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福島の「放射能汚染」を調べ続ける 科学者・木村真三氏が本誌に登場 「この驚くべき調査結果を見よ!」
国は民を見捨てるのか
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/10712
2011年07月04日(月) 週刊現代 :現代ビジネス
国が公表しなかったホットスポットを明らかにしたNHK番組が反響を呼んだ。その番組の主役、科学者・木村真三氏は、今もフクシマ各地を精力的に飛び回り、放射能汚染の実態を調査し続けている。
本誌記者:阿部崇
■子供には食べさせられない
6月18日の夜、福島県いわき市北部の山あいの町・川前町の志田名集会所に、住民がぞくぞくと詰めかけてきた。一人の若い科学者によるこの地の放射能汚染調査の結果を聞くためだ。
科学者の名を木村真三(43歳)という。北海道大学医学部の非常勤講師の木村氏は、おそらく今、最も多忙な放射線の専門家だ。福島第一原発の事故以来、放射能汚染の実態調査のためにたびたび福島県内を訪れ、車で走破した距離はおよそ5000kmにも及ぶ。事故後の平均睡眠時間は4時間足らずだという。
その木村氏が、最近集中的に調査を行っているのがいわき市だ。とりわけ、ここ志田名地区と荻地区は、地元の人々の手によって放射線量が高いことが突き止められていたが、報告を受けても行政は一向に動かなかった。そんな苛立ちを抱えていた住民の要請に応える形で、木村氏が詳細な調査を買ってでたのである。
集会所で木村氏の口から発せられたのは、地元の人々にとってショッキングな言葉だった。
「この地域の中には、チェルノブイリ事故の際に避難(特別規制)対象地域と設定された、汚染度が最も高いゾーンに匹敵する場所もありました」
チェルノブイリの避難(特別規制)対象地域の基準は、1480キロベクレル/平方メートル以上だった。この地区のある土地では、それをわずかだが上回る数値が計測されていたのだ。
沈黙ののち、住民からは質問が相次いだ。
「このままにしておいたら、田畑に作付け可能になるまでどのくらいの年月を要するんですか?」
「・・・ものすごくかかると思います。セシウム137の半減期は、30年ですから」
厳しい現実を突きつけられて聴衆の間からはざわめきと、あきらめ混じりの乾いた笑いが漏れる。
別の男性が質問した。
「作付けはどの程度ならできると思いますか?」
「若い人に食べさせないのなら、そこで作付けした作物は食べてもいいと思う。人体影響が出るのは20~30年後ですから、50~60歳以上の方々に何か影響が出たとしても、それはお年を召されたら身体に出てくる障害とほとんどかぶってしまう程度です。ただし、もちろん小さいお子さんには食べさせてはなりません」
質問した男性が聴衆に向かって声をかけた。
「みなさん、先生の言われていること分かりましたか?『ここには30年間は作物を作ってはダメ、作ってもいいけれどそれは自分の年齢を考えて食べてくれ』ということですよ。それが現実であるならば、ここにはわれわれの子どもたちは後継者として住めないということ。深刻な問題です」
重苦しい雰囲気が集会所に満ちていく。
■ホットスポットを発見
いわき市は、その大半が福島第一原発から30kmの圏外に位置する。そのため20~30km圏に出されていた「屋内退避指示」が解除されて以降は、計画的避難区域はもとより緊急時避難準備区域にも指定されなかった。市も安全をアピールしていた。
だが、それは詳細な調査結果に基づかない、机上の空論でしかなかった。福島第一原発から約28kmの地点にある荻・志田名地区の一部には、前述のようにチェルノブイリ事故時に避難地域と設定された土地と変わらない汚染レベルの土地があることが判明した。だが、行政上は危険地帯ではないため、遠くに避難したくても現時点で国や行政からのサポートはない。これが現実だ。
何度もこの地を訪れている木村氏は多くの住民と顔なじみだ。車ですれ違えば笑顔で会釈してくれるお婆さんや、「差し入れだ」と言って山盛りの柏餅を届けてくれるお爺さんもいる。この日は、そういう人たちに向かって「ここに住むのは難しい」と宣告しなければならなかった。
