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少し前の週刊現代の記事です。他で投稿されていないか一応調べた上で投稿していますが二重投稿になっていたら申し訳ありません。
週刊現代 2011年6月25日号より
浜岡原発「被曝死」した作業員が遺した「3冊のノート」
累積被曝50ミリシーベルト 「白血病になってわずか29歳で逝った」
今年、浜岡原発は泊まった。丁度20年前、その原子炉の真下で課目に働き続ける、ある青年のいのちが止まった---------。
人知れず彼が書き綴っていたノートが、被曝労働者の真実を白日の下に曝け出す。
劣悪な環境、苛酷な作業
すっかり色褪せ、ところどころ染みのついたノートをめくると、どのページも、やや右に斜めがかった細かな字で埋め尽くされていた。<SRM/IRM駆動機構>(浜岡1号機)
原子炉の中性子領域出力を監視する。SRMの検出駆動機構が4チャンネル、中間領域出力を監視するIRMの検出駆動機構が6チャンネル、計10チャンネル設置されている>
記号や数式に加え、配線図などがびっしりと書き込まれた3冊のノートは一般人はおろか、専門家でも読み解くのが難しそうだ。
このノートの持ち主は、嶋橋伸之さん。静岡県にある中部電力浜岡原子力発電所で働く作業員だった。「だった。」というんは、伸之さんが‘91年に29歳という若さで「被曝死」したからである。彼の死については後述するとして、まずは遺された3冊のノートに一体何が書かれていたのかを見ていこう。
このノートの解読を依頼されたという、被曝労働問題に詳しい元慶応大学助教授・藤田祐幸氏が語る。
「原発内での具体的な作業について、これほど詳細な記録は見たことがありませんでした。伸之さんのノートは業務日誌も兼ねていますが、中身は浜岡原発で使われている略語だらけで、最初は何がなんだかさっぱりわからず、記述ひとつひとつを読み解くのに半年もかかりました」
たとえば、B5サイズのノートにはこう記されている。<炉内に挿入されたプローブ(編集部註・検出器)は核分裂生成物によって相当高いラジエーション(放射線)レベルになるために鉛しゃへい(遮蔽)のしゃへい容器内に収めて置く インシールドの位置でプローブを止める為のリミットSW(スイッチ)がついている>
A5サイズのノートも見てみよう。
<核計装 原子炉が起動し正常の運転に入るまでの間原子炉内の熱中性子束を測定し運転上の安全性を確保するための情報を供給すると共に原子炉を保護する信号を供給する>
こうした記録ひとつひとつを解読した藤田氏は、やがて伸之さんが浜岡原発で「中性子計装」という業務に従事していたことをつきとめる。
「原子炉の中で核分裂反応が始まると、大量の中性子が飛び回ります。その中性子の密度を監視する計測装置を点検して管理する仕事が『中性子計装』です。
炉内の中性子密度は原子炉を運転するうえできわめて重要で、とくに定期検査後の運転再開時や運伝を停止するときには、このデータをもとに制御棒を操作します。ですので、もし中性子計測装置に異常が起きれば、原子炉が非常に危険な状態になります。
そのメンテナンスをするには、原子炉の底に取り付けられている計60本近い検出器を、運転停止後まもない原子炉の真下に入り込んで、一本、一本手作業で取り外さねばなりません。現場は原発の中でも最も放射線量が高いうえに、高温多湿の非常劣悪な環境です。作業はわずかなミスも許されず、防護服を着たまま慎重かつ迅速に行わなければならない」(藤田氏)
伸之さんは、効放射線地区域で多量の放射線を浴びながら、過酷な作業を行っていたのである。
彼の残した3冊のノートのうち、2冊が先に紹介した作業内容の書かれたノートであり、もう1冊は5〜6人の作業班の毎日の業務内容を記したA4サイズの日誌である。表紙に「核計装班」と書かれたこのノートからは、計測装置の部分の調整に悪戦苦闘した形跡が随所にうかがえる。
