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<概略>
原爆による大量の放射性物質の降下(フォールアウト)については、1940年にその危険性が指摘されていた。アメリカによる1945年の原爆実験においては、明らかにそのことを配慮した実験計画が立案されている。しかし、戦争遂行という目的のため、住民保護よりも秘密保護が優先された。
その後、1945年8月6日に広島市に原爆が投下された。アメリカは、その非人道性を隠蔽するために、フォールアウトの事実を否定し、放射性降下物による健康障害についても黙殺した。報道に関しても一部のジャーナリストを除き、「放射能の影響なし」とする情報が大手新聞によって垂れ流された。
<投稿者コメント>
アメリカによる原爆投下は、フォールアウトの広範囲・無限定的な影響から明らかに国際人道法に違反していた。このことを隠蔽するために、フォールアウト、さらに、それにより引き起こされる健康障害を「存在しないようにする工作」が行われた。日本政府が後生大事にありがたがっている、ICRP基準や、国内における放射線影響研究所の見解は、今日に至ってなお、このアメリカの「工作方針」を継承している。そのために、福島の現状に対して、内部被曝を軽視するという伝統が継承され、こどもたちの健康が軽視されているという危惧を私は持っている。
<以下抜粋文>
第7章原爆の実相
戦争の最後の数週間、マンハッタン計画は予期しなかった放射線の危険−フォールアウト(降下物)問題をつきつけられた。ドイツからの亡命科学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが一九四〇年に、原爆は危険なほど大量の放射能を環境に放出するかもしれないと指摘していた。それにもかかわらず、マンハッタン計画の科学者たちは原爆製造に熱心なあまり、起こりうる放射線の影響に大きな注意を払わなかった。マンハッタン計画の医学副部長ハイマー・フリーデルはこう語った。「あの呪われたものを爆発させることばかり考えていた……放射線についてはそれほど強くは気にしていなかった」
だが、一九四五年六月、トリニティーの暗号名で呼ばれた原爆第一号の実験のわずか1ヵ月前、爆発に成功するとその結果生じるフォールアウトのためニューメキシコ州アラモゴルドの人里離れた実験場周辺の数百人の市民を避難させなければならないことが、新しい計算の結果わかった。それでなくてもあわただしい実験前の日々に、歓迎できない余分なやっかいごとが生じたのだ。放射線安全対策上で必要なことは、計画を支配している機密保持の必要性とぶつかり合わない限度内では、顧慮された。だが、両者がぶつかり合う時には、機密保持が優先した。例えば、付近の牧場や町の人々に避難準備をさせようという案を、グローブス将軍は退けた。陸軍の緊急実験計画をいちじるしく複雑にするという立場からだ。
トリニティーの放射能に関する安全性は、実験中の天候に大きく依存していた。もし、実験の時やその直後に雨が降ると、爆発で生じて舞い上がった放射性物質は空中から洗い落とされるだろう。天気が良いと、放射性物質は高空に吹き上げられ、地上に戻ってくるまでに広く拡散する。フォールアウトがどれぐらいの量になるか、どれぐらい広く拡散するか、どこに落ちて来るかといったことは爆発の時とその直後の風の状態にかかっている。技術上の理由で、原爆の完成は七月一五日または一六日以後になる。天気予報では、その後の最初の晴天は七月一八日か一九日だった。しかし、トルーマン大統領の補佐官は天候のいかんにかかわらず七月一六日までに実験するようグローブス将軍に指示した。この日は対日戦争の終結を話し合うポツダム会談の初日だった。この決定は、トリニティーの実験場とその外の広範な地域の汚染を増加させる事態を招くに違いなかった。
実験場内の防護措置の重点は観測者をグラウンド・ゼロ(爆心地)から北西に三二キロ離れさすことだった。任務を遂行するためにもっと近くにいなければならない科学者たちのためにはグラウンド・ゼロから八・八キロ離れた所に特別製のシェルターをつくった。多くの科学者たちはデータを取るために実験のすぐ後に危険地帯に入りたがった。これらの人々は、自分の放射線被曝は「個人の責任において」できるだけ小なくすることに同意した証書にサインする必要があった。保健部はこれらの人々に全被曝量を5レントゲン(r)以下に抑えるように強く求めた。
