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http://www.the-journal.jp/contents/rick/2011/07/post_5.html
7月中旬鹿砦社から出版される『東電・原発おっかけマップ』は、すでに取り次ぎ拒否が相次ぐほど,きわどい内容の本です。
この本では原発ムラの住人たちの所業が自宅の住所,自宅の写真,自宅への地図とともに明らかにされます。もちろん、小出裕章,高野孟、奥平正、今中哲二、吉岡斉などの識者へのインタビューを通し、原発漬け社会の構造も明らかにされています。その本から,「はじめに」を転載します。
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真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、
村を破らず、人を殺さざるべし
──田中正造
二〇一一年三月十一日、フクシマを境に、日本は変わった。それまではほとんど耳にすることもなかったシーベルトやベクレルの値に怯え、テラだ京だなんてゼロがいくつあるのか分からない数字に困惑し、それらの数字が表す桁違いなレベルの放射能に生活が翻弄される日々が始まった。
風は濁り、空気を腹一杯すうこともためらわれてしまう。雨の飛沫一滴にもおびえてしまう。水も野菜も魚もびくびくしながら口にする。土は汚れ、海は犯され、人間は被曝する。百姓は追い立てられ、山ギャルも農ギャルもサーファーも、もはや無邪気に戯れることはない。ガキどもは砂場を追われ、どろんこ遊びもできず、気ままにかけまわる野原はない。
安全を司るはずの役所も、原発を運転する電力会社も、意思決定をするはずの政府も右往左往するばかりで、何をどうやったらいいのか、皆目見当がつかない。人類は未踏の地に足を踏みいれた。誰も何をどうしたらいいのか、分からない。まるで盲のモルモットかなにかのように、盲のモルモットに手をひかれながら、巨大な象の周りを走り回る。大きな足で押しつぶされる日は避けられない。無邪気な日々は永遠に奪われてしまった。
地震や津波は天災だ。どれだけ備えようが避けられない。しかし、無邪気な日常を奪ったフクシマは人災だ。人道に対する罪、地球に対する罪、将来の世代に対する罪を犯した人間がいる。
フクシマのおかげですでにたくさんの家庭が壊され、地域社会も粉々になった。フクシマのおかげでたくさんの人が犠牲になり、これからもおびただしい数の命が失われるだろう。原発による土壌汚染で生産基盤を奪われ自ら命を絶った百姓たち。強制「避難」で生活の場所を奪われ死期を早めた人たち。「計画」停電による交通事故で死んだ人たち。これらもみんなフクシマの犠牲者だ。原発事故の可能性を想像力の外に押しやってきた人間たちの目には、これらの犠牲は見えないだろうし、フクシマがまき散らした放射能でこれから殺されていく命も見えないに違いない。「想定外」などという言葉で言い逃れをする連中は、空虚な言葉を浪費するに違いない。
本書では、原発、原発社会、原発体制を作り、維持し、拡大してきた人を一人一人紹介する。もちろん、本書で取り上げた原発ムラ住人は、その氷山の一角に過ぎない。いい加減な「想定」をした連中、それを許した奴ら、手抜き、不注意、怠慢のレベルから意図的に原発と心中したいような連中まで、本書に収録できなかった連中がたくさんいる。原発社会は核分裂の迷宮である。きわめて複雑な技術である原発は、きわめて複雑に司法やメディアも含めた政財官学を取り組み、原発複合体の支配する社会を作り出した。複雑な絡み合いのおかげで、責任の所在はきわめて見えにくい。
しかし、途方に暮れているヒマはない。原発複合体は、すでにフクシマを過去形で語り、青白い不気味な鎌首をもたげはじめている。たとえば、三月三一日、事故からわずか三週間も経っていないというのに、参議院本会議では、ヨルダンに原発を輸出するための原子力平和利用協定の締結が可決承認された。反対したのは共産党、社民党と糸数慶子(沖縄選出)だけ。原発翼賛体制は健在だ。
六月になると、原発輸出の動きも再び活発化する。東芝と日立がリトアニア原発に応札した。事故後はじめての応札だ。そうかと思えば、永田町では「地下原発」議員連盟なるものが超党派で結成された。時代遅れの構想が埃をはらって、またぞろ持ち出されてくる。見えないようにすれば、文句も出ないだろうというわけだ。九州では玄海原発の運転が再開されそうだ。「原発なしでは暮らせない日本」というデマ捏造のために、今夏は電力各社が「停電」で危機を煽り、国民を恫喝するだろう。気の遠くなるような年月、面倒を見続けなければならない核のゴミと引き換えにつかの間の繁栄をあれこれ、心配するヒマはない。切羽詰まっているんだから。
原発社会を動かす連中を糾弾するだけでは原発社会は終わらない。高レベルの放射能をじゃじゃ漏れさせ続ける輩にフクシマの血塗られた汚染土や汚染水を送りつけ、自宅に石を投げつけたところで、それは単なる気休め、憂さ晴らしに過ぎない。それほど、原発汚染は社会の広い範囲に及んでいる。除去装置はいくつあっても足りないし、汚泥を処理する方策もない。
しかし、それでももっと怒っていい。諦観しなくていい。あきらめなくていい。安っぽい悟りなんか捨てちまえ。こんな生活、普通じゃない。いやだと。 そして、不条理な苦痛を押し付ける連中には、少なくとも社会の一線からお引き取り願おう。そうやって、原発時代のがれきをひとつずつ片付けりゃ、新しい時代の扉が開けるかもしれない。これほどめちゃくちゃな扱いされてるんだから「集団ヒステリー」にでもなった方がよっぽど人間らしい反応じゃないか。あの日以来、強いられている奇妙な生活をやめよう。
複雑な原発社会の解体は一朝一夕には終わらない。それを構成するねじをひとつひとつ緩め、ばらばらにしていくのは骨の折れる作業になる。原発社会を作るのにかかったのと同じくらい膨大な月日とエネルギーがいるかもしれない。電力ではなくガスを使うとか、水素にするとか、原発電気を代替可能エネルギー電気で置き換えるというような小手先の方策以上の知恵や覚悟がいる。なによりも「成長の呪縛」から自分を開放し、右膝下がりのエネルギー低減時代へ歩みを踏み出すこと、慎ましく、分相応な暮らしへと『未来のシナリオ』を描かなければならない。
あの日を境に、世界は変わりつつある。ドイツは脱原発に踏み切り、イタリアでは九割を超す人(投票率は五四・八%)が原発のない将来を選んだ。震源地の日本の住民は。フクシマにどうおとしまえをつけるのか。「真の文明」をめざして歩みだすのか、世界は注目している。将来の世代も見ている。
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