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フクシマ50 下請け社長は「死んでもいい人を」と発注受けた
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_postseven_3__20110801
「社長は上会社から『死んでもいい人間を用意してくれ』といわれていたらしい。社長、もじもじしてて、なかなか『行け』といわなかったですね。だから志願しました。だってうちの社長、熱い人だから自分が行っちゃいそうだったんで。社長が死んだら社員が路頭に迷うけど、俺が死んでも代わりはいますから」
「死んでもいい人間」がいるわけがないじゃないか。
ひとりの人間が死ねば、妻子が悲しむ。
妻子のいない人が死ねば、父母兄弟が悲しむ。
父母兄弟のいない人が死ねば、親戚の誰かが悲しむ。恋人、友人が悲しむ。
親戚も、父母兄弟も、恋人、友人もいない人だって、誰かが、その人の成育に関わってきたはずだ。
その誰かが、きっと悲しむ。
そういう、一切の係累を持たない人がいたとしても、誰よりもその人の魂自身が、大地にめり込むように深く悲しむんだ。
命を粗略にするんじゃ、ない。
ひとりの命は、ひとりだけのものではない。
映画「シンドラーのリスト」のラスト。
シンドラーによって命を救われたユダヤ人が、数十年後に、没したシンドラーの墓参りに多くの子供や孫たちとともに訪れるシーンがある。
ひとつの命が、多くの命を生み出す。
そんな命の尊さを、端的に描いていた。
「犠牲」をもてはやし、英雄視し、神格化して、さらに大きな犠牲を強いた、あの恥ずべき歴史を繰り返してはならない。
80年前の日本国家は、未来ある若者に無益な血を流させることによって、卑劣な延命をはかった。
日本人が「恥」を知る民族だというのは、あれは真っ赤な嘘だったのか?
「死んでもいい人間を用意してくれ」と言った「上会社」の者が、この人類史的な大事故を齎した一味の端くれだろう。
そういう者どもこそが、事故収束の最前線で立ち働くべきではないのか。
「正義」とはそういうものであり、「人の道」とはそういうものである。
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