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不吉な放射能拡散予測、住民避難に生かせなかった日本政府
2011年 8月 17日 11:06 JST
http://jp.wsj.com/Japan/node_290831/?nid=NLM20110817
【福島県二本松市】福島第1原子力発電所を津波が襲ってから丸一日たった3月12日午後、同県沿岸部に位置する浪江町の住民約700人が、避難指示区域とされた半径10キロ圏内のすぐ外にある小学校に集められた。子どもたちは校庭で遊び、大人たちは犬の散歩をし、ボランティアの人々は屋外でおにぎりなどの食事を作っていた。携帯電話が使えず、テレビもなかったため、すぐ近くの原発で危機的事態が進行しつつあることを知る人はほとんどいなかった。
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避難所
Reuters
福島県浪江町の避難所に集まった周辺住民(3月12日)
その頃、東京ビジネス街の外れのとあるオフィスビルでは、危険信号が点滅していた。ここには日本の原子力災害対応における中枢部の一つ、「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」が設置されている。SPEEDIは、事故が起きた場合にリアルタイムの気象データを用いて放射性物質の拡散状況を予測し、地図を作成するコンピューター・システムだ。政府はこの地図を参考に、国民を安全な場所へ避難させることになっている。
この日の午後、SPEEDIが示した予測は、人口2万1000人の浪江町にとって不吉なものだった。仮に原発から放射性物質が放出された場合、風に運ばれて同町の上空に達した後、安全とされる10キロ圏内を通り越し、町民の集まる校庭にまで到達すると予測されたのだ。しかし浪江町の馬場有(ばばたもつ)町長によると、この情報が町民に伝えられることはなかった。
午後3時36分、福島第1原発1号機が爆発、放射性物質が空高く吹き上がった。
校庭に立っていた小売店店員の今野敏勇さん(60)は、当時の状況を振り返りこう語る。「ドカンとものすごい爆発音が原発のほうからして、爆発したと思った。その場でそれ逃げろと車で反対方向に逃げた。自分の身は自分で守るしかなかった」
だが、学校に集まっていた多くの住民は何が起きたか分からず、大半の人が数時間その場を離れなかった。
町長は後日、福島県の現地対策本部で、浪江町住民の保護を怠ったとして政府の代表者らを非難した。「われわれは、まさに一番放射能の高いところに避難してしまった。とんでもない話で、これは殺人行為に等しいと私は言ったんです」。町長は二本松市内で最近受けたインタビューでそう話した。現在、浪江町の役場と住民約3000人が近隣の二本松市に避難している。
ウォール・ストリート・ジャーナルは、原発周辺住民を保護する日本の対応を追った。これにより、放射能汚染の危険性を示す予測がなされていたにもかかわらず、政府当局者らが周辺住民への警告を怠っていた実態が明らかになった。こうした情報は数日後、あるいは数週間後まで公表されることはなかった。その上、政府と原発運営会社が多くの周辺住民に約束された避難支援を提供しなかったために、各自治体は放射性物質がどこへ向かっているのかよく分からないまま急場しのぎの対応を余儀なくされたのである。
文部科学省に代わってSPEEDIを運用する政府系機関、原子力安全技術センターの数土幸夫理事長は、「(放射性物質の拡散予測が)事前情報としてつかめれば、避難の参考にできたかもしれない」と語る。
危険性を示すこの予測は、菅直人首相率いる政府の災害対策本部に届いていた。しかし担当官僚らは、避難決定を下す政治家に警戒を促さなかったと、後に認めている。官僚らは、損壊した原子炉からどれだけの放射性物質が放出されたかを政府が正確に把握していなかったため、予測は仮定に基づいたものであり、十分に信頼できるものではなかったと主張している。
菅首相や政府幹部は、震災発生直後の数日間は、SPEEDIの存在すら認識していなかったとしている。枝野幸男官房長官は6月20日、国会の委員会で「SPEEDIの予測が結果的に必要なところに共有されず、その結果として住民の皆さんに伝わらず、また避難等に活用されなかったということについては、その理由いかんを問わず、結果的に政治の結果責任だ」と述べ、謝罪した。
