノブイリは爆発したのだ。 母親からその話しを聞いたときは、ぞっとした。 それを、日本でやるという。 ついこないだチェルノブイリが同じ実験をしていて大爆発をしたというのに、やるという。 母たちは全国から仲間たちを募って、その実験を止めてもらう様、即刻四国電力に行くと荷支度を始めていた。自分も行く、と言った。そう言ったか、勝手に車に乗ったかよく覚えていないが、とにかくそのまま車で八ヶ岳から四国へ出発した。 学校は、休んだ。 全国から四国は高松にある四国電力本社前へ実験中止を訴えようと、数えきれない人たちが座り込みに集まっていた。 どうか実験をやめてください、と。 結果からいうと、実験は行われた。 実験が成功したから、今現在では日本全国にある55基の原発の炉心は毎日毎晩、絶えずその内部で核分裂を起こしながら稼働している。 例えが極端だが、55個もの核爆弾が人の手で爆発を制限されながら、いつどかんといってもおかしくない状態で爆弾の周りを取り囲む海水を沸騰させて、日本各地で唸りを上げてタービンを回して発電している。膨大な放射能を海と大気中にばら撒きながら。 これは単純な事実であって大袈裟ではない。最近、原子力はエコ。という広告を見かけるが、少なくとも僕はそうは思えない。 さて80年代後半の高松、四国電力本社前。 僕たちは座り込みを続けていた。 座り込み、といってもずっとそこに座っているだけではなかった。簡単に言うとテントでの共同生活。 勿論風呂には入れないが、お母さんたちは持ち寄った食材を分け合って料理をしたり、公民館の水道を借りて洗濯をしたりして、お父さんたちは電力会社の前で反対を訴え続け、子どもたちは適当にそのへんで遊んでいる。 見た目はいたってのんびりしているが、どこか皆そわそわしている。 そんな様子だ。 そして、実験当日の実験開始時刻まであと一時間ほど。 現場がやはり、荒れ始めた。 声を荒げる人が増えはじめた。 自分の親たちも、慌しく荒々しく声を上げはじめた。 伊方が爆発する。 お願いだ、やめてくれ。 それが、やめろ、に変わり、恐怖と興奮と怒りとが入り混じった不穏な空気があたりを包みはじめた。一触即発の空気。 無論警察が介入、そしてなぜか機動隊が群をなして押し寄せて来た。 当たり前だが、生まれて初めてそのときに機動隊を生で見た。 人数は正確には覚えていないがこちら側の約200名から見ると多勢に無勢なのは明らかだった。 今になったからよくわかるが、怒りのパワーは対象物があると増幅して、伝染する。 こちらも怒り。あちらも怒り。 遅かれ早かれ衝突が起こる、と感じた。 最初、機動隊員はずらりとフォーメーションらしきものを組んだ。 親たちの動きを封じるためだ。 最初は電力会社の方々に訴えていた親たち。 電力会社の方々がどう思ったかはわからないが、おそらくは警察に通報。それだけでは手に負えないので、機動隊が出動。流れでいうと、そんな所だろう。 実験開始まで、あと数十分。 親たちは、機動隊員にも説得をはじめた。貴方たちの家族も関係していることなのです、と。 僕も、誰それ構わず隊員に訴えた。 実験開始まで、あと十数分。焦っていた。 学術的云々はわからないが、こわいからやめて、ぐらいは言える。 そのときの機動隊員の方の表情をよく覚えている。 冷徹な目だけで、僕を見下ろしている。勿論ニコリともしない。そして微動だにしない。 表情一つ変えず。 実験そのものも怖かったが、その顔も、怖かった。 少なくとも、自分がそれまで関わってきた大人のなかにはそんな表情をする人はいなかった。 実験開始まで、あと数分。 突然、あちこちで怒号が上がった。 初めて聴いた、普段はとても優しい親たちの怒りの声。 悲しかった。本当に悲しかった。 そうか、もう死ぬのか、とも思った。ただ、悲しかった。 