53. 2011年8月02日 20:29:50: 5wEmqlZ6N2
大気圏での核兵器爆発実験を禁止した部分的核実験停止条約が締結された1963年以後も、米ソによって「平和利用」と称して、地表近くで核爆発が実施されていた事実がある。地表面にクレータを造るなどの核爆発は、大気圏へ多量の放射性物質を放出するばかりか、地表に莫大な核汚染を残した。米ソでの約100回の「平和的核爆発」があった。 米国ネバダでは1962〜68年の間に、6回のこの種の核爆発があった。その中での最大出力は1962年の104キロトン(広島原爆は15キロトン)の爆発で、クレータを形成した。2番目の大出力は1968年の30キロトンだった。その他は10キロトン未満である。 現地調査のできた旧ソ連の「平和的核爆発」という産業利用核爆発に関して、爆発の内容と影響を見ることにする。 旧ソ連は1965年〜88年の期間に「平和的核爆発」と称して、地層調査、ダムや廃棄物貯蔵施設などの土木工事、天然ガス・原油の採取などの産業目的で、124回の核爆発を行った。その多くは500〜2000メートルの深さで。2〜20キロトン規模の爆発であった。しかしその一部には、地表爆発と分類される核爆発があった。しかも、この時代は、既に部分的核実験停止条約が締結されていた。 地下核爆発は、物理的には、実効的な地表爆発、浅い地下爆発、十分な深度での爆発の3種類に分類される。この順に従って、環境汚染や住民の被曝の危険性が高い。地表に近い浅い地下での爆発では火球が地上に出てしまうため、物理的には地上核爆発と分類されるべきもので、核分裂生成物、中性子誘導放射能そしてプルトニウムにより、爆心地周辺の地表面が汚染した。最悪の核爆発であった。この場合、放射性雲により、風下地域の住民が被曝の危険に曝(さら)された。浅い地下爆発では、地割れから放射性ガスが噴出し、必ずしも十分安全とはならない。十分な深度での爆発では、放射性物質が地下に貯蔵される形になり比較的安全であるが、多くの亀裂を形成した地殻の中で地下水を経由した水系や地表の汚染拡大が、長期的には心配である。 地表爆発の場合、極めて高い熱のため地表面近くにあるかなりの量の物質が蒸発する。これらは、火の玉の上昇の際に、キノコ雲の幹の気流によって吸い上げられる。そして爆発点に発生した高温高圧のガスの急激な膨張により、地表面の土や岩盤が除去されて、クレータが形成される。クレータは、一度空中に吹き上げられた物質が降って再度堆積した最表面層にある層(見かけのクレータ表面、降り戻し)、その下には爆破の影響を受け永久的に変形した層(真のクレータ表面、亀裂層)、塑性層の3層からなる。亀裂層の半径は、クレータ半径の約1.5倍である。 1965年1月15日、ソ連最初の産業利用を目的とした核爆発が、セミパラチンスク核実験場のバラパンで実施された。140キロトン(広島原爆は15キロトン)出力の水爆が実験場の東側境界近くの地表(地下175メートル)で爆発し、クレータを形成した。そのクレータの大きさは直径約400メートル、深さ100メートルとなった。爆発後、クレータおよびその周囲で、多くの労働者が貯水池を造る工事に従事させられた。クレータには水が満たされ、原子の湖「アトミック レイク」と呼ばれている。 1995年の私たちの最初の調査時点で、その付近には通常値の100倍以上、毎時10マイクロシーベルトの放射線強度があった。すなわち、そのクレータ表面付近はかなりの厚さの層が、莫大な量の核分裂生成物と中性子によって誘導された放射性物質で汚染されている。したがって、平和目的の核爆発との主張だが、その当時、いかに危険で無謀な工事であったかは容易に想像できる。つまり、核爆発は、その後に残留する核汚染のため土木工事には適さないわけだ。 