周辺住民の体内にどれくらいの量の放射性物質が取り込まれたかは定かではない。政府が今日までに詳細な健康調査を行ったのは被害地域の住民120人のみで、その結果はいまだ公表されていない。当局は現在、200万人の全福島県民を対象に8月中に調査を実施し、最も危険性が高いと考えられる20万人については今後30年にわたりモニタリングを続けると約束している。
一部の専門家は、時間的な遅れにより、正確な被ばくの程度や健康被害の可能性を把握することが難しくなると指摘する。放射性元素の中には数週間で消滅してしまい、検出できなくなるものもあるためだ。その場合でも、人体が受けた損傷はそのまま残ることがある。
日本が原子力エネルギー依存を強化していた1970〜80年代、政府と公益事業者は周辺住民に対し、原発は安全だと断言してきた。万一事故が起こった場合は、緊急避難規定により、当局と運営会社が地域自治体に通知するとともに、事故と避難に関する情報を住民に提供し続けることが定められた。また、避難のための交通手段の提供は政府の義務とされた。
米スリーマイル島原発事故が発生した翌年の1980年、日本政府は避難計画を支援するコンピューター・システム、SPEEDIの開発に乗り出した。目的は、事故が起きた場合に放出された放射性物質がどのように拡散するかを予測することだった。SPEEDIの稼働が始まった1986年、政府はいかなる事故の場合にも15分以内に、安全な地域を示す詳細な放射能地図を作成することができると発表した。
富士通と共同開発したSPEEDIの作動部は、銀行支店が入った東京のオフィスビル内に設置されている。冷房の効いた部屋に複数台のコンピューターが並べられ、暗いガラス壁の向こう側ではオペレーターたちがコンピューターのモニターを見ている。SPEEDIは、気象庁や各原子力施設から収集したデータを24時間体制で高速処理し、放射性物質の拡散予測を示す地図を随時更新している。原子力安全技術センターの少なくとも2人のオペレーターが常駐し、データが毎時間更新されていることを確認している。
3月11日午後3時42分、津波が福島第1原発を襲ってから約1時間後、同原発を運営する東京電力は原子力緊急事態を宣言した。SPEEDIは緊急事態モードに切り替えられ、原発から放射性物質が放出された場合にどのように拡散するかを予測すると同時に、周辺地域の詳しい気象情報を作成し始めた。
その頃、200キロ以上離れた浪江町の住民たちは、町の一部を押し流した大津波から逃れるのに必死だった。多くの住民が町の中心部を離れ、原発から約7キロの高台にある避難所へ向かった。
翌12日の午前5時44分、政府は原発の状況が悪化しているとし、半径10キロ圏内の全住民に避難指示を出した。避難所に集まっていた浪江町の住民たちも含まれた。
半径10キロ圏内には、浪江町のほかに3つの町がある。事前の合意により、これら4町は緊急時に特別支援を受けられることになっていた。このうち双葉町と大熊町では、政府が住民を移送するためのバスを準備した。
しかし、浪江町と富岡町は自力で対応することを余儀なくされた。浪江町の職員らは、すぐに避難するよう住民に指示した。町のあちこちに設置された拡声器でアナウンスする一方、消防車を町中に走らせ避難を呼びかけた。
政府のバスが使えず、大半の住民が自分の車で避難したため、沿岸部と反対方向に向かう道路は渋滞となり、数時間立ち往生した人もいたという。ほとんどの車が苅野小学校など、10キロ圏外にある避難所を目指した。
その頃、東京では、政府当局者らがSPEEDIを使い、放射性物質を含む蒸気を放出して原子炉内の圧力を下げるベント作業などの緊急時対応を行った場合、あるいは事態がさらに悪化して原子炉爆発が起きた場合に、放射性物質がどう拡散するかを予測していた。同日午後12時36分、文部科学省は、1号機が午後1時に爆発した場合のシミュレーション結果を受け取った。そこには、大量の放射性物質が北西方面に流れることが示されていた。飛散距離は10キロを軽く超え、浪江町はおろか、苅野小学校や他の避難所にも到達することが予想された。爆発時間を午後3時と想定した場合も結果は同様で、午後4時頃に放射性物質が放出された場合でも同方向に飛散すると予想された。
その日の午後に1号機のベントを行った場合、放射能雲に覆われると予測された地域に、2000人もの住民が避難していた。住民らがその危険性を知る由などなかった。午後2時30分頃、ベントが開始された。
