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菅総理が週刊朝日(8月19日号)のインタビューに応じて、3・11後のことを詳しく語りました。
記事の全文を掲載するのは著作権の問題がありそうですので、要約します。
問 震災から5ヶ月です。
3月11日の発生以来、最悪の場合に日本はどうなるのか、私自身もずっと考え続けて、対応にあたってきました。初めの10日間は、津波被害はもちろん、原発事故の被害がどこまで広がるのか背筋が凍りつくような思いでした。
問 なかでも原発事故は多くの人を不安にしました。
相当期間、原子炉の正確な状況が把握できませんでした。水位がここまであると言いながら、実際は全然なかったとか、その経験は結果として、私の原子力に対する考え方を根本から覆しました。
地震・津波・原発の「3重のリスク」を負っている場所は米国西海岸と日本列島と、世界に2カ所しかありません。しかも日本は広大ではないので、原発事故が最悪のケースになれば、国家の機能が停止してしまいかねません。従来考えていた安全性の発想では、そんなリスクには耐えられないでしょう。そういうことを踏まえると、原発依存度を下げて、原発に頼らなくてもいい社会を目指すのが一番の安全性じゃないか、と考えが変わりました。
問 各社の世論調査でも、7割の人が「脱原発」の方向性に賛成しています。
原子力に頼らなくても健康で文化的な生活が十分にできるんだ、と理解してくれる人が増えたら、もっとその傾向は強まるでしょう。ただし、計画的、段階的にやらないといけない。
これは新しい産業革命です。20世紀は、エネルギー消費の伸びと、GDPの伸びはほぼ比例していました。でも21世紀は違う。電力消費を減らす努力が、GDPを伸ばすことにつながる。例えば、LED電球にしてもヒートポンプにしても、省エネの方向に技術開発を進めたほうが、世界的な競争で優位に立ち、GDPも伸びるんです。
いまは理解しようとしない企業のほうが力を持っていて、新しい動きを抑えこもうとしている。
問 しかし、総理の方針には「個人的見解に過ぎない」という批判があります。
批判があることは自覚しています。ただ私は、国民にとってなにがいいか悪いか、で判断をしています。そういう本質的な議論はなくて、「思いつき」といった手続き話に論点がすり替わってしまっていませんか。そういう矮小化によって何を守りたいのでしょうか。私の見解は、国民の間ではもう当然の考えになりつつあるのに。
問 政府全体として「脱原発」なんですか。
私としては、トップがこう考えているという大きな方向性をまずハッキリさせる意味で「個人的な考え」を表明しました。そして7月29日に「エネルギー・環境会議」で「政府の考え」として、原発への依存度を減らしていく方向性を明確に基本理念として打ち出しました。3・11をきっかけに、日本の原子力政策、エネルギー政策の大きな転換が本格的に動き出そうとしています。
問 では、その考えに至る原発事故対応の経緯を聞かせてください。
最悪の事態を回避するためにやるべきことは「とにかく原子炉を冷却する」というシンプルなことだったんです。それには原子炉に水を入れるしかない。それに専念しました。
問 後に、ベント作業の遅れが野党から追及を受けました。
ベントの指示は、早い段階から何度も出しました。にもかかわらず、なかなか実行されない。その理由もはっきりしない、という状況でした。
問 「総理が海水注入を止めたのでは」という議論もありましたが。
二重に誤った情報です。海水注入を止めさせるような指示は出していませんし、事実、東電は注入を止めていません。真水がなくなったら、海水を入れるのは当然の判断です。短時間で、そういうとっさの判断を何回もせまられました。
問 発生翌朝にヘリで事故現場を視察に訪れました。
何しろ、震災直後から、現地から確かな情報がほとんど来なかったんです。こちらの指示も、現場で対応に当たっている人たちに伝わっているのか、何が伝わっていないのかが、わからない。やっぱり物事を判断するには指示がしっかり当事者に伝わるか否かが大事ですから、そこを直接確かめておきたかった。中でも第一原発の吉田昌郎所長と会って話したことは、後々、非常に役に立ちました。吉田所長と会って、「やっと匿名で語らない人間と話ができた」という思いでした。