モスクワにあるグローバルクライメート・エコロジー研究所のユーリ・イズラエル博士によると、この爆発で発生した大量の放射性物質は2500メートルの高さの柱状となり、北の方向に広がりながら、セミパラチンスク市を含む北東方向へ移動した。こうして、核爆発から放出された莫大な量の放射性の土埃が風下の環境を汚染し、住民たちを被曝させた。爆発24時間後のセミパラチンスク市の放射線は毎時8.5マイクログレイ(マイクロシーベルト)と記録されている。 爆破3〜4時間後では、おそらくその10倍の強さの放射線であったろう。セミパラチンスク市と爆発点とのおよそ中間地点にズナメンカ村がある。私は、その村は、爆破3〜4時間後の線量として、毎時1ミリグレイ(ミリシーベルト)程度の状態にあったと想像する。 地下資源が豊富なロシア連邦サハ共和国では1970〜80年代にかけて、永久凍土内で産業目的に、地下核爆発が実施された。その爆発は居住区内、あるいはその近くで行われていた。事故的爆発もあり、複数の地点では表面汚染があるという。 こうした背景のもと、サハ自然保護省から日本へ調査協力依頼があった。日本財団が支援し、日ロ貿易協会が「サハ共和国核実験汚染影響調査」を取りまとめた。これに応え、1997年10月および1998年3月の2度にわたって、サハを訪れた。 セミパラチンスクの被曝調査から1997年10月11日に戻ったばかりで、現地受け入れ側の予備知識がほとんどないままに、広島を10月15日に発った。その日、青森空港にて北海道大学低温科学研究所の福田正巳博士(永久凍土)、東京工業大学総合理工学部の秋山博士(電子化学)、日ロ貿易協会・長堀芳靖氏と合流後、ハバロフスクへ向かった。 私はこれまでの調査と同様に、ポータブルラボを持参した。しかしハバロフスク空港税関長V・A・フェーフェロフに阻まれてしまった。このような事態は過去モスクワ、キエフ、アルマアタの各税関では生じなかった。ロシア持ち込み交渉は3日間にわたった。通信監理局の役人や連邦核及び放射線の安全調査委員会の役人が機器検査を実施した。これに対し当方はサハ自然保護省大臣の紹介状及び放射線測定機4点の持ち込み許可証を示した。しかし、すべてが無視された形になってしまった。 結果は、胸ポケットに入れていたポケット線量計以外のポータブルラボ一式をハバロフスク税関に残したまま、10月17日ヤクーツクへ向かった。極東の難しさを痛感した。ハバロフスクからの帰国の際には、ロシア外務省の役人までもが現れ、私に詫びた。しかし二度とハバロフスクからの入国はすまいと思った。 21時ヤクーツク到着。私は用意していたスキーウエアを着て、飛行機のタラップを降りた。空港では、ヤクーツク州立大学ステパノフ博士および環境省のイエフレモフ博士に出迎えられた。その日は雪が降り、これから来春までの間、根雪になるという。 日本とは時差がなく、地図の上では近い国だが、社会的には遠い国である。首都ヤクーツクは広島と北極点とを結んだ直線上のほぼ中央地点に位置する、シベリアの東部にある。サハリン(樺太)はこのサハ共和国のサハである。リンは東の意味なので、サハリンはサハの東をさす。 サハ自然保護省次官アルヒポフ氏、国会議員のチョムチェエフ氏らから核爆発の模様を聞いた。それによると、1974〜87年にかけて12回の地下核爆発が、サハ共和国内で実施されている。「核爆発は、地質調査、石油採取、そしてダイヤモンド産出のための水がめ造りの目的で行われた」という。ソ連が崩壊し、情報が公開された今、国民にとって大きな不安のタネになっているらしい。 サハはダイヤモンド、金、銀、タングステン、鉄鉱石、石炭、石油、天然ガスなどの地下資源が豊富である。特にダイヤモンドは世界の年間産出量の20%を産出している。ミルヌイには直径4キロメートル、深さ500メートルのクレータ状の露天掘り鉱山がある。