実験場外での安全はマンハッタン計画の医学責任者スタッドフォード・ウォレンと彼の副官フリーデルが担当した。ウォレンはアラモゴルドで実験を観察し、フリーデルは実験場から一六〇キロ離れたアルバカーキーのホテルの部屋にいることになっていた。フリーデルは冗談に「私がここにいれば、どんな事故も我々の二人の片方にしかふりかからないだろう』と言っていた。ウォレンとフリーデルは実験終了後にアラモゴルド周辺地域の避難命令を出す権限を与えられていた。どれだけの放射線があった時にそのような思い切った措置を発令できるのか。ウォレンはガンマ線の二週間の被曝総量が六〇rまでなら安全で、「一〇〇rでもその後さらに被曝することがないなら害にはならないだろう」と考えていた。保健部は最後になって、避難命令を出す基準を一時間当たり一五r、または二週間当たり七五rと決めた。当時のマンハッタン計画従事者の基準は二週間で1rだった。
実験に先立つ数週間、陸軍情報部はアラモゴルド周辺地域を調べ、グラウンド・ゼロから六四キロ以内に住むすべての人々の所在地を記録しようとした。この地域は人里離れてはいたが無人ではなかった。グラウンド・ゼロから二四キロに農場が一つあり、そこからさらに八キロ離れた所に町があった。フォールアウトをもたらす放射能雲が実験場の外に流れ出てからの放射能強度を測定するため、アルファ線とガンマ線計測器を積んだ無線装置付自動車部隊が、グラウンド・ゼロから半径二四〇キロ内をパトロールすることになっていた。実験場はまたアルファ線を調べる空気捕集器に取り囲まれていた。スニージー(くしゃみを起こす)のあだ名を持つこの捕集器は保健グループがフィルター・クイーン社製電気掃除機を改造してつくったものだった。一四四人からなる陸軍避難誘導支隊が編成され、四五〇人を一時的に収容するに十分な食料、生活資材を備えたキャンプが設置された。避難者たちには、有毒ガス弾を入れた弾薬貯蔵所が爆発したと説明することになった。事態が本当に悪化した時には、「どんなに広くても必要と思われる地域一帯」に警戒令を布告する権限がグローブス将軍に与えられた。将軍はフォールアウトによる障害で訴訟問題が生じる可能性を真剣に考えた。すべての地方郵便局にフィルム・バッジが書留で送られた。このバッジと測定車が将来いかなる要求が出てきた場合にも重要な法的証拠を与えてくれるだろうというわけだ。
トリニティー・デーの七月一六日、月曜日は暗い雲でおおわれて明けた。雷雨が来そうだった。爆発は一時間半遅らされた。そして午前五時一〇分、ついに、ゼロ時は午前五時三〇分と発表された。五時を二九分一五秒回った時、トリニティーは爆発した。壮観だった。放射性の塵や破片が高く舞い上がった。計画者たちが最も恐れたこと−はい出していって不発弾を解体すること−は起きなかった。成功の知らせはただちにワシントンヘ、そこからポツダムヘともたらされた。ポツダムではトルーマン大統領が日本に対して謎めいた警告を発した。
爆心地から、八キロ強離れた退避壕にいた科学者たちが爆発直後から放射線測定を開始した。測定値は非常に低かった。即発放射線といわれるものは一秒たたないうちに減衰した。これは、爆発によって上空に運び上げられた物質から出るのと違い、爆発の瞬間に出て地上に達する放射線である。だが、爆発で生じた穴、クレーターは予想以上に放射能が強かった。実験の一時間半後に、土を採取する器具を備えた戦車がクレーターに近付いた。放射能は非常に強く、用意していた測定装置では測れないことがわかった。毎時六〇〇から七〇〇rに達すると推定された。計画者たちは、爆発で放出される中性子が土中のナトリウムなどの原子と反応し放射化させることを考慮していなかったのだ。
爆発のあと、放射能雲は北へ向かった。保健グループの二人の物理学者、ジョセフ・ヒルシュフェルダーとジョン・マギーは、実験場の北側境界線に沿った国道380号に派遣された。人里離れたビンガムという所の道端に一人の老人がやっている雑貨屋を見つけた。後にヒルシュフェルダーは思い出しつつこう語った。「彼は不思議そうに我々を見つめた(ジョンと私は白いつなぎの服を着て首からガスマスクをぶら下げていた)。それから笑い出していった。『おまえさん方、今朝、何かやらかしたにちがいない。お日さんが西から出てまたすぐ沈んだからな』」。ヒルシュフェルダーとマギーはビンガムでフォールアウトを検出した。だが、危険なほどではないと判断した。二人の物理学者は近くの陸軍詰め所に行った。そこでは数人の兵士が爆発後の朝食に骨付きステーキを食べようとしていた。「我々が着いた時、ちょうど肉を焼き始めたところで、うまそうなにおいがしていた。だが、同時にフォールアウトもやって来た。小さな粉塵で地上に静かに降ってくる。放射線レベルは高かった」。測定値は毎時二r。当時の放射線従事者の一日許容量の二〇倍だ。兵隊たちはステーキを埋めて、この場を去るよう命じられた。
