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脱原発と自然エネルギー発電導入は分離して科学的議論を
2011年 8月 4日 時代をみる 近藤邦明
<近藤邦明(こんどうくにあき):「『環境問題』を考える」管理者>
福島第一原発事故以降のエネルギー問題に対する主要な論調は、脱原発=自然エネルギー発電導入拡大のようです。この安直な判断は非科学的であるが故に、エネルギー政策としてほとんど失敗が確定的な選択であり、憂慮しています。
まず脱原発について。これは100%正しい選択です。
その意味は第一に、原子力発電という発電技術は、最も高価=資源・エネルギー浪費的な発電技術だということです。
第二に、福島原発事故で明らかなように、事故発生時の人的・社会的損害が大きすぎるために、民生部門におけるエネルギー供給技術として一般的に利用することは不適切であるからです。
第三に、使用済み核燃料、高レベル放射性廃棄物の本質的な処理方法がついに技術的に確立できなかったために、将来において必ず環境を汚染するからです。
つまり、脱原発という主張は社会・経済システムにおける政策判断である以前に科学的な必然性によって裏打ちされている正しい判断なのです。
しかし、脱原発=自然エネルギー発電導入拡大は全く意味が異なります。なぜ今、脱原発と自然エネルギー発電の導入がセットとして主張されているのでしょうか?
それは、『最大のCO2排出量削減の切札であった原子力発電に代わるCO2排出量削減のための発電技術が必要だから』というものです。これは自然エネルギー発電利権を食物にしようとする人々から仕掛けられた『原子力安全神話』に代わる『自然エネルギー発電神話』であり、三重の意味で誤りです。
第一に、この主張の前提にあるのが、『人為的CO2地球温暖化脅威説』ですが、これは既にちきゅう座の記事としても5月25日に掲載された槌田敦の物理学会誌掲載論文『原因は気温高, CO2濃度増は結果』で詳述されている通り、自然科学的に誤りであることが明らかになっています。ここでは詳しく触れませんが、人為的なCO2排出量は近年の気温上昇傾向とは無関係なのです。つまり、温暖化防止という目的でCO2排出量を減らすというのは無意味なのです。
第二に、原子力発電はCO2排出量の削減に効果は無いのです。原子力発電は電力会社の会計には含まれない原子力関連の不採算部門に対して莫大な国費=税金を投入した上、使用済み核燃料や放射性廃棄物処理費用を全く計上してこなかったために、見掛け上安い電力だとして国民を欺いてきました。しかし、これらの費用を考慮した原子力発電電力価格は最も高価なのです。こうした原子力関連の全工程に投入される石油・石炭などの化石燃料消費量を発電所運用期間中の発電電力量あたりに換算すれば、火力発電以上に石油や石炭を消費することになるのです。ちきゅう座7月22日掲載の拙文『ウランとLNGの燃料費試算』で紹介したとおり、軽水炉核燃料サイクルで軽水炉プルサーマル発電用のMOX燃料を製造した場合、その製造コスト≒投入エネルギー費用は火力発電の燃料費の3倍程度にもなるのです。つまり、『原子力発電はCO2排出量を増加させる』発電方式なのです。
第三に、現状では最新鋭の火力発電以上に石油・石炭などの化石燃料の消費量の少ない自然エネルギー発電システムは存在しないのです。つまり、自然エネルギー発電システムの導入によって、化石燃料消費量は増大し、したがってCO2排出量も増加するのです。付言すれば、ちきゅう座5月20日掲載の拙文『脱原発は科学的必然(上) (下)』で示した通り、工業生産規模も飛躍的に増加することになるのです。現時点において、CO2排出量を減らすことを目的にするならば、原子力発電の減少で補うべき電力があるのならば最新の火力発電所の建設で代替することこそ最も合理的なのです。
私は自然エネルギー発電一般を全て無意味であるというつもりは毛頭ありません。科学的、技術的に公正に検討した上で、優れた発電システムであることが実証された発電システムは随時実用に供していけば良いのです。しかし現状の太陽光発電や風力発電のように低効率で不安定であるが故に資源とエネルギー浪費的で使い物にならない発電装置を、敢えて莫大な税金を投入してまで導入することは明らかに政策的な誤りなのです。
ポスト原発利権として、自然エネルギー発電利権を手に入れようとする人たちの主張をもう少し分析します。彼らは工業生産の技術的な構造を全く理解していないのです。
自然エネルギー発電ロビーの旗手の一人である環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也は『読売』7・14朝刊で「原子力や化石燃料を用いた発電コストは、安全対策や原油価格高騰で確実に上昇する。その意味で、日本は今後、脱・原発依存、再生可能エネルギー推進の道 を歩むべきで、首相がその方向性を明言したことは評価できる。短期的には省エネや埋蔵電力の活用で乗り切り、5〜10年後には自然エネルギーへの転換を進めるべきだ。太陽光や風力による発電は普及すればコストは下がる。ただ、エネルギー政策の転換は国民が納得した上で、推進することが必要だ」と述べています(ちきゅう座8月2日掲載の池田龍夫の記事参照)。
太陽光発電装置をはじめとする自然エネルギー発電システムを構成するモノは最先端の工業製品です。工業生産の基本エネルギー資源である石油・石炭などの化石燃料価格が上昇すれば、当然工業製品全ての価格が上昇するのです。自然エネルギー発電装置価格も当然、化石燃料価格に連動して上昇するのです。
