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まずは、番組に登場し鮮烈な印象を受けた88歳の旧日本陸軍航空隊搭乗員本田 稔さんの話を取り上げたい。
本田さんは、かねてより、大村飛行隊の「紫電改」搭乗員だったことから長崎への原爆投下を防ぎ切れなかったことで、強い自責と自戒の念を持ち続けてきたという。
本田さんは、昭和20年8月6日に兵庫県から長崎に向け飛行しているとき、広島への原爆投下に遭遇したという希有な体験を次のように語っている。
「原爆炸裂のきのこ雲を目撃し、機体が一気に吹き飛ばされしばらく操縦不能になって500mほど降下した。ようやく体勢を立て直したら、今見たばかりの広島の街がなくなっていた。頭がおかしくなった。現実かどうか見当がつかなかった」
本田さんは、高度1万mまで上昇できる「紫電改なら、難しいことは難しいけれどB29を撃墜したり追い払うこともできる」、「出撃命令さえ出していれば、絶対、長崎は爆撃されていない。僕は確信しています。それだけは」と語ったあと、参謀本部が5時間前には(長崎への)原爆投下の情報を掴んでいたことをNHKの担当者から聞くと、
「なんで命令を出さないんや。(しばらく沈黙)これが日本の姿なんですかね〜。こんなこと、また起きるんじゃないですか?こんなこと許しとったら・・・」
1945年夏に“核”をめぐって「活かされなかった情報」は、2011年春に起きた福島第一の原発事故で、SPEEDIをはじめとする放射性物質の漏出・拡散に関する情報が秘匿され、その情報を知ったうえで住民に対応しているはずの政府や自治体が、被曝を減らすような避難誘導や広域住民の被曝を少なくする防護策に活かすことさえしなかった現在の現実に直結する。
日本国民は、この66年間に三たび、自分たちの支配層から“核の人体実験”に投げ込まれるという想像を絶する酷い仕打ちを受けたのである。
本田 稔さんへのNHKの取材がいつ行われたかわからないが、3.11以前の取材であれば、それこそ“地獄への予言”ということになり、身震いを起こすほど怖い話である。
■ 自己の原爆観への衝撃と参謀本部が不作為で通したワケ
私がこれまで抱いてきた原爆投下に関する思いは、「日本の戦争指導者は、中立国に在留している外交官(含む武官)や金融家もいたのだから、米国の原爆開発情報はそれなりに知っていたはず。しかし、高高度で飛来する長距離重爆撃機B29に対しては、高射砲も届かず、1万mまでの上昇能力を有する戦闘機は払底していたから迎撃もできず、情報戦においてもめくらに近い情況だったため、広島と長崎で20万人を超える犠牲者を出すハメになった。米国は、非欧州系の日本人を標的に原爆の威力を実証することで戦後世界で優位に立てると踏み、勝利(日本降伏)にとってことさら必要とは思われない原爆投下を敢行した」というものだった。
2001年の「9.11同時多発テロ」は世界に多大な影響を与えるとてつもない“陰謀”だったが、究極は米国民が追及しなければならない問題である。
「真珠湾奇襲攻撃」をめぐる“陰謀”も、日本国民が追求すべきテーマを含むが、見逃し陰謀は米国連邦政府の不作為のことだから、3千人近い犠牲者を政府に強いられた米国民が追究すべき課題である。
私に対する「陰謀論者」批判もあるなかで、このように“陰謀”を書いたのは、陰謀論好きでそれなりに妄想をめぐらせる自分であることを予め知ってもらうと同時に、原爆投下に関しては、この番組を見たことで、陰謀論も排除しないで考えてきた自分の想像力があまりに貧困であったことを思い知らされたことを伝えたいからである。
広島原爆投下の少し前のB29による“偵察飛行”は有名で、そのため空襲警報も出されていたが、“偵察飛行”のB29が飛び去ったことで、原爆が投下されるちょっと前の8時頃に空襲警報が解除されたという経緯も、日本軍の情報収集力の欠如に由来すると考えてきた。
ところが、50年近く持ち続けてきたこれらの観念が、NHKのたった一つの番組でみごとに吹っ飛んでしまった。
数に還元できる話ではないが、それ以降の戦争行為で十万を超える殺戮があるとしても、それ自体では2千7百人ほどの犠牲であった「9.11」を凌駕する「陰謀論」が成立してしまう内容が放送されたのである。
NHKは「活かされなかった情報」という気を遣った表現をしているが、番組を見なくとも、紹介した本田さんの言葉でわかるように、「広島や長崎の住民を無防備のまま、まもなく炸裂するはずの原爆のもとに放置した“人体実験”」といえる暴挙なのである。