問 15日早朝には、総理自ら東電の本社に乗り込みました。なぜですか。
その日の未明に、私のもとに「東電が原発事故の現場から撤退したいと言っている」という報告が来ました。私は「何が撤退だ」と思いました。彼らが撤退して冷却作業が止まったら、途方もなく広い範囲に汚染が広がるという図が脳裏に浮かんで、ゾッとしました。私は即座に、「何としても事故収束に向けての作業は続けなくてはならない」と決断を固めました。そして、いますぐ政府と情報を一元化する部署を東電に作らなければならないと判断して、本社に乗り込み、「撤退なんかあり得ない!」と語気を強めて言ったんです。周りには200人ぐらいはいたでしょうか。
問 それが政府と東電がつくった統合本部ですね。
はい、東電本社には、大きいスクリーンがあって各原発とテレビ電話でつなぎっぱなしになっています。そこに政府の人間が常駐すれば、情報は滞らないと考えました。私は、細野豪志君(当時は首相補佐官)に「事務局長として、ここに常駐するんだ。スタッフをつけるから」」と指示しました。これ以降、東電や保安院との情報連絡がスムーズになったんです。
問 避難区域は30キロでとどまった。どんな基準で判断したんですか。
喫緊の事故対応なので、まずは同心円での指定とし、その後より細かい区域指定にしていきました。拡大か収束か、見通しが立たない。場合によっては避難範囲を拡大させねばならないという緊張感でした。
問 菅直人と原子力。意外な組み合わせです。
実は、私が政治家になるきっかけの一つが、科学技術、より具体的には核兵器だったんです。1957年、世界の科学者が集まったパグウォッシュ会議が創設されました。その会議で、アインシュタイン、ラッセル、湯川秀樹らが結束して、核廃絶に動いた。科学技術には矛盾があることを知ったのです。そこをなんとかしたいというのが、私の原点です。核兵器の開発などは、ネズミがネズミ獲りを作ってしまったような自己矛盾です。
問 原子力行政にどんな課題が見えましたか。
日本の原子力行政は、今回の事態に対し、すでに対応力を失っています。推進側と規制側(保安院)が同じ資源エネルギー庁内にある。原発を推進すべきだと考える人たちは、政界には財界や労働界を通して、メディアには電力会社が広告を出すことで、広く網をかぶせてきました。その中に結局いた点で、私も反省しなければなりません。
問 原子力行政で「政治主導」はできていますか。
私が自民党の中で育っていたら、厚生相の時も薬害エイズは解決できなかったでしょう。なぜか。しがらみが生まれるからです。私は新参者として霞ヶ関に入ったからよかったんです。今回も、歴代総理としては比較的、原子力業界にしがらみがない人間だからやっていられるんです。
問 具体的に原子力行政をどう変えるのですか。
大きな試みとして、大臣ポストを作りました。原発事故担当相を設置して、いちばん現場がわかっている細野君に任せました。癒着構造を見直す第2ステージに入ったと認識しています。このステージでは、細野大臣のもと、原子力安全庁の新設を急ぎ、監督する側・される側の同居構造を打破しなければなりません。
問 総理の思いはわかりました。しかし、永田町で同意を得られますか
だんだん政局の話になってきましたね(笑)。理由はともかく、菅直人を降ろしたい、残念ながら、そういう力学がかなりの力で感じられます。
問 最後にうかがいます。いつ辞任するんですか。
私が総理の職にある時に、原発事故が起きて、原子力行政の問題があぶりだされたのは、何かの巡り合わせだと思います。総理である以上、いずれ去る日が来るその時まで、言うことは言い、やるべきことはやりぬきますよ。どうにか原子力行政の抜本改革の道筋はつけたい。これがいまの率直な思いです。
要約 おわり
みなさん、この総理をなぜいま取り替えるのですか?
http://www.minusionwater.com/kansourihasahi.htm
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