日本の商社や機械メーカーはこの地と関わりがあり、従業員がしばしば出張していたと、ハバロフスクで会った商社マンから聞いた。 爆発は居住区域内、あるいはその近くで行われていた。事故もあり、複数の地点では表面汚染があるという。管理された境界線がないので、核爆発を全く知らされていなかった住民は、その放射能汚染地へ無意識に立ち入っていた。いわば地下核爆発で汚染した土地の上で住民が暮らしてきたことになる。 12回のうち、4回の爆発が地震波の発生のため、6回の爆発が石油と天然ガス採取の効率改善のため、1回が地下の原油貯蔵の形成のために実施された。クリスタルでの爆発は、鉱石から有用な物質を抽出した後の不要物廃棄のためのダム建設のために実施された。しかし、目的は達成されず、そのプロジェクトは中止となった。 ロシア連邦原子力省の報告によれば、10の核爆発があった地域の放射線環境は自然バックグラウンドレベルを超えていない。しかしクラトン(K)3とクリスタルでの核爆発では環境放射能汚染を招いてしまった。1974年のクリスタルでは半径60メートルの範囲が高濃度に汚染した。これらに対し、ロシア政府は1992年に、直径150メートルの範囲に高さ15メートルの石堤防を築き、放射線防護の処置を講じた。クラトン3は地震波を発生させるために、1978年に実施されたが、失敗に終わった。爆破孔の封印が吹き飛び、放出された核分裂生成物が東北東の風に乗り、広がってしまった。放射性雲とその軌跡によるガンマ線外部被曝線量は3〜13キロメートルの距離の地点で、事故当時、5000〜250ミリグレイ(ミリシーベルト)と推定された。個人線量の平均値は100ミリシーベルト。放射性雲の軌跡3.5キロメートルにあるカラマツの森は1979年夏までに枯れた。最表面に吸着したプルトニウム239、ストロンチウム90、セシウム137などの放射能の影響を弱めるために、爆心地と放射性雲軌跡上の土地500平方メートルが耕された。汚染した器具や土壌を、深さ2.5メートルの堀に埋め、清浄土1メートルで覆った。爆心のドリルホールには、清浄土で2.5メートルの丘が築かれた。 ロシア保健省の放射線衛生研究所は、1996年の秋に、ウダチニーアイハル地域にあるこれら事故地域の現地調査を行い、放射能汚染と線量を報告している。クリスタルで採取した土壌キログラム当たり、プルトニウム239、240が0.3〜7.5キロベクレル、セシウム137が0.12〜5.2キロベクレル、ストロンチウム90が0.05〜0.8キロベクレル検出された。クラトン3周辺では、地表の最大汚染が平方メートル当たり、プルトニウム239、240が4.3キロベクレル、セシウム137が82キロベクレル、ストロンチウム90が99キロベクレルだった。また線量率は毎時0.5マイクロシーベルトであった。 1997年10月22日午前11時10分、ヤクーツク第二空港から、輸送用ヘリ・ミグ8に乗り込み、クラトン4へ向かった。実は前日もこの空港でヘリの出発をかなりの時間待ったが、天候不良のため延期となっていた。シベリアの達人・福田先生を除いて、私たち日本人の防寒具は不十分で、ステパノフ先生がいろいろと用意してくれた。私も狐の帽子、トナカイのブーツと、厚い綿入りのコートをまとった。外はマイナス10℃。モコモコして身体の動きが鈍くなったが、これで寒くはない。 高度およそ200メートルで、雪に覆われたシベリアの原野の上を飛び、260キロメートル離れた目的地へ着陸した。そこは氷の張った1キロメートルくらいの大きさの池の辺り。このヘリは私たちをそこに降ろすと、すぐに飛び立ち、本来の定期便のコースへ戻った。1時間後に、迎えに来ると言う。 イエフレモフ博士らが、たき火と昼食の支度をしている間に、200メートル西の地下核爆発地点クラトン4へと進んだ。