えぐい言い方をすると、不作為で住民を原爆にさらすと判断した参謀本部上層部は、“人体実験”のために「情報を活かした」のである。
“人体実験”と先走って書いたが、番組を見ながら、そして、見終わったあとも、参謀本部は、「なんのために、国民の被害を少しでも軽減する策をとらなかったのか?」をあれこれ考えた。
なけなしであるはずの紫電改など高性能戦闘機を迎撃に発進させなかったことは、“その後の戦局”を考えてのことという言い訳を受け容れ、涙ながらに許容しよう。
しかし、住民が防空壕やコンクリート建造物の地下などに待避できる空襲警報は、発令する手間だけで“物質的負担や継戦阻害はゼロ”である。
実際に、広島でも午前8時頃まで警報は出ていたし、日本の主要都市が次々と襲われた無差別都市爆撃でも空襲警報は出されている。
このことから、管区司令部に連絡して空襲警報を発令させることさえしなかった参謀本部の対応は、一切の言い訳を許さないまったくもって理不尽な国家犯罪だと断ずる。
守るべき国民、愛すべき同胞を見殺しにするような策をなぜ採ったのか?という問いには、私の想像力からはあまり多くの答えは出てこない。
A.残虐非道な新型爆弾でとてつもない数の同胞を殺戮した米国への憎悪と復讐心を継戦のバネにする。
B.戦争を継続する物質的条件はないが降伏に踏み出すきっかけがないから、原子爆弾の惨禍を支配層が直視することで降伏へ向かうよう被害が大きくなるようにした。
C.日本も原爆の開発に励んだ経験があり、今後の世界で重要な軍事技術になるはずの原子爆弾の威力をこの目で確認したい
D.Cと同じ話だが、自分たちのためではなく、戦後処理を考慮して米国のために威力を目一杯実証できるようにした。731部隊の石井中将などと同じ発想。
この四つ、実質は三つである。
広島や長崎の住民の安全を考慮した対応をするほど参謀本部はヒマではなかったという話はあり得ないと考えリストアップしなかった。
また、原発事故で政府が言い訳に使った「パニック回避」説も、日々空襲に見舞われていた当時の日本の現実を考えると無効である。
Aは、広島原爆投下後、陸軍が、投下された爆弾が原爆であることを他の権力者に認めず、被害も小さく見せる策動をしていることから却下する。
Bは、陸軍は本土決戦に最後の望みを託しており、番組でも紹介されているが、原爆はとてつもない惨禍をもたらすものだが、投下可能な数はしれていると強気を崩していないのでやはり却下である。
残るはCとDだが、Bを却下したロジックから米国への貢納説であるDは消え、Cの“自分たちが原爆の威力を知りたかった”という動機に落ち着かざるをえない。
番組では、昭和18年春、東条英機陸相(首相)が、兵器開発担当者に米国の原爆開発動向を説明しつつ原爆の保有が戦争の行方を決するという考え方を披瀝し、「原子爆弾の開発を航空本部が中心になって促進を図れ」と号令し、理化学研究所の仁科グループが原爆の開発に動き始めたことが紹介されている。
日本の原爆開発は天皇の意思で中止になったという説もあるが、この番組では、昭和20年6月に資材の枯渇から開発中止になった経緯を史料の文章で示している。
開発断念は、表向き、放射性ウランの分離はできない、そして米国もできないはずだというものだった。
(遠心分離器で原爆がつくれるだけのウラン235を抽出しようとしたら安定的継続的に使える膨大な電力が必要だから、他の多くの産業活動を停めない限り当時の日本ではムリだっただろう)
先日の書き込みで「東電OL殺人事件」の著者である佐野 眞一氏の「3・11が我々に示したものを、すぐに、また閉じようとするような精神の劣悪な劣化は“精神の瓦礫”である。国民にはいいひとがいるが、それを支配する層というか、政官業というか、政治家・官僚・経済人の振る舞いが変わらないことに怒りを感じる」という言葉を紹介したが、参謀本部や現在の政府機構と本田 稔さんを比較すると、佐野氏の思いがさらに痛いほどわかる。
私はかつてこの阿修羅で「敗戦責任論」を主張したが、NHKが放送したこの番組の内容が広く認知されても政治的騒動にならないまま過ぎていくのなら、日本にいい未来はないだろうと心底から思う。
今日の衆議院予算委員会で防衛・外交に関する集中審議が行われていたようだが、「日米同盟」の深化や理解を求めるより、この問題をどう考えどう総括するのかのほうが国防の本義にとってより重要な話だと思う。
■ 番組内容でみる原爆投下に「活かされなかった情報」の経緯
