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海江田経産大臣は、九電の“やらせメール依頼騒動”について、「原発事故後も電力会社の体質や思考は何も変わっておらず、これでは国民の信頼は得られない。大きな失望を感じた」と語ったが、その言葉は、海江田大臣や経産省にもそのまま当てはまるものである。
原発の事故が継続中でありながら、「緊急対策をとり、安全は確保できている。再開については国が責任を持ちます」(海江田経産大臣)と平然とうそぶき、定期検査後に停まっている原発の再稼働をがむしゃらに求める経産省も、“原発事故継続中でも、経産省の体質や思考は何も変わっておらず、これでは国民の信頼は得られない。大きな失望を感じた”と言われて当然の存在だ。
海江田大臣は手のひらを返すように九電を非難したが、九電をはじめとする電発保有電力会社が政府と二人三脚で「安全神話」の育成と維持に努めてきた歴史を知らないわけではないだろう。
日本政府や学会を含む原子力業界は、スリーマイル島原発事故を契機として米国当局がつくりあげたPRA(Probabilistic Risk Assessment)を日本に持ち込むに当たって、概念や内容はそのままに、“看板”だけPSA(Probabilistic Safety Assessment)と付け替えた。
日本語にすれば、「確率論的“リスク”評価」から「確率論的“安全”評価」へと呼称を変えたわけだ。
言霊説を採るわけではないが、やはり“語感”は重要で、原発にまつわる危険のイメージをとことん消去し、「安全神話」を確固たるものにしたい原発推進派の思いが痛いほど伝わってくる“改ざん”である。
再稼働に向け海江田大臣が語った「緊急対策をとり、安全は確保できている。再開については国が責任を持ちます」という説明が、「緊急対策をとり、事故のリスクは従来に較べて低減されました。再開後万が一の事態が起きたときは国が責任を持ちます」であったなら、佐賀県民や幅広い国民の受け止め方は大きく違うものだっただろう。
原発の立地や再開を望む自治体も、なんとなくはわかっていながら、“事故リスクの低減”という危険イメージが残った言葉ではなく、“安全”という「魔法の言葉」を政府や電力会社に求める。
九電をはじめとする電力会社の原発に関わる策謀は、あまりにもわかりやすく、ばれると非難も浴びるが、政府が用いる言葉のマジックのほうが、その意味がわかりにくく国民を幻惑させるより悪質なものだと言える。
このようなデタラメな用語法は、被曝問題や食品の放射能汚染問題でも同じように見られる。
その性質から、被曝に関して、このレベルまでなら“安全”という閾値はない。
リスクはそれほど高くないとか、除染薬剤を服用するリスクのほうが高いといった内容でしか説明できないものを、平気で“安全”だと言い切る。
それなら年間1mSvという被曝限度は何のために設定されているのかということになる。
(ある部分の国民も、原発に関する説明と同じように、政府の“安全”宣言を期待している)
政府が言えることは、ほとんどのひとが急性放射線障害を引き起こすことはない線量レベルであるとか、推定年間被曝量が○mSvの地域に住む人々は東電ないし政府の責任で非難していただくが、それ未満の地域に住む人々には我慢をしていただくようお願いする、それがイヤな人は自己責任で避難してくれというものでしかないはずだ。
原発に限らないが、どんなにそうであって欲しいと願いあがいても「安全は確保できない」ものである。
だからこそ、避けることができない事故で生じるリスクがどのようなものなのかが重要な問題になる。
事故が発生するリスクを低減させることは重要だが、それ以前に、事故で発生するリスクを許容できるものかどうかが何よりも問題なのである。
許容できないリスクがあるものを存続させて、そこで事故が起きる確率を下げようというのは本末転倒の話である。
雑に動かせば動かすほど事故が起きる蓋然性はぐんぐん高くなるが、どれだけ厳重に造りどんなに慎重に動かしても、事故が起きる可能性をゼロにすることはできない。
問題は、事故が起きることで、十数万人が長期にわたって家を追われ、数百万人が健康問題に怯えながら生活せざるを得ないリスクを許容する(我慢する)のかということである。
だからこそ、米国では「確率論的リスク評価」なのである。
もちろん、そのようなリスクを承知しながらも、他では得られないメリットがあるから危険なものを使おうということもあるかもしれない。
(核エネルギーで言えば、地球に激突しそうな物体の軌道を核弾頭のエネルギーでそらすことを考える。それにより放射能汚染のリスクが伴うが、物体が激突してより壊滅的な被害を受けるよりはいいと判断した場合など)
しかし、原発の目的は、核エネルギーを使ってお釜で水を沸かして電力を得るためのものであり、代替手段は数多くありコストも他より安いわけではない。
政府や多くの国会議員がどうしても存続させたいと思っているのなら、“安全”というまやかしの言葉を使うのをやめ、(過酷)事故の発生確率をゼロ%にすることは出来ず、過酷事故が起きれば今回の福島第一のような災厄に再び見舞われることをきちんと説明した上で、国民に判断を求めるべきである。
(国民投票法がないのだから、緊急避難措置として、9月に臨時国会を招集し衆議院で内閣不信任案を“全党一致”で可決し「脱原発解散」に持ち込むのも一つの手法だと思う)
願望や目標としてはあっても、現実には実現できない“安全”を、まるであるかのように騙して“安心”を与えようとする詐欺行為で原発の存続を実現することを犯罪である。
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