松林の一角が開けていて、その中心に丸い道路標識のような看板があった。そこが爆心だった。その直下560メートルの地下で、1978年8月9日、核爆発が実施された。その出力は、TNT火薬換算で20キロトン(広島原爆は15キロトン)。看板には、その半径350メートル以内でボーリングするなとあるだけで、地下核爆発汚染による被曝の警告はなかった。また、驚いたことに、周囲には囲いなどの、立ち入りを制限する処置もない。 簡単な昼食後、私たちは二手に分かれて、土壌のサンプリングを行った。私のグループは爆心地近く、もう一方のグループが池の向こう側。土壌の表面は、人工芝のような長さ4〜5センチメートルの苔でびっしり覆われていた。したがってこの苔も採取した。しかし土壌持ち出しの許可は6カ月を要するとのことで、結局はヤクーツク大学に置いてくることにしたのだが。これは、いつかの機会に日本へ持って来よう。 ヘリは予定からかなり遅れて、4時間後に迎えに来た。この間の私の被曝線量は0.2マイクロシーベルト、平均線量率は毎時0.05マイクロシーベルトと爆発19年後の時点では特に高い値ではなかった。クラトン4は成功した地下爆発なのか。しかし、爆発時に永久凍土が溶け出すので、放射性物質が断層に沿って染み出すことによる汚染の広がりが心配であると地質の専門家は指摘している。 2回目の調査が1998年の3月に計画された。前回の極東からの入国が失敗に終わったので、民主化が少し進んだモスクワからの入国を、私の方から提案した。3月15日午前7時に成田を出発し、12時間後にモスクワに着。 そこからまた東へ飛び、翌16日午前9時にヤクーツクへ到着した。タラップを降りて気がついたのだが、乗った飛行機の外側面には大きく英語でDiamond(ダイヤモンド)と書かれていた。お金と忍耐を使ったが、今度は測定機一式をサハへ持ち込むことに成功した。 市内での測定結果は、線量率が毎時0.04マイクロシーベルト、セシウム137の汚染も検出できないほど低かった。すなわち地表面平方メートル当たり2キロベクレル以下だった。 今回はヤクーツク大学の物理学科の学生・教官らに対し、セミパラチンスクでの核兵器実験やチェルノブイリ事故による周辺住民の被曝に関し講義した。受講者らの関心は高く、いろいろな質問があった。 3月のシベリアは気温マイナス20〜30℃、積雪40センチメートルであった。3月19日正午、軍用トラックを改造したバスで、クラトン4へ向けて出発、凍りついた大きなレナ川の上を、暴れ馬のように走った。前の座席の手すりをしっかりと掴まえていなくては放り出されてしまうほどで、まるでアメリカのロデオのようだ。河幅も広いところでは15キロメートルもある。 途中遅く、サンガリの町で環境監視員ミハイルおよびニコライの2名が加わった。そこでの線量率は毎時0.02マイクロシーベルト。クラトン4へのルートを除雪し、我々の調査を待ち構えてくれていた。 道のり700キロメートルもの苦行の末、ようやく目的の村に到着した。 人口500人のテヤ村。夜が明けかけた朝6時であった。猟師のドウシャコフさん宅にお世話になった。家のドアを開けるとそこは、ひとつの玄関のようになっていて、そこまでは土足である。そこで靴を脱ぎ室内へ入る。防寒のためのワンクッションとなっている。そこに20匹のカワウソが置いてあった。罠で捕獲したものだという。 朝食には、生のヘラジカ肉、チョウザメのシャーベットとトナカイ肉のスープをご馳走になった。屋内外の線量率は、それぞれ毎時0.05および0.04マイクロシーベルトだった。 トイレは外の小屋だった。中の板の床に大きく開口部があり、その中に穴が掘ってある。覗くとエベレストのような山が見える。小屋には長さ1.5メートルの鉄棒が置いてあり、使用前に、その山を砕けというこを悟った。 