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「ジャパン・ハンドラーズと国際金融」から
2011年9月3日
「<コンセンサス>ではなく<空気>に支配されてきた、日本の原発推進派と脱原発教信者たち(1)」
「<コンセンサス>ではなく<空気>に支配されてきた、日本の原発推進派と脱原発教信者たち(2)止」
を、下記に転載投稿します。関連画像は上記URLで。
=転載開始=
consensus
[U] an opinion that all members of a group agree with
Oxford Advanced Learner's Dictionary 8th edition
コンセンサス:【名】グループのメンバーすべてが同意できる意見・見解のこと
原発震災に見舞われた日本の状況を見るにつけ、今持ってなお、日本人の行動を決定を支配するのは、かの評論家の山本七平が1960年代に『空気の研究』(文藝春秋社)で描いた<空気(ニューマ)>という得体のしれないものであると、最近思っている。
だってそうでしょう。私たちは今は原子力発電所をなくすべきだと大勢の人が(私を含めて)考えているけれど、あの「311東日本大震災」の前はそのように強く思っているのは、震災後に熱狂的な反原発運動を盛り上げて、「放射能で日本が汚染される!」と危機感を煽っていた長年の反原発活動に従事してきた広瀬隆氏のような評論家だけだったのではないですか?
なんとな〜く、あの311の前に漂っていた<空気>といえば、「地球温暖化を止めなければならない」というもの。新聞は世論調査とかシンポジウムとか、それこそ御用学者をたくさん動員して、地球温暖化が人類を襲う最大の脅威だと宣伝して、クリーンなエネルギーである原発を持ち上げていたでしょう?海外ではアル・ゴアという副大統領が頑張っていたので、地球温暖化防止のキャンペーンで、ノーベル平和賞なんて大層な賞を受けた。でも、そのゴア元副大統領と組んで温暖化キャンペーンをやっていたIPCCという国連の機関が報告書に使っているデータが改ざんされていたという「クライメート事件」については日本人の殆どが知らない。
ゴア副大統領が欧米の金融機関の銀行マンと組んで、二酸化炭素排出権取引ビジネスに乗り出していたということも全然知らない。なぜかというと、温暖化キャンペーンで「エコエコ教」を呪文のように繰り返してきた、電通とか大マスコミが、この温暖化疑惑をめぐるスキャンダルについて報じていなかったから。シロクマさんだって実際は北極の氷が溶けて溺れ死んだんじゃない(たまたま泳ぎが下手だった!)っていうことを日本ではメディアは報じなかった。悲しいけど、この国では大新聞、大マスコミが報道すること、世論調査の結果として発表されたことが、世論ということになっている。<空気>というのもそれに基づいて作られている。
インターネットを通じてそういう<空気>に水を指したり、科学的・論理的に反論するという流れにもなっているけど、一般人はそこまで熱心に情報を集めない。テレビのワイドショーで漫然と流れてくる情報や街の声を世論だと思い込まされている。だから、「チーム・マイナス6%」のような二酸化炭素削減国民運動に無意識的に参加している。温暖化を止めるためにエコ家電を買おうというキャンペーンにもまんまと引っかかってしまうわけだ。
温暖化の切り札として登場したのがクリーンなエネルギーである原発。民主党政権はこの原発をどんどん建設するという動きに出た。「エコエコ温暖化詐欺」のからくりを知っていれば、石油・ガス業界に対する原子力業界のネガティブキャンペーンだということはわかっていたので、まゆにツバをつけることができただろうけど、<空気>になんとな〜く従うだけの普通の人たちは、311の後に原発事故が起きてしまって、「なんでこんなにアブナイ原発を支持してきたんだ」と今度は180度意見が変わってしまって、昨日の「エコママ」が今日から「放射能ママ(ラッド・マム)」に早変わりしてしまう。ああ、これって山本七平が言っていた、<空気>による日本支配に他ならないと思う。
山本七平が『空気の研究』という本の中で述べていることは、日本人というのは対象を相対化することが出来ず、ひたすら感情移入してしまうことだ。一神教の西洋人やイスラム教徒にはない、日本人独自の行動原理(エートス)である。次のように書いている。
(引用開始)
「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力を持つ「判断の基準」であり、それに抵抗するものを異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力を持つ超能力であることは明らかである。(中略)われわれが、「空気」に順応して判断して決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのではないことを示している。だが通常はこの基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから、「空気」と呼ばれているのだから。
『空気の研究』山本七平(文春文庫)22ページ
(引用終わり)
このように日本人は<空気>に支配されているというのだが、この空気は「何らかの意図のもとに意識的に醸成する」こともできるし、なんとなく場の<空気>という形で出来上がってしまって、「和」を重んじる日本人としてはなんとなくそれに従ってしまう場合もある。
山本七平は意図的に空気が醸成された事例も上げている。自動車による大気汚染裁判にかこつけて、自治体財政を救うために、自動車に関する税金を釣り上げられたこと、「反自動車」の<空気>を意図的につくり出した事例を取り上げている。
この時、自動車は社会の敵だと自動車に対する魔女裁判が起きていたのだが、反自動車運動家の意図とは全く別に地方財政穴埋めのために、大都市に住む「連帯」の証として自動車関連税の値上げを目論んでまんまと成功したらしい。
自動車という物体を悪玉にして、官僚たちが実現したのは増税という思惑であった。あれ、そういえば、震災復興のためには国民が「連帯」して復興財源を負担すべきだと言っていた政府がありませんでしたか?
