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昨8月5日日経新聞朝刊最終面(40頁)の「8・15からの眼差し」の欄に、吉本隆明氏へのインタビュー記事が掲載されている。
今の若い世代にとっては、吉本隆明どころか、その娘で小説家の吉本ばななさえ、名前をご存じなかったり、はるか昔の人と思う存在なのかも知れない。
私は世代的には吉本隆明ブームのなかで学生時代を過ごした部類で、まわりにも吉本崇拝者がそれなりにいた。
吉本氏も86歳になり足腰が弱くなっているそうだが、東工大出身の思想家らしく思想と科学の関係から原発の行く末を論じている。
まずは原発に関わる部分を引用し簡単にコメントしたい。
【引用】
『−事故によって原発廃絶論が出ているか。
「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬いものを透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いに安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」
【コメント】
燃料が桁違いに安いという認識については、核燃料のコストさえ秘匿されている事実や使った燃料の後始末コスト問題を指摘するにとどめ、それ以上触れない。
「原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬いものを透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった」という部分も、医学や産業での放射線利用との混同かなとも思われるがご愛敬でいいだろう。
肝心なのは、「原発をやめる、という選択は考えられない」という結論の根拠を示している部分である。
吉本氏は、「発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じ」という論理で、原発をやめることはないと主張している。
核兵器などと同じで、原発の稼働が“発達”か“悪行”なのかはともかく、人類が獲得した核分裂など核エネギルーに関する知見(科学)やその制御及び利用の技術が消え去ることはない。
吉本氏は科学と技術をごちゃ混ぜに話しているが、核分裂などに関する知見は科学と言えるが、原発は、その科学的知見と従来の技術が結合され生み出された技術である。
科学的知見を基礎に獲得した技術だからといって永劫に利用されるわけではない。これまでも、様々な技術が、害を知ることで打ち棄てられたり、同じ目的を実現するよりよい他の技術に置き換えられたりしてきた。
だから、「発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない」という論理は間違っており、せいぜい、「発達してしまった科学を捨て去ることはあり得ない」と言えるだけである。
「それは、人類をやめろ、というのと同じ」という勇ましい表現は、「発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない」を補強する修辞として受け止め、笑って見過ごそう。
核燃料ゴミの後始末問題は別にしても、あるコストで電力を得るメリットと今回のような深刻な事故のリスクを考慮して、害のほうが大きいと判断したら、他の発電技術で電力を得るように舵を切るのが「人類の知恵」であり“贖罪”でもある。
発電用はともかく、リスクを承知でそのリスクを超えて核エネルギーの利用技術を高めていく必要があると判断するのなら、そのための研究者と研究施設を維持すればよい。
「科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない」というのは、これまでの原発推進派の言い分とほとんど変わらないものだろう。
しかし、建前でそう言ってきた原発推進派の本音は、そんな防禦装置をつくらなければならないのなら、コストが見合わないどころか、発電すらできない無用の長物になってしまうというものだったはずだ。
原発は、冷却水がなくなり核燃料棒のジルコニウム被膜管が酸化してしまうだけで、16cmも厚さがある原子炉に穴が開いてしまうのだ。
原子炉に外につながる様々な配管を貫通させなければ発電はできない。配管が損傷すれば、冷却水がなくなる可能性があり、配管の損傷リスクをゼロにはできない。班目氏ではないが、過酷事故対策をまじめに考えたら設計すらできないのが原発なのである。
そう答えた班目氏と知恵とお金で「完璧な防禦装置」をという吉本氏のどちらが“誠実”なのか答えるのは難しい。
知恵とお金で「完璧な防禦装置」が出来ると考えているところは、「原子力発電をきちんと動かすには科学技術がまだまだ未熟」と言っている“科学信仰”の共産党と根底ではあまり変わらないと言えるだろう。
「発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じ」という、吉本隆明の誤りで奇妙な言葉が、原発維持のために活発に動き始めないことを願ってこの書き込みを投じる。
【全文引用】
『8・15からの眼差し 3 震災5ヶ月
詩人で批評家の吉本隆明氏(86)は戦時中、軍国主義少年だった。その体験を自らに問い、戦後、独自の思想体系を築いた。戦後思想の巨人に、今回の震災体験を聞いた。
−3月11日は、どうしていたか。
「自宅のこの部屋で書き物をしていたと思う。足腰が不自由で、自宅周辺のことしか分からないが、地震の後は、不気味なほど、静かだった」
−戦中と比べると。
「あのころの東京は、人々も町中の印象も、どこか明るくて単純だった。戦争で気分が高揚していたせいもあったろうが、空襲で町がやられた後でも、皆が慌ただしく動き回っていた。
今度の震災の後は、何か暗くて、このまま沈没して無くなってしまうんではないか、という気がした。元気もないし、もう、やりようがないよ、という人々が黙々と歩いている感じです。東北の沿岸の被害や原子力発電所の事故の影響も合わせれば、打撃から回復するのは、容易ではない」
−復興への道は。
「労働力、技術力をうまく組織化することが鍵を握る。規模の拡大を追求せず、小さな形で緻密に組織化された産業の復興をめざすべきだ。疲れずに能率よく働くシステムをどうつくっていくか、が問われるだろう。
それには、技術力のある中小企業を大企業がしっかり取り込む必要がある。外注して使い捨てるのではなく、組織内で生かす知恵が問われている。この震災を、発想転換のまたとない機会ととらえれば、希望はある」
−事故によって原発廃絶論が出ているか。
「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬いものを透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いに安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」
−明るさは戻るか。
「全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか、回年に好かれるといった小さな満足感で、押し寄せる絶望感をやり過ごしている。公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、いちばん体制津に生きることだろう」』
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