この投稿のため、録画を見ながら書き起こしをしているので、コピペなどに利用できる便もあると思われるので経緯をまとめる。NHKの番組に一部情報を付加している。
基本的にビデオの内容を文字にしたものなので、ビデオを見た(見る)方はことさら読まれる必要はないと思う。
昭和19年7月のサイパン陥落(テニアンは8月陥落)後、日本のほぼ全土が長距離爆撃機B29の出撃範囲に入った。(サイパン陥落が東条退陣の契機となる)
昭和20年3月15日の東京大空襲から日本各地で無差別爆撃が繰り返されるようになった。
この事態に対処するため、参謀本部2部(情報)は杉並区内にあった古い洋館の老人ホームに「陸軍特種情報部」を置き無線傍受を中心とした対米諜報任務を強化した。
B29のモールス信号を傍受するのが任務で、暗号部分はわからないままだったが、徐々にグアム、サイパン、テニアンを基地にしているB29飛行部隊の概要を知るようになる。
それは、平文で出されるコールサインの分析によるもので、どの島から何機出撃したのか、日本での行き先はどこなのかも推測できるようになった。
[コールサイン分類]
● V400番台:サイパン
● V500番台:グアム
● V700番台:テニアン
6月になると、テニアンを発信元として、これまで聞いたことがないV600番台のコールサインを傍受するようになった。
参謀本部2部で対米諜報活動の責任者で「特種情報部」も統括していた堀 栄三少佐は、16年前に死ぬまで原爆投下を防げなかったことを悔やんでいたという。
そして、死ぬ2、3年前に、肉声でことのいきさつをテープに吹き込んでいた。
「600番台のコールサインを持つ正体不明の部隊は、番号を丹念に拾っていくと12〜13機ほどしかいない。他の戦隊は100機以上あったのに、これはおかしい小さすぎると思った。それが契機となり、その小さな部隊を「特殊任務機」と命名し、動向を探るため通信部隊を増強した」
7月16日:米国がニューメキシコ州でプルトニウム型原爆の実験に成功し、その情報は断片的に参謀本部に入っていたが原爆だと認めるものは誰もいなかったという。
(陸軍は、6月の原爆開発断念の根拠から米国が開発できたことを認めるわけにはいかない。テニアンには、広島に投下されるウラン型原爆リトルボーイが7月初旬に運び込まれている。7月16日のプルトニウム型原爆の実験が行われる前にすでに原爆は存在していたのである。これはドイツが製造した原爆が運び込まれたものと推定している。)
8月6日午前3時:陸軍特種情報部がV600番台のコールサインを傍受。「特殊任務機」が日本に向かっていることを確認。
堀少佐談:「8月6日V600番台のコールサインが短い電波を出した。その電波はワシントン向けだった。それでもこちらはまだわからない。どういう電波やら中身は全然わからない。硫黄島の米軍基地に無線電話で「我ら目標に進行中」と話している」
8月6日未明から広島周囲の西宮・今治・宇部がB29に空襲された。
(米国は、原爆の威力をできるだけきちんと知りたいと考え、原爆の標的と考えていた都市を爆撃しないようにしてきた。標的とした都市は、広島・小倉・長崎である)
8月6日午前7時過ぎ:1機のB29が気象偵察のため進入。
堀少佐談:「午前7時20分ごろ、豊後水道から広島に入ってきた飛行機がある。B29です。豊後水道から来た飛行機が電波を出したら、それはだいたい気象偵察だった」
(公開されている米軍の原爆投下作戦命令書にも、まず気象偵察、V675のコールサインを出してエノラゲイに指示すると書かれている)
堀少佐談:「これが広島の上空を通って、また短い電波を出した。これがやっぱり600番台。これはただごとじゃない。これは特殊任務機が近づいてきたとわかったわけですね」
しかし、この情報が、参謀本部から広島の司令部に伝えられることはなかった。
広島の司令部は、「特殊任務機」が飛来している真っ只中に警戒態勢を解除した。
(未明からの連続空襲で疲労もしていたという)
午前8時頃:広島の空襲警報解除。
陸軍特種情報部の少尉だった長谷川良治さん(88)は、B29の情報を集める担当だったが、広島原爆投下のあと、自分たちが上げた情報が活かされなかったことで悔しがる上官の姿を見ていた。
長谷川さんは、「上官は、自分の意見を聞いてもらえなかった、残念だという顔がありありと見えていました。これだけ日本が攻められているのに、判断が鈍いということかわからないけど、参謀本部の他の方々には通じなかった」と、上官の様子を語った。