<(1998)7・25(月)IRM‐AみギャーBOX及びガイドローラの当たりが強すぎた為、シム(くさび)を追加した>
<7・26(火)IRM−BのみギャーBOXの当たりが強すぎた為、シムを追加した>
<7.27(水)IRM−Cガイドローラのシム1枚づつへらした。IMR−Dガイドローラのシム1枚づつ(0・1mm)ふやした>
労災を認定
来る日も来る日も微調整に追われていた様子が、小さな文字を連ねた記述から浮かび上がってくるのである。あるいはまた、こんな記述が何日も続く。
<10・9(水)ボール弁A,B,C,D、E 電気試験、開閉試験、リーク試験>
<10・20(木)ボール弁B,C,E 分解、清掃、組立、リーク試験>
<10・21(金)ボール弁A,D 分解、清掃、組立て、リーク試験、開閉動作試験>
<10・22(土)休日>
当たり前の作業を当たり前にこなす、その愚直な積み重ねの上に原発が安全に運転されていたことがわかるだろう。伸之さんは熟達した優秀な技術者であり、作業チームの優れたリーダーであった。自らが率先して高線量区域で作業をすすめたがゆえに、彼の被曝量は大きなものにならざるを得なかったのである。
伸之さんは、‘81年に神奈川県の工業高校を卒業した後、中部電力の原発メンテナンスを行う下請け企業に入社、すぐに浜岡原発を担当するようになる。仕事内容は、前述のように原発最前線での計装作業だった。
8年ほど勤務したとき、異変が起こる。体調を崩し、慢性骨髄性白血病と診断されたのだ。折りしも、彼の両親は長年住みなれた横須賀の家を売り払い、一人息子の仕事場にほど近い静岡・浜岡町(当時)へと引っ越したばかりだった。
約2年の闘病生活を経て、伸之さんは亡くなった。それまでの累積線量は50.93ミリシーベルト。福島第一原発で働く作業員の許容被曝量(250ミリシーベルト)の5分の1だが、その死から3年後の94年、磐田労働基準監督署は、伸之さんの労災を認定した。被曝と白血病の因果関係が公的に認められたのである。
これに決定的な役割を果たしたのが、3冊のノートだった。藤田氏らと伸之さんの労災認定のため奔走した海渡雄一弁護士は言う。
「作業状況を克明に記していたノートが遺されていなければ、労災設定は叶わなかったでしょう。僕は別の訴訟の家庭で、運転停止中の浜岡原発の中に入ったことがありますけど、とのかく放射線量が高いんです。入った瞬間から、線量系のアラームがビービー鳴りぱなしでした」
「異常なし」と診断されて
原発を稼動させる以上、放射線を浴びる危険な作業は誰かがやらなくてはならない。だからこそ、しっかりとした被曝管理体制が必要となるはずである。それでは 当時の管理体制はどうだったのだろうか。
伸之さんの遺品のなかには、「放射線管理手帳」もあった。そこには、彼が浜岡原発で働いた‘81年3月から89年9月までの毎月の被曝線量と、定期的に行われる健康診断の結果などが書き込まれていた。
この手帳は、母親の美智子さんが元請会社の中部プラントサービスから苦労して取り戻したものだが、手地腸を開くと、多数の訂正印が押され、数字が書き換えられている。不審に思った美智子さんは会社側に質したが、納得のいく説明は得られなかったという。
本誌の取材に対し、伸之さんが当時勤務していた会社の幹部は、
「管理手帳は、きちんと管理され、毎回正確に測定された数字が記入されていたはずです」
と言っており、藤田氏もこの件については、訂正印は純粋な誤記によるものだと、意図的なデータの改竄の可能性は否定している。
だが、そのうえで氏はこんな疑問を呈す。
「血液検査が年に2回行われていますが、彼の記録をみると、88年6月の白血球数が異常な値を示しているのです。正常値は4000〜9000(個/o3)ですが、彼の数値は1万3800と記載されている、同年11月の値も9500.ところが、検診した石はいずれも『異常なし』と総合判断しているのです」
