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福島・飯舘を離れた両親、苦渋の決断「いつ戻れる…」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110703/trd11070321000014-n1.htm
2011.7.3 20:52 産経新聞
東京電力福島第1原発事故で計画的避難区域に指定された福島県飯舘村。4月の指定から2カ月余り、村民の9割、村役場も村外に移り、「とどまる」と頑張ってきた両親が3日、隣接する南相馬市へ避難した。「いつ戻れるのか。避難しても、これから先が心配だ」。震災から間もなく4カ月。各地で復興の兆しがみえる中、生まれ故郷が失われ、いつ終わるとも分からない両親の避難生活が始まった。(大渡美咲)
▼人手がなくなった
両親の引っ越しを手伝いに約2カ月ぶりに訪れた故郷の飯舘村。すでに村民のほとんどは避難している。田畑や道路脇に雑草が目立ち、「人手がなくなったんだ」と実感した。
実家の玄関を開けると、妙な臭いがした。「かびくさいでしょう。原発事故があってから、窓を開けていないから」と母(54)が言った。窓はテープで目張りされ、閉め切ったままだった。
といっても、事故対策はそのくらいだ。最も放射線量が高かったとされる事故直後も、母は「ガソリンがないから」と徒歩で通勤し、父(61)も外で草むしりをしていた。
原発事故前に父が植えたアスパラガスは、事故で収穫されることなく、背丈ほどの高さに伸びていた。昨年、会社を退職した父は、農業一本で暮らすことを目指していた。
しかし、その夢の実現はかなり難しくなった。春ごろに作ったシイタケなどの野菜はすべて廃棄した。摂取制限なので、出荷だけではなく、自分で食べることもできない。放射性物質の拡散を懸念し、土を掘り返すこともできないなか、いつか戻る日に備え、父は田畑の雑草を懸命に抜いた。
計画的避難区域に指定されても、両親は「生まれ育った村を離れたくない」と引っ越すつもりはなかった。
しかし、6月に入り、次第に商店や郵便局が閉まり、新聞も配達されなくなった。ゴミの収集もあとわずかで終了する。隣近所の人も避難してしまった。ライフラインがなくなった村で、生活を続けることは困難だった。
▼南相馬のアパート
ようやく決心した避難だったが、避難先を見つけるのは簡単ではなかった。周辺の地域の賃貸物件は、すでに避難者で埋まり、村が斡旋(あっせん)した物件を見に行っても、空いていないことがほとんどだった。
共同トイレや風呂なしアパートまで考えた末、見つかった避難先は南相馬市のアパート。6畳2間に台所、風呂、トイレがつく。同市は一部が原発の20キロ圏内に入り、村よりも原発に近くなるが、放射線量は低い。同市からほかの町に避難する人もいる中、両親は同市に引っ越すことになった。
「どうせ毎日、家に戻るから」と、荷物は最小限にまとめた。テレビや冷蔵庫などの家電は支給されるため、持っていくのはテーブルや布団、食器、日用雑貨などだけ。母が勤めている会社は飯舘村にあり、避難後も操業を続けるため、毎日、村に通う。父も村の見回り隊に入り、当番の日は村に来る。
実家は祖父母と両親、兄弟4人の8人で住んでいた時期もあった。この家に、誰も住まなくなる日が来るとは思わなかった。
故郷を離れる引っ越しの前、「少しでもきれいにして出よう」と、家族で久々に窓を全開にし、家の掃除をした。アルバムは家に置いていく。両親は、にぎやかな家族の写真を見ながら、「また、あんたたちが帰ってこられるようにしたいね」とつぶやいた。
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