8月7日:陸軍は広島壊滅の報を受けても、それが原子爆弾だとは他の組織には認めようとしなかった。東郷外相が事実確認を迫ったが、陸軍は、米国は原子爆弾とか言っているけれど、非常に力の強い普通の爆弾と思われると説明したという。
ところが、参謀本部は内部では原子爆弾だと認めていた。
8月8日:杉並の陸軍特種情報部の中庭で、参謀本部による表彰式が行われ、原爆機のコールサインを突き止めた功績が認められた。参謀本部の人間は、V600番台のコールサインを出したB29は原子爆弾を積んでいたとし、「これがもっとも恐ろしい原子爆弾を積んでいる飛行機だ」と説明したという。
8月9日未明:再びV600番台(675)のコールサインを傍受。
それを傍受していた特種情報部の中尉だった太田新生さん(90)が語る。「広島に原爆を落としたB29が使っていた特別な電波と同じ電波を使って、テニアンの飛行場から、通信内容はわからないけど電波が出されたとき、普通ではないと感じて非常な不安を感じた。同じものが、近く、どこだかわからないけれど、数時間後に日本国内のどこかに落とされる危険大・・・」
8月9日午前9時:長崎に原爆を投下するボックスカーが九州に接近。豊後水道から小倉に向かったが視界が悪かったため、島原半島を横断して長崎に向かった。
このような情報が陸軍中枢にも伝わっていた事実が防衛省防衛研究所戦史部で見つかったという。
当時の参謀総長梅津 美治郎に情報を伝える側近だった井上 忠男中佐の「備忘録」に、「特殊爆弾 V675 通信上、事前に察知 長崎爆撃5時間前」という走り書きがあった。
※ 梅津氏は極東軍事裁判で終身刑を受け獄中死。1978年に靖国神社に合祀。
8月9日:ソ連参戦もわかったこの日、朝から「最高戦争指導者会議」が宮中で開かれ、ポツダム宣言受諾の可否をめぐって議論が行われていた。
6月9日午前11時2分:空襲警報も発令されないままの長崎に原爆投下
特種情報部の中尉だった太田さんは、その事実に、「なぜ、活かされなかったのか納得できないよ。惜しいったらありゃしない。分かっていたんだから、何か努力してくれていたら、だめだったとあきらめられるかもしれないけど、(情報)を全然使った形跡がないからよけい悔しいです」と憤慨していた。
広島の原爆投下に関して貴重な証言を残していた参謀本部2部の堀少佐は、長崎原爆投下に関しては寡黙を通し、手帳に次のようなメモを残しているだけだという。
「コールサインを8月9日も同様にキャッチしたが処置なし。あとの祭りとなる」
※ 広島原爆投下に関する証言者の話
広島で爆心地からわずか700mで原爆を体験しながら無事だった岡ヨシエさんは、学徒動員で広島城に置かれていた中国地方軍司令部で手伝いをしていて、コンクリートで遮蔽された壕のなかにいたことで助かったという。
岡さんは、「あのとき、空襲警報さえ出ていればと、今も悔やんでいる。警報が早めに出ていて地下壕や防空壕に入っていたら、あれほどたくさんの人が死なずにすんだではなかったのか、たくさんの人が助かったのではと思った」と語った。
自分が地下壕にいたとき、同級生60名は、近くの広場での朝礼に出ていて全員死亡したという。
岡さんは、「同級生の看病をしていたとき、母親があまりのむごさに、ほんとに変わり果てた我が娘を抱いて泣かれたんですけど、そのとき、「お母さん泣かないで、私はお国のお役に立って死んでいくのですから」と言いながら焼けただれた顔で、それでも、安らかな顔で死んでいった」と語った。
Gataroさんが、「原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報」(http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/843.html)に、番組内容をアップされているので、放送をご覧になっていないかたは是非ともご覧いただきたい。
※ 最後に
NHKはこの土曜と日曜(6・7日)に実に見応えのあるドキュメンタリーや科学情報の番組を連発で放送した。
ドキュメンタリーWAVE「内部被曝に迫る」、フランステレビジョンとの国際共同制作「ヒロシマの黒い太陽」、コズミックフロント「迫りくる太陽の異変」そして、今回取り上げた「原爆投下 活かされなかった情報」のどれもたいへん内容が濃い番組だった。
それらの番組も、遭遇する機会があったら是非ともご覧いただきたい。
「内部被曝に迫る」については、簡単な関連投稿をするつもりです。
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