この動きは、この大震災の後に起きた動きとよく似ている。「自動車」のところを「原発」に置き換えたらいい。もちろん、自動車がもたらす事故や大気汚染による被害と、原子力災害が日本の国土や経済にもたらす被害のレベルは違いすぎる。
いくら自動車が大気汚染を起こしたり、カラダの弱い人を喘息もちにしたりしたからと言って、原発事故のように日本国内の土地から広範囲に住人を法律による強制力を持つ形で移住・避難させたりはしない。国土の広範囲が「物理学的な意味」で立ち入り禁止なるのは、おそらく日本の歴史上で初めてのことである。
だから自動車と原子力を安易に比較するのは問題があるのだが、自動車や原子力に対する国民の態度がガラっと変わってしまう<空気>が醸成されたしまったという点では全く同じだ。
私自身、あれだけの事故を起こしてしまってなお、これからも原発を使い続けなければ日本のエネルギー政策は成り立って行かないという主張に正直言って同意できない。内心、これでも原発を推進しようとか新興国に原発を輸出しようとか公然と言っている学者とか政治家の首を締めてやりたいとも思っている。事故を起こした原発を今も動かしているのはものすごく嫌な気持ちになるのである。
もっと言えば、事故当初は原発そのものに「汚れたイメージ」を持つようになった。放射能は眼に見えないので、例えばペンキのようなすぐに拭える汚れではなくって、もっと本質的な「ケガレ(穢れ)」のようなもののように思える。冷静に考えればそうではないのだけれども、心情としてはそのように感じる、ということ。
それは日本人の多くが共有している感情らしい。
何より、放射性物質が降り積もった土壌を除去する手順を定めた法律の名前が「東北地方太平洋沖地震に伴う原子力発電所の事故により放出された放射性物質による環境の汚染への対処に関する特別措置法」という名前だ。「汚染」という言葉がこの法律の条文の中では何度も何度も使われている。
また、福島県で農家をしている人のブログには、もっとはっきりと「通常の汚染・汚れは、洗えば落ちますが、放射能汚染は穢れ(けがれ)であり、洗い落とす事はできません」と書いてあった。
福島から避難してきた小学生を「放射能がうつる」とか言っていじめたり、福島からの避難民を旅館が宿泊拒否したりもした。実際、どれだけ効果があるかは別にして、放射性物質であるセシウム137は土壌を剥がしたり、化学薬品を使うことで除去することはできるし、放射線量を下げた土地は再び農業に使うこともできる。しかし、どこかで「穢れ」という非合理的、非科学的な感情に支配されているとなればどれだけ科学的に数値は下がったのだと説得しても意味が無い。
震災当初は、日本からの輸出品には農産物か工業製品かも問わず、海外の税関でガイガーカウンターが向けられている光景がテレビで映し出されたこともあった。これを見た日本人は参ってしまっただろう。今や世界でもっとも「不浄」の国が日本、ということになってしまったのだから。日本的な「ケガレ」の感覚で自分たちそのものを否定された気分になってしまった。
日本人にとって、日本の国土こそは「清められたもの」という自覚があった。中国の富裕層たちが、我先に中国産ではなくって、日本の農家が作った無農薬野菜を買い求めているというニュースなんかを見て、鼻高々の思いだったのだ。
「中国は汚染された水でかわいそうに。日本の野菜は世界に売り出すブランドだ」と言っていたのに、311の後は日本が「穢れ」になってしまったのだから。これはパニックになっても仕方がない。これまでの価値観が通用しないいう状態を社会学的には「アノミー」という。規範(norm)がない状態のことを言う。
不安に思った民衆は、宗教(神様の救済)にすがる。それは何処の世界でも同じである。日本には強固な一神教の伝統がないのでキリスト教徒やイスラム教徒のようには「神に祈る」ことはしない。結局、日本の大衆が救済を求めたのは、放射線防護学という特殊な学問を修めた学者たちであった。宗教に救いを求められないのであれば、頼るのは科学者の権威である。
