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原発事故でも「相馬魂」は消えない――東北六大祭り・相馬野馬追と一時帰宅 (Business Media 誠) 
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/241.html
投稿者 赤かぶ 日時 2011 年 9 月 04 日 14:31:42: igsppGRN/E9PQ
 

原発事故でも「相馬魂」は消えない――東北六大祭り・相馬野馬追と一時帰宅
http://news.livedoor.com/article/detail/5834283/?p=4
2011年09月03日22時00分  提供:Business Media 誠

 福島県相馬地方は、馬と人が共存する町だ。公道を馬が歩き、赤信号があれば立ち止まる。それを誰も不思議に思わない。

 この地で行われる「相馬野馬追」(そうまのまおい、参照リンク)は、1000年以上の歴史を持ち、東北六大祭りの1つにも数えられている、国の指定重要無形民俗文化財だ。もともとは相馬氏の遠祖である平将門が、領内に放した野生の馬を敵に見立てて軍事訓練を行ったのが始まりと言われている。相馬の人々は、野馬追の準備に1年を費やす。野馬追となれば、地元の男性たちは先祖伝来の甲冑に身を包み、旗差物を背負って馬にまたがり、一堂に集まるのだ。

 毎年7月23日、相馬中村神社で厳かに出陣式が行われ、総大将をお迎えした後、進軍を開始する(宵祭り)。翌24日は本祭り。総勢500騎あまりの騎馬武者たちが、相馬太田神社を出発し、3キロ離れた雲雀ヶ原を目指して騎馬行列を行う。雲雀ヶ原は合戦場だ。ここでは甲冑競馬が行われ、戦国絵巻のような光景が繰り広げられる。これが祭りのクライマックスだ。25日には小高神社で「野馬懸」が行われる。御小人とよばれる数十人の若者たちが、白鉢巻に白装束で馬の群れに飛び込んでいく。神のおぼしめしにかなう馬を捕らえ、神馬として神社に奉納すると、3日間の祭りの幕が下りる。

 3月11日に東日本大震災が起こり、さらに東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きた2011年。福島第一原子力発電所の近くに位置する相馬地方(相馬市、南相馬市)では、今年も野馬追が実施できるのか協議が続いていた。特に南相馬市は、警戒区域、緊急時避難準備区域が設定され、市が3分されている状態だ。しかし野馬追は相馬の人たちにとっては心の支えであり、1年で最も重要なイベントである。規模は縮小するが、例年通り7月23〜25日に実施すると決まった一方で、町全体が警戒区域に設定されている南相馬市浪江町の人たちの一時帰宅も、この時期に行うと決まった。

●野馬追を支えるのは「相馬魂」

 相馬野馬追は毎年、23日の宵祭りは相馬中村神社(相馬市)で、24日の本祭りは相馬太田神社(南相馬市原町区)で、25日の野馬懸は小高神社(南相馬市小高区)で行われる。例年は古式の神事を始め、行列や神旗競争などが行われるが、今年は神事のみに縮小。また小高区は警戒区域のため、原町区の小高神社ではなく、多珂神社で行われた。

 今年も、毎年のように野馬追を楽しみにしている人が多く訪れていた。長年、地元で過ごす人の中には、「相馬魂」が生き続けている。その一端を感じることができる人に出会ったのは3月28日だった。南相馬市原町区上渋佐の照崎神社前で、掃除をしていた渋佐良雄さん(78)だ。

 「(近所には)誰もいないぞ。逃げたんだ。俺ぐらいだよ、いるの。俺、この村で死ぬ気で住んできたんだもの。いい加減じゃないぞ。みんな、ここを放棄した。でも、俺はおるつもり。みんな13日から15日ぐらいになったら逃げていく。どこさ逃げていくんだ、って」

 上渋佐はJR原ノ町駅から、県道263号線を通じて東へ至るところにある。私が訪ねた日、周囲では警察や消防団が行方不明者の捜索活動をしていた。民間人が自身の家族を捜す姿もあった。