原発から約24キロ離れた津島地区のある避難所では、数十人が駐車場に集まり、山々の背後から立ち上る蒸気を眺めていた。彼らにはそれが何であるか分かっていた。原子炉のベントが始まるというニュースをテレビで聞いていたからだ。
材木置場を経営する朝田英洋さん(43)は、当時をこう振り返る。「放射能がこっちに来るとは思ってもいなかった。まさか来るなら、県なり、町なりがそこにいたら危ないと言うはずだと思っていた」
苅野小学校の避難者たちも、その危険性に気づいていなかった。彼らの多くは1号機がその日の午後に爆発したことすら、2時間後にやって来たボランティア消防士に聞かされるまで知らなかったほどだ。
爆発を知り、避難者らはパニックに陥った。大きく開いていた体育館の扉を慌てて閉めた人もいれば、ともに避難していた東京電力の社員らに向かって情報を出せと怒鳴り出す人もいた。
避難所にいた2人の人物によると、それからまもなく、防護服に全身を包み線量計を携えた東京電力の社員1人が社用車でやって来た。線量計は終始鳴りっぱなしだったといい、放射性レベルが高かったことがうかがえる。社員は避難者らに対し、公式に定められた避難区域の外にいるため安全だと告げると、数分後に立ち去ったという。東電の広報担当者もこの出来事を認めている。
この日の夕方、政府は避難指示区域を10キロ圏内から20キロ圏内に拡大し、30キロ圏内の住民に屋内退避を要請した。
午後6時30分頃、自衛隊のトラック2台が住民を移送するため苅野小学校に到着した。最後の避難者が小学校を後にしたのは午後11時近くのことだった。
小学校で避難者のケアに当たっていた浪江町役場の主査、大浦龍爾さん(32)は、学校の戸締まりをした後、次の避難所を目指して北西に向かった。2人の子どもの父親でもある大浦さんは、「見捨てられたというのが正直な気分だった。車を運転しながら感じたのはあきらめの気持ちだった。白血病になって、早く死ぬんだろうなとずっと考えていた」と当時の心境を語る。
避難対応で失態を演じた政府は、SPEEDIが作成した地図と予測がそれを最も必要とする人々の手に渡らなかったことについて、必死に釈明しようとしている。
SPEEDIは、2つの異なる状況に対応できるよう設計されている。通常時には、放射性物質が放出された場合の想定放出量に基づいて拡散場所を予測し、1時間ごとに地図を作成する。そして万一、非常事態が起きた場合には、原発から収集した実際の放出データを使って予測することになっている。
しかし、福島第1原発の放射線放出データをリアルタイムで送信するシステムは、爆発後に使用不能となった。菅内閣は6月に国際原子力機関(IAEA)に提出した報告書の中で、損壊した原発の放射線放出に関する完全なデータをリアルタイムで入手することができなかったと説明した。さらに、SPEEDIが推測に基づいて作成した予測結果を公表すれば、「不必要な混乱」を招く可能性があったと報告している。
だが、災害対策基本法では、こうした状況下でもSPEEDIの予測を使用することが求められている。SPEEDIを監視している人々は、正常に機能していたと認識しており、原子力安全技術センターの数土理事長は、「SPEEDIは、3月11日の事故以来、何の落ち度も、遅れもなく、正常に本来の役割を果たしていると思う」と話している。
放射線安全を専門とする東京大学の小佐古敏荘教授は4月下旬、内閣官房参与を辞任した。小佐古氏は辞任声明で、「文部科学省ならびに原子力安全委員会の不適切な初動により、SPEEDIの運用による放射性物質の拡散予測結果の活用が十分にされず、余分な被ばくを住民に与えるなどの事態を招いている」と、政府機関を批判した。同氏はインタビューでも、SPEEDIは避難計画に有用な情報を提供していたが、そのような恐ろしい決定に誰も関わりたがらなかったと述べている。
また、政府が浪江町住民にうまく情報を伝えられなかったことについては、福山哲郎官房副長官が、緊急電話システムの故障が原因だったと説明している。
現在も浪江町は、汚染のためほぼ全域が閉鎖された状態だ。いつになれば安全に戻れるのか、町民には知る由もない。他の津波被災地では復旧工事が進んでいるが、浪江町の海岸は今もがれきで覆われ、作業員が近づくことさえ許されていない。
記者: Yuka Hayashi
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