ところが、福島県の放射線健康リスクアドバイザーに就任した、山下俊一という長崎大学の学者は、頼るべき権威としては実に頼りなかった。山下自身が県民に対する説明会(3月21日福島市)で、「放射線に対するリスク」について、説明の仕方が極めて下手くそだったために、むしろ説明を受けた住民の混乱を招いてしまった。
実は、山下が言ったのは、「年間100ミリシーベルト以上を浴びなければ、放射能によるがん発生が高まることは証明されていない」という主流派の学者のこれまでの(一昔前の)コンセンサスに過ぎなかった。
ところが、山下は講演の最後の方で「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます」と言ってしまった。更に、講演会の質疑応答で肝心の数値を言い間違ったり、講演会以外のメディア(長崎新聞)でのインタビューで「複数箇所から放出され、放出量が不明な上、拡散は風向きや地形などによるため、このような結果になった。予想していたが、恐るべきこと。子どもや妊婦を中心に避難させるべきだ」などと全くこれまでの印象と逆とも取れる回答をしてしまった。
これが断片的に伝えられて、しまって、「いったい山下氏は安全だといっているのか危険だと言っているのかどっちなんだ」ということになってしまった。
さらに、後の講演会(5月3日二本松市)では「100ミリシーベルト以下は、実は、わかりません 」と述べているので、更に混乱が増した。しかし、実際には「(これまでの学者間のコンセンサスに従えば)わからない」というのが正しい態度なのである。いずれにせよ、山下教授の説法によっては、不安感は払拭されなかった。
そこに登場してきたのが、チェルノブイリで実際は「100万人が亡くなっている」という誰しもがギョッとする主張を掲げていた、ECRR(欧州放射線リスク委員会)というところに所属している、クリス・バズビー博士、それから彼の理論的支柱になったスェーデンのトンデル博士や、ヤブロコフ博士といった学者たちで、このうちバズビー博士は日本に招待されて講演や調査まで行った。
大きく言えば、バズビーは、山下が「笹川記念保険協力財団」(笹川財団の姉妹組織)と共同で行ってきた、チェルノブイリでの小児甲状腺がんの調査結果を強く批判する立場である。彼は、独自の算定でチェルノブイリではこれまで100万人が亡くなったと言っている。(これまでの国際機関の公式見解では数千人、多くて一万数千人というものだった)
また、ヤブロコフ博士らは09年に発表した5000もの論文(しかも、これまでのコンセンサスづくりに参加したWHOやIAEAが無視してきた英語圏以外の研究)を使った包括的な調査を行っていて、その結果でもやはり100万人(正確には、98万5千人、1986年から2004年の間)という結果になっているらしい。
さらに山下の長崎大学での先輩にあたる長瀧重信名誉教授が、日米共同で設立された「放射線影響研究所」の元理事長という人脈であることから、「原発を日本に押し付けたアメリカの手先・山下」という風に連想が働いて、ますます反アメリカのECRRのハズビーはヒーローだということになってしまった。
確かにヤコブロフが09年に発表した論文の要旨や、その他のチェルノブイリ取材を行ったドキュメンタリー映画などを見ると、「甲状腺がん以外の患者さんの病院での痛ましい姿」がしっかりと映像になっているので、「山下の言うことはおかしい」と私も思う。
※ヤロブコフ報告書の概要
http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/core/bookdata/1000/b1083.htm
何しろ、今までのコンセンサスとなったWHOはIAEAと協定を結んでおり、「WHOはIAEAの許可なしには調査書を発表できない」(ヤコブロフ報告書に参加したジャネット・シェルマン博士の発言)というのだから、これまでのコンセンサスから抜けて落ちたものがかなりあることは納得できる。IAEAは原子力推進派だから、政治力学からして、原発推進に不利な行動を避けようとするからだ。
