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http://miyazakimanabu.com/2011/07/21/1090/
私は70年代後半から80年頃に掛けて「原発を解体する技術を確立すれば、大きなビジネスになると考えていた。同時に、反原発の、いわゆる環境派=エコロジストの運動が「原発の建設」反対という域にとどまらず、「原発解体の技術論」まで提起出来るところまで踏み込めば、新しい運動の地平が切り開かれるだろうと考えていた。
そしてこの考えは今も同じである。
ところで、私の実家は「解体屋」である。子供の頃から“アルバイト”と言えば解体工事の現場での雑用係であった。
そうしたことから建物をどうしても解体屋の視点で見てしまう癖がある。
その視点の重要なポイントの一つは、解体のコスト、つまり解体のためにどれくらいの費用が掛かるか、ということである。
この視点からみると、原発の解体の費用は無限大に近く、建設コストをはるかに上回るという特異性があり、そのため見積は不可能である。私は解体屋として、原発を見た場合、最初にぶつかる壁は、「捨て場」の問題である。それは仮に建屋や炉をなんとか解体出来たとして、その廃材を、誰が、何処に運び、何処に捨てるのかという、つまり「捨て場」の問題を、解決をすることが出来ない。その結果として見積はできないのである。原発の解体のイメージとしては、建家や炉の解体は、建設した時の逆の工程をロボット等によって辿れば、バラバラまでには出来ると思われる。このような解体工法は「手毀ち」と言われ、今風の重機によってバリバリと壊す工法とは違うもので、費用は廃材の処理場があると仮定して、重機類が中心の解体工法の約2.5倍は掛かる。
こうしたことから原発が、コストの安い電源であり、「クリーン」なエネルギーというこれまでの国や電力会社の「説明」は正当な言い分ではない。
そこでもう少し考え方を拡大して、国や電力会社ということにとどまらず、「解体不可能」なものを作る文明について考えてみたい。
人類の文化は、「造る」「壊す」そしてまた「造る」というサイクルがあるからこそ発展もしてきたし、正常たり得たと私は考える。自ら造ったものが自らの手で壊せないとしたら、そこには、無機質と言うか、露骨過ぎる人間の欲の塊だけが残ることになる。
原発ということでみると、電力事業に携わる業界と官僚の権益という欲、それと同じく利便性を求めるあまり、「お上や会社」の説明を受け入れてきた私を含む利用者の欲が重なって来たというのが、「今」をつくってしまった。こうしたことと同時に、科学や人類がつくり上げてきた社会システムは自然をコントロールしようとする本能を持つ。しかし、人間の欲をコントロールすることは出来ない。ここに、無機質で不気味なものが出来上がってしまった現代文明がある。
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