 「ここに250戸くらいあんだよ。でも、(人が)どこにもいねえんだよ。ま、10人くらいいっか。(原発事故前は)約800から900人いたんだよ。他の人には『戻ってくるのか? 戻ってくるなら、逃げずにいろ』と言った。来ねえならいいよ。鉄砲玉みたいにして行けばいい。来るんだべ。来るなら、いろ、と」

 この周辺は東京電力福島第一原子力発電所から30キロ圏内。当時は物流がストップし、コンビニも開いておらず、新聞配達もされていなかった時期だった。

 「30キロ圏内だからって、俺は行かないぞ。だって、どこさ行くの? ここにいろよって思う。マスクしたって、そんなもので命が救われるのか? 救われっか? 俺、そう思う。そういうのに負けないんだ。正しい気持ちを持てっつーの。俺はそういう主義だ」

 この時期、30キロ圏内は「屋内退避指示区域」だった。4月21日から「計画的避難区域」と「緊急時避難準備区域」に別れたが、渋佐さんは動じない。

 「地区には津波の被害があった。でも、この地域は負けたわけじゃないんだ。相馬魂だ」

 相馬魂があれば、この地域はなんとかなる――そんな思いが渋佐さんにはあったのだ。ただ、事故直後は、野馬追の開催が心配されていた。渋佐さんもそれを気にしていた。規模を縮小したが、なんとか伝統を絶やすことなく、開催に至った。

●「原発は人間が制御できないのが問題」

 7月24日、太田神社では神事が行われた。妻は福島市に避難しているという南相馬市原町区の男性(57)はこう話す。

 「毎年見に来ている。野馬追は1000年余続いていた無形文化財だが、それができなくなったのは原因がある。それを無視して、これからの復興は考えられない。(原町区は警戒区域ではないが)他人ごとではない。忘れられるのは問題だ。原発は人間が制御できないのが問題。子孫を含めて、この地域がちゃんと住めない環境になるのかどうかを考えると、恐ろしい」

 また「本来であれば、行列があるのにな」と眺めていた、原町区の吉田孝明さん(44)はこう話す。

 「自宅は20キロ圏から外れているので、いつでも入ることができる。しかし農作物は作れないし、仕事もない。県民はモルモットだよ。ここで作った野菜はもう売れない」

●津波の犠牲者に「慰霊の礼螺」

 25日の多珂神社では、相馬行胤総大将と、全域が警戒区域に含まれる小高郷と標葉(しねは)郷の騎馬会員82人が県内外の避難先から集まった。警戒区域から持ち出した陣笠や陣羽織を身に着けて参加していた。

 祭りの中では、津波の犠牲になった小高郷騎馬会員の蒔田匠馬さん(20)の遺影を前に、慰霊の礼螺(れいがい)が吹かれていた。

 匠馬さんは地震当時、専門学校にいた。地震がおさまると、生徒たちは解散になった。その後、匠馬さんは小高区に住む祖父母の家に向かう途中で被災した。祖父母も津波で流され亡くなった。匠馬さんと祖母は見つかったが、祖父は見つかっていない。その3人で撮った成人式の写真が遺影になっている。

 「祖父母の家に行った時にはいなかった」そう語る父親の保夫さん(42)は、遺体が見つかった場所を考えると、「あと2、3分早ければ高台へ行けたのではないか」と想像する。「家に帰れないので、まだ被災中。現在進行形だ」とも話した。震災後、石神小学校へ避難した。その後、大学に進学している次男がいる東京へ避難。郡山市の民間の借り上げ住宅に住んでいる。一時帰宅はしていない。

●「学校が避難所になっているから、まさか」

 母親のフサ子さん(42)も野馬追の神事に臨んだ。震災当日は三男の卒業式だった。

 「震災当日は三男が中学校の卒業式。朝、私が三男を送っていけないので、お兄ちゃんにお願いをした。特に変わったことはなく、『いってらっしゃい』と言っただけ。お兄ちゃんは『いいよ』と。そんな会話くらいで終わった」