で、あればこそ、新しいコンセンサスをつくろうという動きが出てくるのが当然なのに、この日本ではそうはならなかった。山下俊一を「悪魔の手先」と罵倒することに終始してしまい、チェルノブイリから25年目の新しい研究報告を踏まえて、放射能へのリスクを冷静に評価し直そうという運動は起きなかった。
そうではなく、原発放射能に不安を抱いている人々は、一夜にして「バズビー教」の信者になった。自分たちが信じている内容が科学的に正しいかどうか、クリス・バズビーという昨日まで名前も知らなかった学者を。山下が信用出来ないからと言って安易に信じていいのかという意見はインターネット上で出来上がった<空気>にかき消されてしまう。人々はより過激なものに飛びつく。
放射能に対して「正しく怖がる」というスタンスを見せていた安斎育郎(共産党系)のような学者よりも、過激なバズビーに喝采を送るのだ。311原発事故をきっかけに、大きく日本の放射能に対する見方は不安定化した。これまで「日本の原発は安全だ」という神話(これももちろん<空気>である)に極端なレバレッジがかかっていたので、このレバレッジが逆回転すると、逆ベクトルに大きく振幅してしまったのだ。
だからこそ、彼等のICRPに対決するスタンスの学者たちの訴えもちゃんと評価して、正しい部分と間違っている部分を明らかにして、新しいコンセンサスを学者たちの間で作るべきなのだ。
そこで、調べてみると、そういう動きは海外ではあったようだ。2001年から2004年までイギリスで行われた、CERRIE=Committee Examining Radiation Risks of Internal Emitters 言うなれば、「内部被曝調査委員会」というのがそれだった。
ここには、これまでの主流派だった学者たちだけではなく、原子力業界や、バズビー博士のような反対派の学者も集めての一大プロジェクトであったという。
問題はここからで、CERRIEの立場は、合意できる所は合意する、合意できない所は両論併記する、という方針であったにも関わらず、この委員会に出ていたバズビーともう一つの学者は、委員会と共同の報告書を作ることを拒否し、独自の少数意見の報告書を作ってしまった。つまり、自分たちから「コンセンサス形成」に加わることを拒否してしまったのである。(この箇所は「buveryの日記」を参考にした:http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110719)
要するに新しいコンセンサスが出来ない以上は、今の学者間の「コンセンサス」がそのまま通用してしまうことになる。コンセンサスとは「必ずしもすべての立場(要素)を包含するわけではないが、グループが決断を致すに十分な立場を包含する幅広い合意のこと」(政治評論家ウィリアム・サファイアの定義)である。
放射能にどのように立ち向かうかというのは、科学的な議論を裏付けにした、「政治的な決断」である。そのためにはコンセンサスの形成がどうしても不可欠なのだ。これが存在しないと、それぞれが独自の主張を永遠に述べあっていくことになってしまう。
バズビー博士がコンセンサス形成に加わることを自ら拒否したという経緯を、日本人のどれだけの人が知って彼の議論に耳を傾けているのだろうか、と私は思う。
ここからわかるように、日本でも放射能は危険か、危険ではないかという論争は、欧米でのICRP派とECRR派の間で2001年から04年まで繰り広げられた「宗派論争」がそのまま持ち込まれているわけである。(続く)
(承前)
科学者の間では物理学とか放射線医学といった専門的な領域で交わされる議論の応酬なのだろうが、一般人からすれば全く「ちんぷんかんぷん」である。その昔から、ヨーロッパの学者たちは、学者たちの「共通言語」として、ラテン語を使ったが、ICRPやECRR、イギリスの「内部被曝委員会」での議論で使われているような専門用語や数式計算もいわば「ラテン語」に相当するものである。
これではまるで、日本人の多くがこれらの専門的な論争の意味もわからないまま、安全派と危険派に別れて宗教論争、神学論争をやっているようなものである。キリスト教でも教義の統一を図るべくして、ニケーアの公会議が開催されたことがあった。そこにおいては、アタナシウス派という一派とアリウス派という一派が宗教論争を行って、その結果アリウス派は異端扱いされて破れていった。
