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福島と原子力 浅からぬ因縁(東京新聞)
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東京新聞「こちら特報部」7月17日 2011.07/19 日々坦々
東京電力福島第一原発の事故は、取り返しの付かない大惨事になる原子力の危険性を、まざまざと見せつけた。しかし、同原発から南西約六十キロの福島県石川町で第二次大戦末期、原爆製造を目的にウラン鉱石が採掘されていた事実はあまり知られていない。原爆から原発へ、原子力の平和利用は可能なのか−。石川町の“歴史秘話”と原発事故は、現代に重い問題を投げかけている。 (秦淳哉)
「ここがウラン鉱石からウランを分離する選鉱場があった場所です。原爆製造を目指した採掘作業は、終戦を迎えた一九四五年八月十五日まで続けられました」
石川町の原爆開発史について調査する町史編纂(へんさん)専門委員の橋本悦雄さん(62)は、町立歴史民俗資料館の裏に残る高さ二メートル以上の石垣を指さしながら説明した。階段状の石垣を覆うようにして、当時は選鉱場の建物があった。斜面に設置した機器に水と鉱石を混ぜて流し、比重の差を利用してウランを抽出したという。
第二次大戦末期、石川町はウランの供給地として、原爆開発計画に組み込まれた。同資料館には町をあげて協力したことを裏付ける資料が並ぶ。広島、長崎に投下された原爆は、米国が「マンハッタン計画」で開発。ウランの核分裂が巨大エネルギーを生むと分かり、各国は戦況を有利に進めようと新兵器開発にしのぎを削っていた。
軍部が石川町に注目した理由は、豊富な鉱物の採取場所として知られていたためだ。同町は岐阜県苗木、滋賀県田ノ上とともに日本三大鉱物産地の一つで、現在までに百種類を超える鉱物が発見されている。江戸時代には須賀川ガラスの原料として珪石(けいせき)、壁材の雲母が採掘された。明治時代になると陶磁器の釉薬(ゆうやく)として長石、珪石が大量に採掘され、昭和四十年代まで石川町の産業を支えた。
ウランを含む鉱石も採掘が可能で、橋本さんは「明治末にはすでに国内で最も有名な鉱物産地として知られていた。そこに軍部が目を付けたのだろう」と話す。
しかし、戦時下の開発は苦労続きだったようだ。橋本さんは「ウラン抽出の担当者は、理化学研究所の飯盛里安博士だったが、東京にあった施設が空襲で破壊されたため石川町に疎開してきた。ウラン選鉱場は、完成間近だった民間工場を転用し、一九四五年四月から操業が始まった」と解説する。
町内六カ所にあったウラン採石場では、十五歳の少年らも作業に駆り出された。ツルハシ一本で続く作業。採石場では「マッチ箱一つ分のウランで、米国の大都市を吹っ飛ばす爆弾が造れる」とうわさされたという。
ただ、原爆製造には何段階もの工程が必要だ。ウラン鉱石を精錬し、不純物を取り除いたイエローケーキと呼ばれる粉末にする。これを六フッ化ウランに転換し、ここからウラン235を分離する。さらにウラン濃縮を高め、原爆に使用するウランができる。
橋本さんは「ウラン抽出には最先端の技術が必要。日本の研究者はまだ基礎研究の段階で、原爆の完成からはほど遠かった。それでも、軍部は何としても原爆を造りたい立場。もう少し耐えれば戦況を逆転できると信じ、早く原爆を完成させるようにと再三催促したようだ」と語る。
しかし、石川町の原爆開発は、機材や原料の不足で本格的に製造ラインを整えることなく終戦を迎え、開発は失敗した。
「日本の制空権が奪われて本土が米軍機の空襲対象に入ると、起死回生の兵器を造らないと戦争に負けるとの悲壮感があったと聞く。もっと早く戦争を終えていれば非戦闘員の犠牲者をこれほど多く出さずに済んだと思う」と橋本さん。
その後、わずかに抽出された石川町のウランはどうなったのか。「終戦後、日本に進駐したGHQ(連合国軍総司令部)が持ち去った。GHQは日本にどんな地下資源があるかを知りたかったようだ」
戦後、石川町の鉱物が再び注目された時期がある。日本で原子力の平和利用が叫ばれるようになったためだ。
五三年、アイゼンハワー米大統領が国連総会で「原子力を平和目的に利用すべきだ」と提唱。これを受け、日本でも改進党(当時)の衆院議員だった中曽根康弘元首相らが、五四年に原子炉建設予算二億三千五百万円を国会に提案し、可決された。この予算額はウラン235から取った数字とされる。
予算提案後、第五福竜丸がビキニ環礁で水爆実験による「死の灰」を浴びた事件が明るみに出た。それでも原発建設には予算が付いたため、日本各地でウラン採掘のボーリング調査が実施され、最終的に石川町産ウランは採算が合わないと結論付けられた。
五五年に岡山、鳥取県境の人形峠でウラン鉱山が発見され、本格的な採掘が始まったが、これも採算割れで中止に。国内のウラン採掘は失敗続きだった。現在、日本はウランをカナダ、オーストラリア、カザフスタンなどから輸入している。
実は、福島第一原発の立地場所も戦争の「名残」を引きずっている。東京電力発行の冊子「関東の電気事業と東京電力」には次の記述がある。
「一九六〇年五月に福島県の佐藤善一郎知事から、双葉郡の大熊町と双葉町にまたがる旧陸軍航空基地および周辺地域に原子力発電所を建設するプランが東京電力に打診された」「六八年九月には大熊・双葉両町をあわせて約三百十万平方メートルにのぼる福島原子力発電所の用地買収がほぼ完了した」
かつて測量会社を経営していた橋本さん。子どものころ、石川町が鉱物の生産地と知り、郡山市の自宅から約三十キロ離れた石川町に、自転車で通って鉱物採取を続けた。今は町史編纂の責任者として町と鉱物の歴史を記録するが、「原爆の秘史も含めて後世に伝えたい」と語る。
一方で「原発がクリーンエネルギーとか、二酸化炭素(CO2)を出さないと言われるが、使い方を誤れば核兵器と同じだと、今回の原発事故で分かった。多くの人を滅ぼす『もろ刃の剣』になりかねない。このまま原発を維持するのか、難しいところだね」と複雑な心境を明かす。
「必ず勝てる」と言われながら迎えた敗戦。「絶対に安全」と言われて過去最悪の事故を起こした原発。戦争とエネルギー政策は違うが、国が推し進めた点で共通する。今後、原子力とのかかわりをどうするのか。二つの“神話”の崩壊から何を学ぶかにかかっている。
<デスクメモ>菅首相と高木文科相が原子力政策で軽率な発言をして釈明した。海江田経産相は原発再稼働をめぐる混乱で引責辞任を示唆した。ここに来て全閣僚で原子力政策を協議するという。原発事故から四カ月以上たつのに閣内調整もしていなかったのだろうか。戦中秘話にも増して、この政権の無為無策に驚く。 (立)
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