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福島第1原発:東電、水素爆発予測せず ベント手順書なし
http://mainichi.jp/select/today/news/20110817k0000m040142000c.html
2011年8月17日 2時31分 毎日新聞
東京電力福島第1原発事故で、3月12日に起きた1号機の水素爆発について、政府の「事故調査・検証委員会」(畑村洋太郎委員長)の聴取に対し、東電側が爆発前に予測できていなかったと証言していることが分かった。長時間の全電源喪失時に格納容器を守るため実施するベント(排気)のマニュアル(手順書)がなかったことも判明。このため、作業に手間取るなど、初期対応で混乱した様子が浮かび上がった。
関係者によると、政府事故調はこれまでに、同原発の吉田昌郎所長ら東電社員や政府関係者らから聴取を続けている。
1号機の水素爆発は、東日本大震災の翌日の3月12日午後3時36分に発生。建屋の上部が吹き飛んだ。水素は、燃料棒に使用されるジルコニウムが高温になって水と反応し発生したとみられている。
関係者によると、事故調に対し、東電側は原子炉や格納容器の状態に気を取られ、水素が原子炉建屋内に充満して爆発する危険性を考えなかったという趣旨の発言をし、「爆発前に予測できた人はいなかった」などと説明しているという。
また、ベントについては、マニュアルがなかったため設計図などを参考にして作業手順などを検討。全電源が喪失していたため作業に必要なバッテリーなどの機材を調達し始めたが、型式などの連絡が不十分だったこともあり、多種多様な機材が運び込まれて、必要なものを選別する手間が生じた。
さらに作業に追われる中、機材が約10キロ南の福島第2原発や作業員らが宿泊する約20キロ南のJヴィレッジに誤って配送され、取りに行かざるをえない状況になった。ある社員は「東電本店のサポートが不十分だった」と話しているという。
一方、1号機の炉心を冷却するための非常用復水器(IC)が一時運転を中断していたものの、吉田所長ら幹部がそのことを把握せず、ICが稼働しているという前提で対策が検討されていたことも判明。事故調の聴取に吉田所長は「重要な情報を把握できず大きな失敗だった」などと話しているという。
事故調は、東電側からの聴取内容と一連の事故に関するデータなどを精査した上で事故原因を解明していく方針だ。
◇震災翌日の首相視察「目的分からぬ」
「目的が全く分からない」−−。菅直人首相が東日本大震災翌日の3月12日、東京電力福島第1原発を視察したことについて、現場のスタッフが政府の「事故調査・検証委員会」の調べに、懐疑的な感想を述べていることが明らかになった。
菅首相からの「なぜこんなことになるのか」との質問には、「自由な発言が許され、十分な説明をできる状況ではなかった」と振り返る説明があった。また、海江田万里経済産業相が12日午前6時50分、1号機の原子炉格納容器の圧力を下げるベントの実施命令を出したことに、現場は「違和感が強く、意図的にぐずぐずしていると思われたら心外」と受け止めたという。
陸上自衛隊のヘリコプターによる使用済み核燃料プールへの放水には、「ありがたかったが、作業効率が極めて低いと感じた。プールに入っていないと思われるケースが多かった」との感想があったという。
◇
【ヨーコの福島ルポ】日本で一番汚い原発と戦った男たちを直撃!
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110816/dms1108160955001-n1.htm
2011.08.16 夕刊フジ
「2号機は明日爆発します」
彼は自信と苦痛に満ちた顔で、私にそう言い切った。それはMOX燃料を搭載した3号機が爆発した2011年3月14日。原発から21・6キロしか離れていない避難所、福島県川内村の川内中学校でのことだった。
子供のころ、興味本位で読んでいたチェルノブイリ関係の本、それもほとんど忘れかけていた程度の知識しかなかった私に、原発作業員だった彼は、懇切丁寧に説明し、知りうる限りの情報を私に教えてくれた。
そして、1号機と3号機で失敗した方法を、また性懲りもなく繰り返している。建屋に穴を開けない限り、爆発するのは当然のことだと、彼は言った。
この避難所に身を寄せていた富岡町の町民のなかには原発作業員が多い。4号機タービン建屋の地下2階では、満潮時に海水がしみ出して来たことや、福島第2原発では放射能を浴びないエリアでも、第1原発では浴びたことを聞いた。老朽化の激しい、日本で一番汚い原発だったと、皆が口をそろえた。
彼の予測通りに2号機が爆発した後のこと。彼の叔父に、メーカーから招集がかかった。父親同然に育ててくれたという叔父に「行くな!」と泣いて止めたが、次の日の朝、迎えのバスに乗り、第1原発の構内へと向かっていったという。
彼との縁のおかげで、私は奇しくも「FUKUSHIMA50」と呼ばれた、決死隊のインタビューに成功した。川内中学校で会った彼とその叔父をきっかけに、私は福島第1原発にいる作業員に、強くひきつけられてしまったからだ。
事故から半年近くたち、もうインタビューを行っても、私の知識不足で取材対象者をわずらわせることは段々と少なくなってきた。今、私の中にある原発についての知識、放射能についての知識の基礎は、全て彼があの日に教えてくれたもの。はるか年下の男性だが、今まで出会ったどんな教育者より素晴らしい本物の恩師だった。
そもそも私が福島に入ることになるのは、友人男性のあるSOSからだった。
■ヨーコ ライター。元ストリッパー。昨年現役引退するまで、アソコから火を噴く“花電車”で親しまれ「ファイヤー・ヨーコ」の愛称で呼ばれた。鍛え抜いた膣圧を応用し、尿漏れ防止や産後のリハビリ、勃起力向上のための「おしりプルプル体操」の講師としても活動中。東日本大震災の翌日、軽自動車にありったけの物資を積み込んで福島入り。いまも現地と東京を往復しながら、原発内部や避難区域のリポートを続けている。
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