だから、結局は時の権力に結びついている方が勝つのである。しかし、それでも同じ土俵で意見を戦わせることの意義はあった。放射能の議論もこれと同じだと思う、ICRP派がECRR派と侃々諤々の議論をした。議論が劣勢だと確信したECRRの一派は自ら報告書という名前の「コンセンサスづくり」を拒否し、みずから異端となることを選んだ。
ただでさえ、この二派は「喧嘩別れ」しているのに、実際に安全か安全ではないかということを科学的には判断できない一般大衆が判断を下そうとすると、それは感情的な応酬になってしまうのは眼に見えている。
山下教授が「わからないんです」というのを「リスクは極大である」と受け取るか、「分からないんだから今心配してもしょうがない」と受け取るか、それはもはや決断であり信仰でしかない。
その山下教授は笹川財団系の日本財団の主催で、9月11、12の両日、米国やロシア、ウクライナなどから約30人の研究者を招き、低線量被ばくの健康影響などを議論すると発表した。
この議論を経て、福島県が実施する県民健康調査に対する評価や、社会不安を解決するための提言をまとめるらしいが、ここにバズビー教授やその主張を日本で継承する京都大学助教の今中哲二らを交えて、建設的で合理的な議論を行うことができるだろうか。
あらゆる立場の人間が今持っている自分の研究成果をぶつけ合って、場合によっては激しく議論することでコンセンサスを作る必要がある。そのコンセンサスはこれまでの研究に新しい研究成果が加わるのだから、これまでとは違ったものになる。おそらく、放射線に健康影響をより重く見たものにならざるを得ないだろう。なぜならば新しい健康被害が生じうるというコンセンサスが出来れば、長年の疫学調査の対象にその病気も含めないわけに行かないからである。
コンセンサスがないと宗教論争が続く。不安感だけが先走りしてしまう。それであれば、「最悪のシナリオ」を理解して覚悟した上で、あくまで日常生活を取り戻すことのほうがずっと生産的だ。
人間は放射能が原因のガンだけで死ぬわけではない。自動車事故で死ぬかも知れないし、不摂生で胃がんになるかもしれないではないか。311以降、健康リスクがひとつ(病気の数で言えば10個以上になるが)増えたのである。理不尽なリスクではあるが、もう仕方がない。
なにより、合理的な議論による<コンセンサス>ではなく<空気>に支配された状況は、実は別の観点で危険なのだ。その<空気>に基づく、宗教的情熱(反原発とか、反放射能)が何らかの意図によって作為的にコントロールされてしまう危険性があるということだ。
例えば、原発事故直後に、計画停電=節電という善意で塗り固められた、実際は国家統制政策があった。実際は計画停電なんかやらなくても電力は足りていた。今ではこの計画停電は国民に原発電力の必要性を身体で解らせるためだったともっぱらの評価である。
それと同じで、民衆の不安、心の隙間につけ込む、藤子不二雄の漫画「笑うセえるずマン」の登場人物である喪黒福造(もぐろふくぞう)がこの国にはいる。それは霞が関の原子力政策に関わってきた高級官僚たちである。
官僚たちは原子力災害を起こした東京電力の責任も問わず、原子力政策の検証も責任を追求することもなく、焼け太りする。「311前は原発の推進をストップできる<空気>ではなかった」と言い訳するのだろう。そして、民衆の不安という「心のスキマ」をお埋めしましょうと言わんばかりに新しい法律を作る。そして細かな基準を官僚の裁量で決める。その基準の是非については国会で議論されないで役所の内部で勝手に「省令」という手続き規定によって決まるのである。
その最たる例が、放射性物質を取り除くための除染の手順を定めた、前出の「東北地方太平洋沖地震に伴う原子力発電所の事故により放出された放射性物質による環境の汚染への対処に関する特別措置法」(2011年8月成立)である。この法律の所管は環境省である。環境省といえば経産省と並び、温暖化対策の切り札として原発を推進してきた元凶ではないか!!