更に、飯田は普及量の拡大によってコストは下がるという言い古された陳腐な主張をしていますが、それは飯田の主観による希望的な観測にすぎません。風力発電にしても太陽光発電にしても、今後画期的な技術的なブレークスルーはほとんど考えられません。特に枯れた技術である風力発電においては、可能性は無いと考えて間違いありません。
更に、自然エネルギー発電の致命的な欠陥は発電効率の低さばかりでなく、予測できない変動にあります。大規模に自然エネルギー発電を導入したうえで電力供給システムを安定運用することは技術的に極めて困難な問題であり、供給電力の安定化のためだけにも莫大なインフラの追加が必要になります。自然エネルギー発電装置+電力安定供給システム=自然エネルギー発電システムが最新の火力発電よりも石油・石炭などの化石燃料の節約になる可能性は将来的にも皆無です。
それでも、「自然エネルギー発電システムが火力発電よりも化石燃料消費が小さくなる可能性がゼロだとまでは言えないではないか」という意見を寄せられる方がいます。勿論可能性がゼロとは誰にもいえません。
しかし、現時点では明らかに自然エネルギー発電システムは火力発電に劣る極めて高価なシステムなので導入の合理性は存在しません。このような段階で性能的に劣る発電装置を莫大な税金を投入し、消費者に多大な経済的負担を押し付けて拡大する政策を選択することは許されないことです。国家レベルで政策的に自然エネルギー発電システムを導入することに合理性があるのは、明らかに自然エネルギー発電システムが火力発電システムよりも実質的に優れていることが確認された場合に限られます。
それではこの分野の技術開発の世界競争に出遅れてしまうという主張もあります。私はこの分野自体、将来的にもモノにはならないと思いますので、そのような心配は杞憂だと考えています。莫大な投資をして失敗するよりも、投資を行わないほうがよいに決まっています。もし、それでもかすかな希望に賭けたいと言うのならば、国庫から研究・開発費を支給すればよいことです。
しかし本当は、日本のCO2排出量を減らすことが第一の目標であるのならば、自然エネルギー発電システムを海外からすべて購入することが一番合理的なのです。なぜなら、国内で自然エネルギー発電システムを製造すれば、工業的生産過程で莫大な化石燃料の投入が必要ですが、海外製品を購入するのならば、必要なのは札束だけです。発電用の化石燃料の代わりに自然エネルギー発電システムを購入すればよいのです。
ただし、たとえ輸入したとしても今のような不安定なシステムでは国内で運用するためには追加の化石燃料消費が発生しますので、あくまでも海外で安定運用可能な自然エネルギー発電システム技術が確立された場合に限られることは言うまでもありません。
つまり、自然エネルギー発電技術に関しては技術開発も製品製造も全て海外に任せて、将来的に火力発電に比較して絶対的に優れている自然エネルギー発電システムが完成した段階で日本はシステム全体を購入することが最もCO2排出量削減という目的の達成のために合理的な判断なのです。海のものとも山のものとも知れない現段階で自然エネルギー発電システムに莫大な国費を投入し、消費者に負担を押し付けることなど断じて許されないことです。
大衆は産業革命以後に成し遂げられてきた工業的な成果に目がくらみ、科学技術は何でも出来るという非科学的な信仰に侵されています。その愚かさにつけこんで原子力発電利権屋や自然エネルギー発電利権屋が跳梁しているのです。
第二次世界大戦末期のマンハッタン計画という大量殺人兵器製造プロジェクトにおいて、おそらく人類史上初めて開発目的と開発スケジュールを定めた巨大技術開発が行われ、その成功経験が莫大な資金と人員を投入すればなんでも出来るという妄信を生んだのです。
正に日本の原子力開発もマンハッタン計画に始まるプロジェクト主義の悪しきエピゴーネンでした。日本が原子力発電を導入した当初に描かれた放射性廃棄物の無毒化や核燃料サイクルの安定運用の技術開発は半世紀経った今、不可能であることが明らかになりました。自然エネルギー発電を推進しようとする人々もこれらの原子力発電の積み残しの問題を批判します。
ところが彼らは、自然エネルギー発電に対しては、今はまだ低効率で使い物にならないかもしれないが将来的にはうまくいくという何ら合理的・科学的な裏づけの無い空手形を切って、正に原子力発電と同じ轍を踏もうとしています。発電効率の低い問題や不安定性の問題はいずれ克服できるから先行投資すべきであると・・・。なんとご都合主義の非科学的な主張でしょうか。原子力発電の失敗から得た、プロジェクト主義の失敗した場合の代償は計り知れないほど大きいという教訓を私たちはよく考えなくてはなりません。
脱原発を実行したとしても、エネルギー供給に致命的な欠損が生じないことは既に確認されました。自然エネルギー発電利権に群がる連中の口車に乗って、拙速な判断をすることがないように切望します。優れた発電システムは電力市場から国家的な介入を完全に排除することによって経済合理性によって最適なシステムが生き残ります。
エネルギー政策において国家が成すべきことは、脱原子力発電を成し遂げ、廃炉、放射性廃棄物処理など、ほとんど未来永劫に続く原子力発電の負の遺産の後始末に国家として如何に対処すべきかを技術的な側面・社会的な側面の両面から検討することです。自然エネルギー発電につぎ込むようなドブ銭はもはや日本には残されていないのです。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1534:110804〕
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