87年度、伸之さんは年間9.8ミリシーベルトという高い線量の被曝をしている。88年度も定期点検が相次ぎ多忙をきわめ、被ばく線量は高い。しかし、同年6月の血液検査で異常梨と判定されて職場に戻り、翌7月には更に2.5ミリシーベルトの被曝をした。そして89年の夏に自宅で倒れたのだ。もし88年の健康診断で、白血球の異常が出た時点で精密検査をやめていれば、白血病を発症せずに済んだかもしれない。
藤田氏は、この悲劇の背景には原発作業における下請け業者の構造的な問題があると指摘する。
「下請け業者は、労働者の被曝管理について口を出しすぎて仕事がもらえなくなることを恐れているんです。それで、むしろ積極的に厳しい現場へ作業員を送り込み、線量の数値をごまかすこともあると聞きました。そのうえ、作業現場の放射線測定の記録は5年経過すると廃棄されますから、伸之さんがなぜあれだけ被曝したのか、いまとなってはもはや検証不能なのです。
しかも、かつての浜岡原発よりも、いまの福島原発で働いている人たちの方がもっと状況が悪くなっている。アラームメーターを持たずに入るとか、作業員が2ヶ月も前に基準を超える被曝をしていたことを今頃になって言い出すとか。大量の被爆者が生み出されていますから、作業員ひとりひとりの健康管理が非常に心配です」
89年の夏に倒れた伸之さんを診察した医師は、今でも彼のことを覚えているという。
「肌がアトピーのように腫れて、皮膚科へ診察に来たんです。そこで医師が簡単な血液検査をしたところ、白血球に異常が見られ、私のところで再検査することになった。検査の結果、すぐに慢性骨髄性白血病だとわかりましたが、本には告知していません」
体重が激減して
「骨髄線維症」という病名を伝えられて入院した伸之さんは、日に日に痩せ衰えていった。
「80kg以上あった体重は50kg台に減った。将棋盤みたいに体格のいい子だったのに、丸坊主の頭がラッキョウみたいになっちゃって」と、美智子さんは目頭を熱くする。
薬の副作用で食事はとれず、ソフトクリームが溶けたようになった歯茎からは、とめどなく出血をした。
「本人には白血病とは言いませんでしたが、病院では難病の方ばかりが最上階の病室にいましたから、うすうす感じていたんじゃないかと思います。それでも死ぬまで絶対に弱音を吐かなかった。
でも死期が近づいた時、タバコが好きで、『俺は、タバコを吸う時間だけがホッとできるんだから、吸うなというなら、今すぐこの9階の窓から飛び降りる』ってきかないんです。そんなに吸いたいなら吸いなさいと仕方なく言うと、タバコをそっと取り出して2〜3回フ〜ッとやるんです。おいしそうに吸うと、いたずらっ子みたいにタバコを隠してね・・・・」
伸之さんは、子供のころから口数は少なかったが、男気のあるタイプだった。
「わりと親分肌というか、黙って、『いいよ、俺がやるよ』みたいなところがありました。手料理も友人のためにつくっていたし、頑張り屋さんでほとんど病気にもならず、仕事も絶対に休まなかった。
あの会社に就職した理由のひとつは、プラント関係なら外国へいけるんじゃないかと考えたからなんです。
外国に行くというのがあの子の夢だったので、仕事はすごくやる気だったと思います。昔は下手な字を書くと感じたけど、この3冊のノートを見たら、まあ上手に書いてあるなあ、と驚きましたから」(美智子さん)
今、福島第一原発の最前線で、伸之さんのように、率先して働くことをいとわない作業員たちがいる。彼らを突き動かしているのも、実直な責任感そのものだろう。高濃度の放射性物質が充満する現場で働く彼らの健康を、いかにして守るか。国も東電も、全ての関係者が、そのことを真剣に考えてほしい。
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