 卒業式の後、子どもの携帯電話とコンタクトを買いに浪江町に行った。その時地震があり、実家に電話をしたが通じなかった。「津波が来る」。そう思って、避難所に向かった。

 「地震があった時、学校が避難所になっているから、まさか解散となるとは思っていなかった。学校から出て行くとは思っていなかったので、安心していた」

 三男と一緒に避難所で過ごしたフサ子さんは、匠馬さんよりもむしろ保夫さんの身を案じていたという。各地の避難所を回った結果、保夫さんには会えた。フサ子さんは「よかった」とほっとした。しかし、匠馬さんは学校を出た後、祖父母の家に向かってしまった。

 フサ子さんは学校の対応にも不満を思っている。どうして生徒を解散させたのか。学校に尋ねても、形式的に「すみません」としか返ってこない。そのためもあり、学校には匠馬さんの卒業制作があるが、行く事ができないでいる。

●規模縮小で「物足りない」「寂しい」

 例年とは違い、規模が縮小された野馬追を見に来た人たちも様々な心情を抱いていた。鈴木亜由美さん(23)、佐々木美佳さん(23)、佐藤千尋さん(24)は、中学時代の同級生で「物足りない」と口を揃える。避難生活で連絡がとれない友達が多い。

 鈴木さんは新潟へ避難し、現在は南相馬市鹿島区で生活している。佐々木さんはいとこがいる北海道へ行ったが、相馬市に住んでいる。佐藤さんは今でも、母親の節子さん(54)の実家がある喜多方に避難中だ。鈴木さんは「原発さえなければ帰れる。帰りたい」と漏らしていた。

 この4人と一緒に写っているのは、騎馬武者のAさん(33)で、原発の作業員だ。福島第一原発の2号機と3号機の建て屋の間を歩いていた時に地震にあった。

 「ちょうど作業が終わって、外に出て来た時に地震があった。そして、地震がおさまったときに、避難した。一時、原発に取り残されたが、避難できた」

 爆発するまでは小高区におり、その後は、猪苗代、そして喜多方へ避難した。家族は今も喜多方にいるが、Aさんだけはいわき市内のホテルにおり、原発で作業を行っている。

 例年と違った小規模の祭りについては「本来なら馬に乗り、競馬もするが、ちょっと寂しい感じがする」と話していた。

●一時帰宅の浪江町民 「屋根がもう腐っている」

 野馬追の当日、浪江町の住民の一時帰宅が行われていた。南相馬市の馬事公苑が、バスに乗り込む発着地点になっていた。一時帰宅を終えた人たちに話を聞いた。

 「おふくろの荷物、土地の権利書、礼服等を持って来た」という、桑原泉さん(49)は、避難先の茨城県つくば市からやって来た。「屋根がもう腐っている」と、帰宅の感想を述べた。

 震災当日は、浪江町内で仕事をしていた。そのため一旦、帰宅したが、「家がぐちゃぐちゃ」だったために、車の中で寝ていた。しかし翌日、避難指示が出る。

 「私と妻と三女は、山形へ行ったんです。次女が大学に進学しており、下宿があったから。その後、もう戻れないと思い、長女が大学に通っているのと、会社の事務所があるためもあってつくば市へ行った」

 桑原さんの仕事は、原発の放射線測定だ。会社はつくば市にもあり、引っ越すことにもなった。現在は、つくば市近辺の上水道等の放射線量を測っている。

●「もう住める感じではない」

 会津若松市に避難している愛沢清一さん(70)と智枝さん(65)は、保険の証書などを持って来た。家の中には草が生え、「もう住める感じではない」(智枝さん)「クモの巣だらけ」(清一さん)と話す。