風向きや地形が変わるので、フォールアウトは均等には降ってこない。午前九時、グラウンド・ゼロから約四八キロ離れたビンガムの北東地点で、マギーは毎時一五rを記録した。最高値を示したのは近くの山峡の中で、ここはたちまちホットーキャニオン(熱い峡谷)と呼ばれるようになった。幸いに、陸軍の地図ではこの地域には誰も住んでいなかった。実験場の東側境界線近くにある町カリゾゾでは、一時、懸念されるような放射線レベルになったが、すぐに下がって、避難命令は出されなかった。この日の夕方には、みんな緊張が解けた。危機は去った。
翌火曜日、フリーデルとヘンペルマンはホット・キャニオンでの測定値が依然として高いのを不審に思い、車で出かけてみた。二人はどきっとした。放射能が最も高い所からわずか一・六キロしか離れていない所に日干しれんがづくりの家を見つけたのだ。家にはレイトリッフという名の老夫婦が一〇歳の男の子の孫といっしょに住んでいた。道路からは見えなかったので、陸軍の調査部隊が見落としたのだ。レイトリッフ老人がヘンペルマンに語ったところでは、爆発の日、地面は「明るい雪」でおおわれた。そして、その後数日間は、朝夕「地面と柵が『凍った』ように見えた」。後になってやはりその近くで第二の家族、ウィルソン一家が発見された。一家の家畜と飼い犬は熱傷を負い、出血し、毛が抜けたが、見かけ上は健康そうだった。家族は避難しなかった。そのかわり、ヘンペルマンや他の担当者が六ヵ月間にわたり時々、一家を訪問した。一二月、レイトリッフの放牧地のガンマ線外部放射線量は毎時一九ミリレントゲンで、これは一日当たりほぽ〇・五レントゲンに近かった。放射線作業従事者に対する基準の五倍である。ヘンペルマンの見積もりでは、厚い日干しれんがの壁が遮蔽の役をして、レイトリッフー家がトリニティー後の二週間で受けたガンマ線被曝量は四七rを超えず、ウィルソンー家の被曝量はその約四分の三だった。フォールアウトの中には多くのアルフア線やベータ線を出す物質が入っていたのだが、べー夕線による外部被曝やべー夕線とアルフア線の内部被曝は測定されなかった。ヘンペルマンがレイトリッフー家を最後に訪れたのは一一月だった。そのころまでに、一家には二歳の姪が加わっており、全員の健康状態は良好だとヘンペルマンは感じた。
トリニティーの主な被害者は、フォールアウトが高い地域の草を食べていたレイトリツフやウィルソンらの家畜であると、当局者は結論した。陸軍の評価では、六〇〇頭の家畜がフォールアウトによる被害を受けた。ほとんどは熱傷と脱毛で、これはべー夕線外部被曝のためとロバート・ストーンは結論した。彼は、動物たちが受けた線量は、「たぶん約二万レントゲン、ひょっとすると五万レントゲン」と推定した。人間がフォールアウトをかぶった場合の被曝線量はたぶんもっと少なくてすんだだろう。衣服を着たり、風呂に入ったりするからだ。しかし、この説明では一般の人々は納得しないだろうと、陸軍は懸念した。
原爆製造を監督した輝かしき物理学者ロバート・オッペンハイマーは、訴訟を危惧してトリニティー報告中の保健グループ部分を極秘にするよう命じた。この報告は他のトリニティー報告と分離して、オッペッハイマーの個人的承認があった場合のみ公表できることになった。戦後、マンハッタン計画とトリニティー実験が一般に知られるようになって、実験場周辺の牧場主たちは陸軍に対して損害賠償を要求した。出来事をもみ消すため、陸軍は障害を受けた家畜七五頭を買い上げ、オークリッジに送った。ここでは、今でもこの家畜の子孫の調査が続いている。
トリニティーの場合、フォールアウトの動きや、それが人間や動物に与える影響について情報を本気で収集しようという努力はされなかった。ただただ爆弾を正常に作動させることに集中した。生物学的実験でグローブス将軍が承認したのはただ一つだった。だが、それは不気味な失敗に終わった。数匹のネズミが尾をロープに結ばれて爆弾の近くにつるされた。だが、ネズミたちは爆発するより前に、砂漠の熱気で死んでしまった。実験の翌日以後は放射能雲を組織的に追跡することも行われなかった。放射能雲がコロラド州に入っていくころには、拡散して安全だと考えていたのだ。三年後に、モニターグループが遅まきながらトリニティーのフォールアウトの通り道を調べようとした。このグループが調査をすることになった主要なきっかけは、光をかぶったフィルムを売られた、というイーストマンコダック社の顧客たちの苦情だった。調査の結果、このフィルムの包装紙は、ワバシュ川の水で洗ったわらを原料に使っていたことがわかった。この川はアラモゴルドの爆発地点から一六〇〇キロ以上離れているが、フォールアウトで汚染されていたのだ。