見た目よりも大きな家で、私たちは居間に用意されたベッドで、3時間ほど仮眠した。 クラトン4地点への道は、きれいに除雪されていた。日本からの調査のために、しっかりと準備されていた証拠だ。正午に爆心地付近に到着した。辺りは40センチメートルほど雪が積もっていた。例年この程度だという。爆心の20メートル手前まで除雪してあった。その下560メートルで爆発しているので、ほぼ真上に近いところに立った。 これまでのロシアによる放射線調査が、事故のあった地下核爆発地点であったのに対し、我々の今回の調査は正常に爆発したと報告されている地点である。しかしこの地下核爆発においても、地表の亀裂、ニジリ湖で新しい3個の島の出現、そしてドリルホールから半径500〜600メートルの範囲でサンドバンク(海や湖、河川に発達する砂の低い連なりで、干潮時や渇水期に露出するもの)が発生している。事故ではないにしろ、長崎原爆クラスの地下核爆発が、周囲の地層に大きな衝撃を与えたのは確かである。 さて、その場の測定結果は、線量率毎時0.02マイクロシーベルトでセシウム137放射能はここでも検出できないほど少なかった(平方メートル当たり1キロベクレル以下)。しかも爆心から1キロメートルまでの間、線量率は約0.02マイクロシーベルトと一定であるので、地表面に顕著な量の放射性物質は漏洩していないことがわかった。このことは、4キロメートル離れたドウカヤン湖周辺でも同様であった。 クラトン4、ドウカヤン湖、テヤ村の放射線状況は、観測した限りでは、通常状態にあり、異常はなかった。 村人が食べるヘラジカの肉塊を測定したが、セシウム137放射能も検出できないほど低い値だった。すなわちキログラム当たり20ベクレル以下だった。この草食性野生動物は水草、樹皮、地衣類を餌としているので、地表面の放射能汚染が特に高くないことを反映した結果であった。 また食物連鎖からの住民の内部被曝としても、特に心配はないと言える。 以上から、今回の調査では、周辺住民への放射線衛生上の問題は見つからなかった。 では核爆発後に発生した多量の放射性物質はどうなっているのであろうか。また、今後の長期間にわたる放射線環境はどうなるであろうか。困難な問題であるが、状況の大雑把な把握を試みる。 1998年時点でクラトン4爆発点の地下には、総量として88テラベクレル(1テラ=1兆)のセシウム137が存在していることが、核分裂出力の値20キロトンから推定される。その他ストロンチウム90もそれよりもやや少ないが同程度存在するはずだ。もちろん核分裂しなかったプルトニウムも数十キログラム地下に残っている。 次に、これらの放射能が地下に、どのように分布しているかを、考察する。米国国防省の資料に、地下核爆発により形成されるガス空洞と煙突構造に関する、現象論的な公式の記述がある。それを用いれば、おおよその放射能分布を想像できる。クラトン4の場合、空洞の直径は40〜60メートル、煙突の長さ200メートル以下となった。したがって、地下に眠る放射性物質は一番浅いところでも、地表からおよそ300メートル以上の深さになる。この十分な厚みの岩盤・地層により、放射線が遮蔽されている。 この地域は、年平均気温がマイナス10℃の永久凍土地帯である。その永久凍土の厚みは、ヤクーツク周辺で特に厚く、最大で500メートル以上である。これはその深さまで地下水が存在していないことを意味する。したがって地表から300メートルよりも深い所にある放射性物質が地下水を経由して地表へ漏洩してくるとは考えにくい。すなわち、この分厚い永久凍土が大量の放射性物質をこの地点に閉じ込めている。 その晩の、ドウシャコフさん宅での歓迎会には、村長をはじめ、校長先生、英語の先生、当時の共産党地区委員長らが集まった。居間のテーブルには、家にあるすべてのご馳走が並べられていた。