その瞬間、誰かに突き飛ばされて地面に叩きつけられた。 やはり、武力による衝突が始まったのだ。 急いで起き上がるが、身体の小さい僕は圧倒的に非力だった。 あたりはカオス状態だった。 今度は機動隊員の膝蹴りを喰らった。 また冷たいアスファルトの地面に顔面から叩きつけられた。 ラジ!!と聴いたことのある声が聞こえた。ラジというのは、僕の洗礼名で、親たちにはこう呼ばれる方が多い。 顔を上げると、子供になんてことするんだ!!と僕を助けようと手を伸ばして叫んでいる西荻窪で無農薬野菜の八百屋を営む親(一括してそう呼びたいと思う、僕には沢山の親がいると思っている)がいた。一瞬だが、知った顔を見つけて安心した。 その矢先、機動隊の警棒が彼に叩きつけられ、彼は苦痛に顔を歪めてその場に倒れ込んだ。 あんなに優しい笑顔しか見たことのなかった人間が見知らぬ人間に殴られて、苦痛に顔を歪めている。 全部がスローモーションだった。 自分の母親を探した。 遠くに見えた。騒乱に巻き込まれていた。誰かに殴られたのか、痛そうな顔をしていて、尚且つ機動隊の警棒が母を襲おうとしていた。 助けに行かねば、と立ち上がった。僕がいった所でたいした助けにはならないのだが、とにかく息子の本能というやつだろうか。 その瞬間、今度は自分が警棒で右肩あたりを殴られてまた倒れた。 このくそがきが!! と聞こえた。地面に丸くなって防御体制に入っていた僕の横腹を何人かの隊員に蹴られた。息が出来なかった。そうか、僕はくそがきなのか。そんなこと、初めて言われた。 安全靴のつま先の鉄板があんなに重くて威力のあるものだとは思わなかった。左頬に鉄の冷たさを感じた。後頭部を厚いブーツの底で踏んずけられた。何人の隊員に踏みつけられただろう。 読者の方々の、どれ位がご覧になったことがあるかわからないが、僕が以前に出演した未成年というドラマのなかで、似たようなシーンがあった。 雰囲気でいうとまさにあんな感じだった。あの時見た光景も。その撮影中は、伊方のときとそっくりだと思っていた。 終わらないカオス。 痛みは、感じなかった。 身体の痛みより、喧嘩も嫌いだったし、親にも決してぶたれたこともなかったから、正直、殴られたということへのショックの方が大きかったんだと思う。 基本的に大人は子供を殴らない。 そう思っていた。 言い方が正しいかどうかわからないし、そのとき自分が居た場所も衝突のカオスの中心でよくなかったのだろう。 だが、自分が今その大人にぼこぼこにされて、踏みつけられて、蹴り飛ばされている。 これが、日本という国なのか。 と、徐々に襲ってきた身体中の痛みに耐えながら思った。なんで大切な人たちがこんな目にあうのか。なんでだ。 政治的云々は当然よくわからない。 自分たちにとって邪魔な存在であれば、その子供でも、あんなに狂気じみた笑みを浮かべて殴りまくっていいという法律があるのかと思った。 勿論、今考えればそんな法律などないのだが、それが負のパワーの連鎖というものだろう。 実は、誰も望んでいない負のパワーの連鎖。機動隊員だって、本来であれば、冷静であれば、子供を殴る蹴るなど、したくもない筈だ。負のパワーは人をおかしくさせる。 そして、実験開始時刻。 突然、騒乱は収まった。 収まったというか、親たちが動きを止めて皆、一斉に地面に伏せたのだ。 無言の祈り。無音の時間。 そして実験は成功し、爆発は起こらなかった。 これが、僕が原発、というものに本格的に興味を持ったきっかけだ。 何か、矛盾していると。 なんで、あんな殴り合いまでして作らなければならないのだと。 いしだ壱成ブログ 2011-03-04 今だからみんなで考えたいこと。 より抜粋 http://ameblo.jp/isseiishida/archive1-201103.html |