木村氏は言う。
「本当に辛い。こういう仕事は本来、行政がやるべきことなんですが、行政がそれをしようとしない。だから僕がやるしかない。
チェルノブイリのように20年以上経ってから事故の影響が表れてくるような事態を起こさないためには、今きちんと対応していかなければならない。今なら食い止めることが出来るんじゃないか。その思いが今の僕の仕事のモチベーションになっているんです」
木村氏は、その活動がNHK教育テレビのETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から2か月~』(5月15日放送)で取り上げられ、急速にクローズアップされるようになった。同番組は放送から間もなく、2度も再放送され、3週間後には『続報 放射能汚染地図』も放送された。
放送では、木村氏が放射線測定の権威・岡野眞治博士(84歳)とともに、岡野氏が開発した放射線測定装置を積み込んだ車両で福島県内を走行しながら、放射線量を測定していく様子が紹介された。この調査の中で、浪江町赤宇木地区というホットスポットも発見した。当時、文部科学省は赤宇木地区の放射線量が高いことを把握しながらも、地名を公表してはいなかった。そのため、近隣からこの地区に避難してきている人さえいた。木村氏らの調査で、はじめて汚染レベルの高さが明らかになった。
さらに『続報』では、福島第一原発の敷地外で木村氏が採取した土壌からプルトニウムが発見されたことも報じられた。すべて、足を使った調査によって発見された成果だった。
志田名集会所での説明会の翌日。荻地区の牧草地に木村氏の姿があった。
牧草地前の用水路の、コンクリート製の蓋に、赤いテープで×印が付けられている。文科省がモニタリングカーで定期的に測定に訪れるポイントである印だ。
文科省が公表するデータを見ると、6月22日時点で、このポイントの線量は毎時2・6マイクロシーベルト。この日、木村氏が牧草地の中央地点で測ってみると毎時およそ3マイクロシーベルトを計測した。さらに別の牧草地で、牧草をまとめたロールの表面線量を測ると、毎時19・99マイクロシーベルトまで測定できる線量計が振り切れてしまった。
その結果に地元の酪農家たちも肩を落とすが、木村氏に向けて出てくる言葉は感謝の言葉ばかりだ。
「先生がここに来てくれるようになって、志田名や荻の線量が高いということで大きな騒ぎになった。それがなかったら、行政は最後まで知らんぷりだったはずに違いないですよ」
地元の人々がそれほど信頼を寄せるのは、木村氏が職を辞し、ボランティアで調査活動をしていることを知っているからだ。木村氏が、このような形の活動を始めたのには理由がある。
■辞表をたたきつけた
3月12日、福島第一原発1号機で水素爆発が起きた。当時、木村氏は厚生労働省が管轄する独立行政法人・労働安全衛生総合研究所の研究員だった。
放射線衛生学の研究者である木村氏はすぐに現地調査に向かおうとしていた。しかし、研究所から所員に一斉にメールが届く。勝手な調査行動を慎むよう指示する通達だった。
すぐに辞表を書いた。一刻も早く現場に入るべきだという信念を貫くためだ。「こんな時こそ現場に入らないと放射線の研究者としての存在意義がなくなってしまう」、そんな思いを抑えられなかった。
実は、木村氏は過去にも似たような経験をしている。1999年9月、東海村JCO臨界事故の時のことだ。当時、木村氏は放射線医学総合研究所に入所したての任期付き研究員だった。
放射線事故は初動が大切だ。時間が経てば経つほど、半減期の短い放射性核種が計測できなくなってしまい、事故の実態がつかめなくなってしまう。だが当時、放医研を管轄していた科学技術庁は、現場入りしようとする研究者たちにストップをかけた。
木村氏ら有志の研究者は独自に現地調査に乗り出したが、このドタバタで現場入りは1週間ほど遅れてしまった。同じ轍を踏まないために、福島第一原発の事故直後に、労働安全衛生総合研究所を辞めてしまったのだ。