「これが、この地方の大事な客人へのもてなしです」と、ホストであるご主人が述べた。「この村へ、はじめて外国からのお客様が来ました」と聞いた。 ここは、ジンギスカンがこの地を攻めた時の末裔が暮らしている村との説明があった。テヤ村の出身者がジンギスカンに関わる物語を出版している。たしかに彼らの顔は、モンゴル系である。赤ちゃんには蒙古斑があるという。 最初に、私から、日本からの調査を歓迎していただいたことについて、感謝の意を表明した。続いて、テヤ村を含むクラトン4地点付近の放射線状態に異常は見られず、生活上問題ないとの調査結果を報告した。集まった村人たちは、これを聞いて少し安堵したようだった。 20年前の出来事を元地区委員長が語ってくれた。当時、核爆発に関しては村へはいっさい説明がなかったそうだ。その日の数か月前からヘリコプターが頻繁に飛び交うようになり、器材が運び込まれた。その日には地震があるから、高い所に物を置くなという警告だけだった。夜中に地響きがあったが、爆発音は聞こえなかった。その後、周辺の樹が枯れたという。10キロメートルごとに計器が設置されて、天然ガスの埋蔵量の調査が行われた。 ステパノフ博士が挨拶した。「サハの人たちはロシア政府を信用していません。だから日本の広島からの科学者が調査をして、ここに住んでも大丈夫だと言ってくれたことを喜んでいます」 なお、今回の調査結果に関しては、滞在中に手書きの簡単な報告書を作成し、サハ自然保護省へ送った。また、1年後、サハの科学者との共同調査結果として、科学論文を出版し、同省へ送った。 ロシア連邦サハ共和国で、12回の産業利用を目的とした核爆発があった。同国自然保護省の依頼のもとに、一つの爆発点(クラトン4)周辺の環境における放射線の量の調査を実施した。1998年時点で、爆心地とその周辺に、放射線的な異常は見られなかった。食肉も含めて、環境の測定値は正常であった。クラトン4での核爆発により発生した多量の放射性物質は、地下300メートル以上の深さにあると推定した。その地域の地層は、永久凍土状態にあり、地下水による放射能の、地表面への漏洩の心配は、現在は少ない。 他の11箇所の核爆発地点の調査も必要だが、資金的目途が立たない状態にあり残念だ。ロシア保健省放射線衛生学研究所のバルコフスキー博士によると、2000年爆発地点では、新たなボーリングによる核汚染が問題化しているという。 サハでの核爆発においても、周辺住民が被曝していない根拠はない。永久凍土とはいえ、地殻に亀裂を発生させ、放射性ガスが地表から噴出したはずだ。クラトン4周辺の木々が枯れたことが一つの証拠である。また爆心の近くにいた11人の小学生たちの髪の毛が抜けたとの住民証言もあった。 放射線防護学研究グループの体験記 2011年3月11日、宮城県沖を震源とする巨大地震が発生し、女川および福島の原子力発電所が大津波に襲われたが、原子炉は自動停止した。しかし、福島第一原子力発電所では冷却ポンプが故障し、炉心が高温となり水素爆発となった。環境へ放射性物質が漏えいし、20キロメートル圏内で避難した。日本では軽水炉であり黒鉛炉ではないため、チェルノブイリのように黒煙火災にともなう大量の放射性物質の放出による公衆の高レベル放射線被曝にはならない。 福島第一原子力発電所(2011年の場合) @地震P波を検知し核反応が自動停止したことにより原子炉の暴走破壊はなかった。そのため、半減期の短い放射性物質の危険な大量漏洩はなかった。半減期8日と短い放射性ヨウ素の周辺住民の甲状腺線量はチェルノブイリと比べて圧倒的に低く、甲状腺がんはない。 A原子力運転員の急性放放射線障害もなく、線量はレベルC:0.1〜0.9シーベルト(=100〜900ミリシーベルト)以下。 放射線防護学研究グループ談 |