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フクシマ原発第一 福島200万労働者階級人民の怒りと苦悩 そして画家 ケーテ・コルヴィッツ
会津藩は今、原発により、死の恐怖に叩き落とされている。
わたしはドイツの版画家ケーテ・コルヴィッツの絵を思う。
「生きさせろ!」と叫ぶ人々、家族、親と子、父親、母親、子供、そして民衆。
ドイツの版画家ケーテ・コルヴィッツを始めて知ったのは
1973年の秋だった。
わたしの兄は明治学院大学の二部、夜間大学生だった。
昼は田町にある慶応大学の近くの印刷所で働いていた。
兄は明学小劇場の学生演劇人でもあった。
1973年の11月、品川の荏原文化センターホールで、カミュの「正義の人々」を上演することになった。演出と制作はわたしの兄だった。そのパンフレットに兄はドイツの版画家ケーテ・コルヴィッツの「蜂起する人々」を使用した。パンフレットの印刷は兄が勤める中小企業の印刷所であった。兄は三田図書館からケーテ・コルヴィッツ版画集をかりてきていた。
わたしは東急線の旗の台駅でおり、ひとり荏原文化センターに歩いていった。
そのときわたしは孤独な敗北者であった。とぼとぼと歩いていった。
兄が演出した、明学小劇場公演・カミュ「正義の人々」を観戦した。
舞台装置はツアー皇帝支配のロシアの雰囲気を出していた。
その夜の深夜、兄はわたしが住む戸越公園駅近くのあった豊町のアパートに来てくれた。明日は、カミュ「正義の人々」公演の最終日だった。兄は帰っていった。
夜の初冬の風と窓ガラスは音を立てていた。
その頃、わたしは原発に対しては「無知の涙」だった。
すでに小学生時代の「鉄腕アトム」や「エイトマン」などのテレビアニメによって原子力洗脳されていた。
今思う、手塚治虫とは何者だったのだろうかと?
桑田次郎とは何者だったのだろうかと?
石森章太郎とは何者だったのだろうかと?
白土三平の「カムイ伝」はリアリズムに満ちていたが、それを発見したのは中学生時代であった。町の貸本屋さんから「ガロ」をかりるのが楽しみだった。
「カムイ伝」の最初のシーンは色刷りであった。今でも覚えている。
すでに白土三平の「忍者武芸帳」は貸本で読んでいた。わたしは何回も何回もくりかえし読んだ。「カムイ伝」がおそらく原子力に洗脳されていたわたしを覚醒してくれたのであると思う。
世間様PTA様はその頃「子供にマンガを読ませるな」という社会教育運動に熱心だった。そして日本はひたすら清潔衛生超管理社会の完成をめざし疾走暴走してきた。
「カムイ伝第1部」が終了し、白土三平は無言劇のギリシア神話シリーズを1974年頃からビックコミックに連載していった。
すでに1974年頃は原発推進派が「もっと素晴らしい都市へ」「おいしい電気生活」などと日本を細部まで全面的に支配していた。「無知の涙」であるわたしたちは気づかなかった。違和感は感じていたが・・・・・
白土三平のギリシア神話シリーズはその抵抗でもあったのだろう。
日本の「清潔衛生超管理社会」は、フクシマ原発第一によって大破綻した。
「清潔衛生超管理社会」は放射能による汚染社会へと位相転移した。これが現実である。
敗戦後の日本とは原子力日本であった。その原子力日本が2011年311によって焦土となったのである。
会津藩福島県民は今、原発により、死の恐怖に叩き落とされている。
わたしはドイツの版画家ケーテ・コルヴィッツの絵を思う。
「生きさせろ!」と叫ぶ人々、家族、親と子、父親、母親、子供、そして民衆。
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