この法律に規定されている「除染」という作業自体は、現実的に放射能の数値を下げることになるのであれば、推進しなければならないものである。しかし、この法律に書かれているのは、自発的な住民の除染作業を地方公共団体を通じて国がサポートするという生やさしいものではない。第6条には「国民の責務」が努力義務ながら定められており、さらに、除染の必要を判定するために国が立ち入りを求めた場合に住民が拒否すれば30万円の罰金を科すこともできると書かれている。除染に関れるのは、基準を満たした業者だけで「モグリの業者」には最大で3億円の罰金が課せられる。そのような災害かこつけた国家総動員の臭いもする前代未聞の恐ろしい法律である。
さらにその環境省の基準を決めるのが、内閣府にある「原子力安全委員会」だ。これは福島原発災害を生み出したユルユルの安全基準を定めた委員会であり、その委員会が今度は舌の根も乾かぬうちに、セシウムが高度に濃縮されることになる土壌の除染の基準を定める。
この背景には、やはり福島第一原発周辺20キロの立ち入りが禁止された「警戒区域」の除染で生じた放射性廃棄物(=土壌)を保管・最終処分するための処分場を20キロ圏内に作ってしまえと、いう思惑があるのだろう。これまで放射性廃棄物の処分について議論を行って来たのが安全委員会である。
官僚は「放射能怖い病」の人たちの純粋な思いを巧みにまんまと利用して、「除染利権」という巨大な利権をつくり出し、しかも東電を焼け太りで存続させてしまった。その際にも<空気>を利用した。「大規模除染やむなし」という空気をつくり出したのだ。
つまり、この国は官僚がマスコミを使っていのままに創りだす<空気>によって支配されている。政治家も、私たち国民もそれに気がつくことがなく、その<空気>に従っている。科学的なコンセンサスが作れない以上、日本人はこの恐ろしい<空気>に従うことを強制される。
そして、この国は最後の最後まで責任追及をしない。「あの時の<空気>では仕方がなかった」として全てを正当化するのである。
それを乗り越えるには、私たちが官僚の思惑に従わず、一時的な<空気>に支配されることなく、長期的に理性的に現実的に脱原発の議論を高めていくことが必要になる。
原子力発電が経済的なコスト、補償を含めたもろもろのコストを考えれば、割りに合わない(合理的ではない)という主張は、多くの研究者たち(例えば大島堅一氏など)から出されている。これは<空気>でなく、事実(ファクツ)に基づく主張である。
天然ガス、自然エネルギーを開発しながら、経年劣化が進んだ原発から20年単位で次々に閉鎖していく、マグニチュード9にも耐えられるような原発の耐震設計を行う。そういった理性的な事柄の積み重ねで原発を乗り越えていく事が必要だ。
山本七平の『空気の研究』に書かれた言葉を最後に幾つか紹介しよう。
(引用開始)
「経団連をデモで包囲して全工場を止めて公害を絶滅せよ」という玉砕主義を主張する者は確かに"純粋"である。だが、これで公害が絶滅したということは、「公害という問題が解決した」ことではない。(64ページ)
われわれの世界は、一言で言えば(注:欧米社会と違って)アニミズムの世界である。この言葉は仏物神論(?)と訳されていると思うが、前に記したようにアニマの意味は"空気”に近い。従って、アニミズムとは”空気”主義と言える。この世界には原則的に言えば相対化はない。ただ、絶対的な対象が無数にあり、従って、ある対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと移り変わるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる−ただし、うまくやれば―世界なのである。それが絶えず対象から対象へ目移りがして、しかも、移った一時期はこれに呪縛されたようになり、次に別の対象に移れば前の対象はケロリと忘れるという形になるから、確かに「おっちょこちょい」に見える。(中略)
簡単に言えば、経済成長とか公害問題は相対的に把握されず、ある一時期は「成長」が絶対視され、次の瞬間には「公害」が絶対視され、少したって「資源」が絶対視されるという形は「熱しやすく冷めやすい」とも「すぐ空気に支配される」とも「軽佻浮薄」ともいえるであろう(以下略)。(69−70ページ)
(引用終わり)
山本七平が生きていれば、21世紀の日本人が、ある一時期には「温暖化対策」を絶対視し、次の瞬間には「放射能への恐怖」を絶対視し、少したって「再生可能エネルギー」を絶対視するというこの有様を見てどのように思うだろうか。自分の主張が今持って妥当性を持つことに満足するかも知れないが、成長できない日本人に失望もしたことだろう。<コンセンサス>は万能でもないし、全てが解決するわけではないが、<空気>に支配されることよりはマシである。
私たちが、原発というエネルギーから卒業するには、<空気>の支配圏を抜け出し、原発のコスト、放射能のリスクについても客観的に議論するべきである。そうして、最終的には議論を踏まえたうえで「国民投票」という多数決コンセンサス形成の試みを実行するしかない。民主主義の手続きを無視すると「官僚による国家統制」がすぐに顔を出す。気をつけよう。(了)
(「笑うせぇるすまん」 画像)
心のスキマお埋めしましょう・・・・ただしあとで税金はいただきます
=転載終了=
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