保健担当者たちは全体的にみてトリニティーの結果に満足していた。危機一髪という場面はいくつかあり、動物は障害を受けたが、人間は実験場内外ともに誰も障害を受けなかった。フォールアウトは広範囲にまき散らされたが、秘密は保たれた。秘密は一九四五年八月六日に終わった。この日、トルーマンの表現によると「宇宙の基本的な力を飼いならした」ものが、広島という町を破壊した。
広島への爆弾投下の二日後、多くのアメリカの新聞は、原爆による放射能で広島は七〇年間にわたって人が住むことはできないだろうという記事を載せた。この記事はマンハッタッ計画の元参加者、コロンビア大学のハロルドージャコブソン博士とのインタビューに基づいていた。原爆の長期放射線影響は、爆風と熱線の直接的被害よりも大きいであろうと予測した。記事にはこうあった。「広島は荒廃地域となるだろう。……四分の三世紀近くにわたり……この地域に降る雨は、死の放射能を地面から洗い出し川と海とに運ぶ。これら水域の動物は生命を奪われる……汚染地域を調査する人々は二次放射線におかされ、血液中の赤血球が破壊されるであろう。人々は白血病患者のように死んでいくであろう」
ジャコブソンの恐ろしい予言はただちにマンハッタン計画で働いていた人たちの反応を呼び起こした。マンハッタン計画の幹部たちは、ジャコブソンは末端技術者だったにすぎないと新聞記者に話した。ロバート・オッペンハイマーは、ジャコブソンのコメントを公然と冷笑してみせた。陸軍当局は発言を取り消すよう圧力をかけた。FBIの執拗な取り調べを受けた後、ジャコブソンは、自分の言ったことは内部情報に基づいたものではなく、単に個人的な見解にすぎないという声明を出した。
一方、東京のラジオは、爆発のあと市街地域に行った人々が謎の死を遂げていると報じ始めていた。アメリカ当局者はこれを、アメリカが非人道的兵器を使用したと宣伝するためのものと片づけた。グローブス将軍は、これらのうわさや非難を鎮めるため、爆撃した広島と長崎二都市にマンハッタン計画の医師と技術者からなる調査団の派遣を命じた。グローブス将軍の副官トーマス・ファレルによると、「我々の任務は爆弾による放射能はないことを証明すること」だった。調査団は爆撃の1ヵ月後、日本に着いた。四日間の調査のあと、ファレルは、両都市とも放射能の痕跡はないとグローブズに報告した。調査団員の多くはその後もしばらく日本にとどまって、スタッフォード・ウォレンの指揮下で調査を続けた。彼らは放射能を一部検出したが、ウォレンによると、それは「障害が出る値以下で、この値からゼロ時(爆発時)の放射線量を外挿により推定しても、そのレベルはさほど重要な意味を持つほどではない。残存放射能は占領部隊や日本人市民に問題を起こすようなものではない」と結論した。
ファレルの調査団が広島に入る直前の九月五日、ロンドンの新聞『デイリー・エクスプレス』は、「世界への警告としてこれを書く」という見出しで、ウィルフレッド・バーチェットの記事を一面に掲載した。バーチェットは軍部の案内なしで最初に広島に入った報道関係者だった。「初めての原爆の三〇日後の広島では、人々はなお次々と死んでいる。謎に満ちて恐ろしいことに、これらの人人は傷を受けているわけでもなく、未知の何か−これを私は原子力疫病としか表現できない−の洪水の中で死んでいく」と、彼は書いた。東京とワシントンのアメリカ当局者はバーチェツトのこの記事を懸命になって否定した。
バーチェツトとほぼ同じころ、アメリカ軍の案内で広島に入ったアメリカのジャーナリストたちは、バーチェツトとは違った結論を出していた。『ニューヨーク・タイムズ』紙の見出しは、「広島の廃墟に放射能なし」だった。爆撃された町の放射能汚染による被害の話は根拠がない、というのが一般的な結論だった。原爆についての世間一般の感覚には、放射能についての懸念はなかった。広島後の数週間に、アメリカの新聞の投書欄に出た二〇〇通以上の原爆に関する投書で、放射能に触れたものは一通もなかった。
この重要な点に関し、世界は原爆の威力を過小評価していた。原爆は恐るべき破壊力を持ってはいるが、在来兵器の威力を単に極端に高めたものというのが、ほとんどの人が原爆に対して抱いた感情である。トルーマンが「新たな砲の一つ」と言ったように。確かに原爆は通常の爆弾のように爆風と熱線で人を殺す。だが、通常の爆弾とは異なって、また、世界がそれまで知っていたどんな爆弾とも異なって、静かで目には見えない放射線によってもまた人を殺す。そしてこの放射線は爆風と熱線が終わった後も長く尾を引くのだ。
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