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(Life on the edge of Japan's nuclear contamination zone: BBC NEWS ASIA-PACIFIC)
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-pacific-14019315
2011年7月4日最終更新23:11GMT
日本の核汚染区域の境界で生きる
ローランド・バーク
BBCニュース、南相馬
南相馬はかつては目立たない場所だった。まばらな家と終夜営業のコンビニが水田の間に点在していた。しかし現在、そこは2つに切り裂かれている。
警察は、福島第一原発に向かう道々に、遮断のための柵を立てた。警官は懐中電灯と長い棒を持ち、顔にマスクをしている。法律により、原子炉の周囲20kmは、現在立入禁止区域だ。
百歩先のセブンイレブンはまだ営業している。しかし、駐車場では、大災害の処置に向かう緊急要員たちが、放射線から身を守るための防護服・マスク・ゴーグルを着用し、準備をしている。
彼らの車だけが、バリケードの通過を許されている。
南相馬の人々は、困難な決断を下してきた。
避難区域のすぐ外側でも、放射能レベルは通常より高いが、避難命令を政府に促すには不十分だ。
流民
庭は草がぼうぼうで、通りを走る車は少ない。多くの人が家を棄てたことが分かる。しかし、残ることを選んだ人たちもいる。
ヌノカワ・ヨシユキ氏は、まだ青果店で客の応対をしている。店では、福島県産のサクランボが目立つように並べてある。
サクランボは、今が収穫の盛りだ。例年は、農家は通信販売で1キロ3000円(37ドル50セント)で売ることができる。家族や同僚への贈り物として人気があるが、今年は販売量が減っている。
「私は父からこの店を継いだ。だから、店は続けなければならないと感じている」と、ヌノカワ氏は語る。「そして、お客様がまだいる間は、食べ物を彼らに供給するのが私の務めだと思っている。」
カワムラ・ユキエ氏は、その店をよく利用していたが、今は車で6時間の山中に、12歳のクルル・8歳のエイの、2人の子どもと一緒に住んでいる。
彼らは地震と津波の5日後に南相馬を去り、偶然、片品(群馬県利根郡片品村:投稿者)に落ち着くことになった。苦難に陥った同胞を助けたいと、スキーリゾートの地元当局がバスを24台差し向け、カワムラ氏は家族とそれに乗った。
それ以来、彼らはずっと、ある伝統的な日本旅館に滞在している。朝、布団をたたんで押入に仕舞ってもなお、畳の部屋はあまり広くはない。
子供たちは地元の学校によくなじんでいるが、ユキエ氏は南相馬でのかつての生活が忘れられない。
「私はあの街で、生まれ育った」と、目からしたたる涙を綿布で拭いながら、彼女は語る。
「でも、子供たちにとって何が最善かを考えると、私は帰れない。最初、私は離れたくなかった。しかし、父が孫のことを心配して、『出て行くチャンスがあるなら、そうしなさい』と言った。」
立て直し
大災害の1週間後、人口5000人の村・片品は、更に1000人の避難民を受け入れた。余所へ移ったり、帰郷したりして、その数は現在285人にまで減少した。
福島の危機は、終結からほど遠い。政府と東京電力は、遅くとも1月までに原子炉を冷温停止に持ち込むという約束にこだわっている。国際原子力機関は、その目標を「不明確」と表現した。
最初の問題を抑えた後、現在、作業員たちは汚染水の浄化装置を立ち上げ、原子炉の冷却に活用している。
循環冷却システムの確立が、危機をコントロール下に持ち込むためには重要な段階だ。外部から原子炉に注水したことによって、施設には10万トン以上もの放射能汚染水が溜まっている。
目の前の大災害が終わったとしても、原発の周囲を浄化するには何年もかかる。同じく片品に行くバスに乗った田中氏の一家は、南相馬にはもう戻らないとすでに決めている。
彼らは、置いてきた店の代わりとなる、新しいラーメン店を開いた。一家の長である70歳のタナカ・カズオ氏が、客の注文をとる。大部分の男性が引退する年齢で、彼は全てを失った後、再出発を余儀なくされる。
「起きたことは起きたんだよ」と、タナカ氏は語る。「私に関する限りは、どうやって暮らしを立て直すかが、他の何よりも重要だ。」
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(投稿者より)
イギリスBBCサイトに掲載された記事です。誤訳があるかも知れません。ご容赦下さい。
被災者が何を考え、どう生きているか。3.11以降、彼らは一貫してそれを追い続けています。大津波の直後に現地に入り、瓦礫の街を撮り、サイレンの音を聞き、現地の消防団員と一緒に逃げる。それと同じスタンスを、彼らはまだとり続けているようです。
「現在、そこは2つに切り裂かれている」("these days it is cut in two")。市内が2種類の区域に分けられたという、単に地図上の話ではなく、地域共同体が「残る人」と「去る人」の2種類に分けられた、ということだったようです。
残る人・去る人、いずれも厳しい生活を強いられていますが、それを強いた者たちを非難する言葉を、彼らは一言も書いていません。恐らく、それは彼らの仕事でないからでしょう。
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