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福島第1原発:3キロ圏内・大熊町住民が初の一時帰宅
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110902k0000m040141000c.html
毎日新聞 2011年9月2日 1時41分(最終更新 9月2日 1時46分)
◇「こんな放射能じゃ無理」
「もう戻れないでしょう」。何人もが、そう口にした。東京電力福島第1原発から南側の3キロ圏内に自宅がある福島県大熊町の一般住民が1日、初めて一時帰宅した。同じ3キロ圏でも北側の双葉町より放射線量が高く、住民たちは苦渋の思いでわずかな時間を過ごした。
149世帯239人は13台のマイクロバスに分乗し、正午前に広野町中央体育館を出発。防護服を着込み、靴にはビニールカバーをかぶせる重装備だ。
同行記者らのバスも車列に加わり、国道6号を北上。20キロ圏の警戒区域に入ると、コンビニエンスストアには商品が並び、ラーメン店のカウンターに割りばしやしょうゆ差しが置かれたまま。廃虚ではないのに人がいない異様さが原子力災害の恐ろしさを物語る。
「ようこそ大熊町へ」の文字と親子の熊が描かれた看板を過ぎ、3キロ圏に入ると記者の線量計がピーッとけたたましい音を立てた。毎時10マイクロシーベルトでアラームが鳴る。20、30と数値は上がっていく。
第1原発から1.5キロほどしか離れていない夫沢(おっとざわ)集落でバスを降りた。木立の向こうに原発の排気筒が少し見える。最も海に近い家に行くと、土台と床板の一部を残してすべて津波に流されていた。
この家に住んでいた多田正友さん(67)、春子さん(64)夫妻がやってきた。今は4カ所目の避難先、茨城県日立市の県営住宅で暮らす。「ほら、ここが台所の床下収納だったんですよ」と春子さんが指さす。「67年の夢が一瞬で消えたな」。正友さんはつぶやいた。
正友さんはここで生まれ育ち、30年近く原発作業員をしてきた。3月11日、バリバリバリとものすごい音がして津波が迫ってくるのが見え、車に夫婦で飛び乗って間一髪で逃れた。隣家の男性とその孫は津波にのまれて亡くなった。高台の神社も流されていた。
「二度と来ないだろうね」と夫妻。正友さんは続けた。「なんで国も県も町も、もっと早く(住めないと)言わねんだ。家が残っているから帰れると思う人が多いけど、こんな放射能じゃ無理だ」
◇倒れたままの息子の墓に涙
目的は墓参りだった。1月に五男正和さんを病気で亡くした。まだ33歳だった。近くの共同墓地で、倒れた墓石に正友さんは話しかけた。ここにももう来ることはできないかもしれない。「何にもできないおやじだもんな。しょうがねえ、あきらめろ」。そして「しょうがねえや」ともう一度言って地面を蹴飛ばした。春子さんが涙をぬぐった。
記者の線量計表示は毎時46マイクロシーベルト。それでもセミは鳴いていた。
制限時間の2時間が来ると、あちこちの家からビニール袋にアルバムやパソコンなどを入れた住民が出てきた。復路のバスでは汚染を持ち込まないよう「放射線管理者」の名札をつけた係員が住民の足に厳重にカバーをつける。普通に歩くことすらままならず、住み慣れた土地はすべて奪われてしまった。
中央体育館に戻った時、記者の線量計は2時間余で84マイクロシーベルトを浴びたことを示していた。【日下部聡】
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