 家族は5人。清一さんと智枝さんは浪江町津島の避難所へ、娘や息子、孫は川俣町へ避難した。その後、4月15日からは、ホテルで避難生活をする。

 「仮設住宅に入っていって、いろいろなものをもらっているけど、いざ生活をしてみると、足りないものが多い」(智枝さん)、「年金でやっと生活をしている。地震だけならとっくに自宅に帰っているのに。東電の原発事故のせいで帰れない。トップの判断が問われているんじゃないか。原発に憤りを感じる」(清一さん)

 製薬関係の仕事で、須賀川市から仙台の事務所に通っている男性は、「草が1メートルくらい生えていた。畑も、道路もみんな雑草だらけ。屋根は壊れていた」という。

 震災当日は、南相馬市小高区で仕事をしていた。会社は海側にあるが、社屋は無事だった。しかし周囲の住宅が津波の被害にあった。高台に逃げたが孤立した。翌朝、山側へ避難するよう指示があり、何も持たないで川俣町に避難した。

 「震災だけであれば、応急処置ができただろうけど、原発事故のためにできないし、お墓のお骨が見える状態で、ひどい。仕方がないといえば仕方がない。でも、戻れればいいな。来年は子どもが高校受験。戻れれば、原町高校(南相馬市)を受験させようと思うが、無理であれば、中通りの高校を受験させるかを考えている」

 政府や行政に対しても「もっとはっきりと情報を出してほしい。仮設住宅も2年だが、それ以上延びた場合、どこで生活をすればいいのか。中通りも線量が高いので、また避難になるのか」と不満を持っている。

 「(久しぶりに家に戻ったら)猫が爪を研いだ跡があった」という横山信広さん(55)は2回目の一時帰宅だった。1回目のときは会社(金型工場)の関係で入ったが、そのときは家に寄る時間はなかった。今回はテニスラケットや夏服などを持ち出して来た。

 「地震で機械の一部は倒れたものの、作業はできる状態にある。ただ、放射能のために入ることができない」

 3月12日朝に、浪江町津島のつしま活性化センターに避難した。しかし人がいっぱいだったために、家族4人で車中泊をした。ガソリンもなかったので福島市へ行ったが、やはりガソリンはなく、戻ってきた。その後、川俣町、二本松市、伊達温泉と、転々とした。

 「草はぼうぼう。家はぐちゃぐちゃ。臭いなんかはなかったが、これから暑くなってくるので、心配です。役場や県に言っても、『分かりました』とは言うが、何も進まない。でも、何か言わないと腹の虫が収まらない」

 警戒区域となっている、東京電力の福島第一原発から20キロ圏内に住んでいた人たちの一時帰宅は、7月末でほぼ一巡した。9月以降に2巡目が行われる予定だ。しかし生活に必要な荷物をすべて運び出すことすらままならず、いまだに生活の拠点を転々としている人も多い。

 原発事故の影響でコミュニティが破壊されてしまった南相馬市。事故から半年近くが経っても、コミュニティが回復するめどは立っていない。


●渋井哲也「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」バックナンバー

●渋井哲也(しぶい・てつや)氏のプロフィール

 1969年、栃木県生まれ。フリーライター、ノンフィクション作家。主な取材領域は、生きづらさ、自傷、自殺、援助交際、家出、インターネット・コミュニケーション、少年事件、ネット犯罪など。メール( hampen1017@gmail.com )を通じての相談も受け付けている。

 著書に『自殺を防ぐためのいくつかの手がかり』(河出書房新社)、『実録・闇サイト事件簿』(幻冬舎)、『解決!学校クレーム』(河出書房新社)、『学校裏サイト 進化するネットいじめ』(晋遊舎)、『明日、自殺しませんか?』(幻冬舎)、『若者たちはなぜ自殺するのか?』(長崎出版)など。メールマガジン 「悩み、もがき。それでも...」を刊行中。

 5月、被災地の人々の生の声を集めた『3.11 絆のメッセージ』(被災地復興支援プロジェクト)を出版した。

 

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