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司法に責任逃れは許されない。
ただそれだけのこと。
原発推進側の力が強かったから、原発を止めることができなかったなどと言う戯言を言う前に、
原発推進派一味であったことを白状すべき。
★本文
http://news.livedoor.com/article/detail/5804121/
このほど結成された脱原発弁護団連絡会議の河合弘之代表が、8月9日に開かれたシンポジウムで、今年3月11日以前、原発差し止め訴訟が実に20連敗で全敗状態だったことについて、4点の理由を挙げて、分かりやすく説明しています。
一つ目は、数10年にわたり、数千億円が投入されて繰り返された「電力必要・安全キャンペーン」が国民と裁判官に完全に浸透していたこと。資源小国、原発必要論か国民を完全に籠絡し、裁判官は予断と偏見を持っていた、と。結果原発を危ないという人はありもしないことを大げさにいう変わった人、「狼少年」で、その弁護士も「狼少年」の弁護士だったとしています。
二つ目は、設置許可や、安全評価審査指針、耐震設計指針をパスしていればOKとなってしまっていた原発側の安全立証。
三つ目は、争点ごとに原発に有利な書証を絨毯爆撃のように出してくる山のようにいる御用学者の存在。これに対し、「御用学者ではない良心的な学者」を見つけるのは大変で、反論はゲリラ的なものにならざるを得なかった、と。
そして、四つ目は、行政の考え方を尊重すべしとする最高裁の裁判官に対する上からの締め付けと、裁判官のことなかれ主義、としています。
この状況が、福島原発事故で一変した、と河合代表は言います。原発キャンペーンの威力はなくなり、裁判官は住民側の警告の真実性を心と身体で感じ、許可や指針のパスがお墨付きにならない、と分かった、と。御用学者のいいかげんさは明らかになり、安易な認容判断を出して事故が起きてしまった場合の責任を考えて、慎重な姿勢に変わったとしています。
これが、まさに司法の場において、原発という存在がどうにもできなかった現実、別の言い方をすれば、危険な状態を回避するのに無力だった司法の現実であると思います。
逆に、推進する側からすれば、これが危険であるという主張を排して、原発を強行するために必要だった環境であり、ある意味、そのために作られた環境のようにもとれます。河合代表の指摘には、直接は挙げられていないものの、この環境を作るのに大マスコミが大きな役割を果たしていることはいうまでもありません。
それはある時は、前記国民籠絡キャンペーンで積極的な協力という形で、ある時は、真実や「狼少年」側の声を取り上げない不作為という形で、環境づくりに貢献してきたととることができます。
そして、やりきれない気持ちにはなりますが、冷厳な事実として受け止めなければならないのは、こうした不正義な環境がひっくり返り、司法がいわば正義に向かって機能し始めるためには、今回の大震災と福島原発事故というこの国の国民の被害と不幸が必要だった、ということです。
どんなことでもそう、それが現実といってしまえば、それまでですが、それでもこれは望ましい形ではない。いうまでもなく、国民の被害と不幸が発生するまで、この不正義な環境は、危険な状態のまま、事態の発生を回避できるのにしないまま、えんえんと存在しているからです。あの日、震災と原発事故がなければ、この国は今も間違いなく原発推進にひた走り、反原発派が連敗を続けていることを少し想像しただけでも、この環境の不気味さがより浮かび上がってくる気がします。
原発だけではありません。その規模、影響の大小違いがあっても、こうした作られた環境に阻まれ、司法でも社会でも、危険への警告が届かず、現状の政策が続く局面が沢山あります。そのいくつもの「必要・安全キャンペーン」に対しては、われわれができることは、時に権威に対しても疑い、「狼少年」にも耳をかし、自分の頭で考えることから始める以外にありません。
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