「東海村の事故を調査してから、日本でも大規模な放射線事故が起こりうると考えていました。そのときのために、チェルノブイリ事故から学ぶべきだと考え、何度も現地に足を運びました。2000年から現地で健康調査を始め、昨年は7月と9月に、今年も1月と、この6月にも現地に行きましたが、事故から25年経った今でも、健康被害は住民に表れているんです」
実際、日本でも事故は起きた。だが職場は現場調査を止めようとした。
「人のためになる仕事をしたいと思って研究者になったのに、これじゃあ何のための研究なのか分からない」
こうして木村氏は職をあっさりと捨ててしまった。
荻地区の牧草地の調査をしたその日の午後、木村氏はいわき市の小名浜市民会館で約900名の聴衆を前に調査報告会を行った。さらにその日の夜には、郡山市で約40名の聴衆を前に説明会も行った。
普段は調査中心の生活だが、説明会などの機会があれば、地域の人々に現状を丁寧に説明し、質問にも出来る限り答える。
「汚染された芝生を剥がしたが、その後の処理はどうしたらいいのか」、「母乳からセシウムが検出されたが、赤ちゃんに飲ませても大丈夫なのか」、「畑の草は刈っても大丈夫なのか」。
放射能に汚染された地域の人たちが抱いている日常的な疑問に、わかりやすい言葉で答える姿勢が住民に安心感を与えている。
徹底しているのは、調査はもちろん、説明会などの際にも謝礼を一切受け取らないことだ。自宅のある都内からの移動費も自腹だ。職をなげうっておきながら、完全なボランティアとして活動している。
■各地から「調査してほしい」
放医研を5年で退職してから労働安全衛生総合研究所に入るまでの2年7ヵ月の間、木村氏には塗装工として働いた時期がある。その時期にも研究者の道は諦めなかった。東海村事故をきっかけに知己を得た京都大学原子炉実験所の今中哲二氏の実験室を借りて実験に取り組んだり、一人で論文をまとめる作業に打ち込んでいた。きちんと研究を続け、業績さえあげればいつか必ず研究職に戻れる。そう信じて不遇の時期を乗り切った。
「苦境から這い上がれたのは、東海村事故以来の仲間の応援があったからです。そういう人間関係が僕の活動を支える原動力になっています。テレビで取り上げられたことで僕が注目されるようになっていますが、福島での調査は仲間たち全員でやっている。現場で調査するのは僕ですが、そこで採取したサンプルを測定したり解析したりしてくれるのは、京都大学の今中さんや長崎大学の高辻俊宏さん、それから広島大学の静間清さんや遠藤暁さん、金沢大学の山本政儀さんという一流の研究者。彼らがいればこそのこの調査活動なんです」(木村氏)
放射能汚染に苦しむ人々に対し、国は必ずしも正確で詳細な情報を提供していない。県や市は、「原子力行政は国の専権事項」とばかりにダンマリを決め込んでいる。結局、正確な情報を欲している住民のニーズに応えているのは、木村氏のような組織に縛られない研究者だけだ。
現在、木村氏の元には、福島県内の各地から「こちらでも調査してほしい」という依頼が殺到している。だが、たった一人でその要望に応えるのは無理な相談だ。そこで現在考えているのが、「市民科学者」の育成である。
「普通の市民に放射線についての知識を深めてもらい、自分たちで正しく線量の測定をしてもらう。そういう中で、線量の高いポイントが出てきた時には僕が出向いて専門的な調査をしようという発想です。
残念ですが、汚染された地域は、今後長期にわたって放射能と付き合いつづけて行かなければならない。そういう理解を深めてもらうためにも、市民科学者の育成が大事なんです」
チェルノブイリ事故発生から25年。多くの研究者が今でも現地での調査にあたっている。福島でも同じように数十年単位での調査が必要になると言う。仮に内部被曝の被害が出た場合にもすぐ対応できるよう、活動の基盤を福島県内に設けることも考えている。
「今後は福島県内だけでなく、宮城県南部などでも調査を進めたい。チェルノブイリでも僕を待ってくれている人がいる。ほんとうに、体が10個あっても足らない状態ですよ」
木村真三の闘いは、これからも続く。
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