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言ってることは間違っていないが
だんだん本質的な問題からずれていってるな
医療政策のコストに対する効用最大化を議論するのにも
量子力学的な不確定性なんて議論する必要はなく、確率論で十分だろう
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110625/221131/?ST=print
日経ビジネス オンライントップ>IT・技術>伊東 乾の「常識の源流探訪」
正しく怖がる放射能【11】多重の不確定性に迷わされるな!
2011年6月28日 火曜日
伊東 乾
前回から、量子力学的な不確定性を排除せず、放射能の健康被害を考える上でもっとも本質的な問題に踏み込んでお話しています。コメントも多く寄せていただき、ありがとうございます。中には大学で講義する際に学生が見せる典型的な誤解も見ました。シンプルな問いには私のツイッター上でお答えもできると思います。より踏み込んだ内容は140文字の断片で誤解のもとになってもいけませんから、記事できちんとお話しするように、と思います。
で、元来の予定では、今回から量子論の話に入るつもりでしたが、コメントを拝見しいささか時期尚早という気もしました。 そこでまず、古典的な統計や確率の問題から、整理し直しておきたいと思います。このあたり、私の本業である音楽はいったん横において、物理学出身者として、また大学で情報科学教育に携わってきた一人として、当たり前の内容を記すつもりです。
以下やや余談ですが、ある会社で「原子力工学科」の学部だけ出て、その後まったく関係ない仕事をしている人を「原子力のプロ」、理学部物理の大学院を出、原子力工学科で物理の講義を担当した別の専門の人は「原子力のプロではない」と「世間は見る」という話があり、二つの意味で呆れました。ひとつは、本当にそういう世間であれば情けないことだと思うし、もうひとつは、これは書籍を作る話で、売れなければ裁断その他リスクを負っていることもあるのですが、そんな程度の腰の据え方でどんな本ができるのか?という疑問です。北杜夫でも加賀乙彦でも鴎外でも、医者の作家が医学の話をしてもそうはいいますまいに・・・もう少しどうにかならんもんかな?と思うのですが・・・苦笑した次第です。
被曝のマイクロプロセスから考える
さて、いきなりですが、いまある人が放射能で被曝する、その瞬間を考えてみましょう。
幾度も記すように放射線被曝には「外部被曝」と「内部被曝」の別があります。外部から到来した放射線を浴びるのが「外部被曝」、体の中に取り込んでしまった放射性物質の発する放射線による被曝が「内部被曝」です。
例えば高エネルギーの光である「ガンマ線」が、体内あるいは対外のどこかから飛んできて、人間の体、その細胞に当たったとします。
運動会で転がす「大玉ころがし」の球を、公園のジャングルジムに投げれば、ぶつかって跳ね返ってきます。同様に、一定以上「目の詰まった」ターゲットにビームを当てれば、ビームとターゲットはぶつかり(「散乱」といいます)、相互作用が起きます。
もとのビームが持っていたエネルギーはターゲットでなんらかの仕事をする。いまガンマ線が生きた人間の細胞に当たれば、「一定の割合で」細胞組織やその中に含まれるDNAにぶつかり、それらを損傷します。
いまここで「一定の割合で」と書いた、ここに統計的な要素が顔を出すことに注意していただきたいのです。ちょうど「ふるい」で砂場の砂を漉すように、一部は素通りしてゆくし、一部は残るだろう。基本的には「目」の大小で決まることですが、場合によっては目より小さくてもふるいの上に残るものがある「かもしれない」などなど、ここに「確率的なことがら」が顔を出します。
場合の数で考える「確率」
放射線が人体に与える影響を考える上では、こうした「確率的」な事柄がいくつかの段階で顔を出します。以下非常に大まかですが、幾つかを整理してみると
1 同じ場所にいても被曝したり、しなかったりする
2 同じ放射線を浴びても、ダメージを受けたり受けなかったりする
3 同様の放射線によるダメージを受けても、発ガンの有無など、人によって症状の出方に違いがある
4 仮に被曝でガン細胞が発生しても、体質、体調、年齢その他によってガンの病状進展に違いがある
5 仮に、実際には被曝によって発生したガンである人が亡くなったとしても、病理解剖によっては、その原因を特定できたりできなかったりする
などなどなど、です。
これらはすべて「統計的」な不確定性を伴うものです。その意味で「確率的」ということもできます。ここでいう「確率」というのは、世の中で起きうるすべての可能性の場合のなかで、特定の現象が起きる割合を示す比の値であることに注意しましょう。このあたりは前回、ご存知の方むけに簡単に書いたところが不親切、とご指摘いただいた部分ですので、丁寧に記しています。
例えば、すべての目が同じ確からしさで出るさいころの場合、実際に出る可能性のある目は
1、2、3、4、5、6
の六つです。仮にいま丁半賭博で「奇数が出るか」「偶数が出るか」を競うとすれば、偶数が出る「場合」は
2,4,6
の三つですから「場合の数」で比をとるなら
〔偶数の目=2,4,6、の三つ〕/〔可能なすべての場合の数=六つ〕
=3/6=1/2
というように、すべてを数え上げることで「偶数の目が出る確率は2分の1」と計算ができる。こうした「場合の数」による確率計算は、中学や高校でも教え、入試問題などでも問うているもので、極めて古典的、かつ誰でも異論なく納得の行くものだと思います。
「確率予報」と「EBM」
すべての場合の数をかぞえあげる「古典的な確率」に対して、ちょっと違う意味で「確率」という言葉が使われるのが、日本の天気予報で見かける「降雨確率は50%」などの表現です。
「明日の午後雨が降る確率は90%」と言われれば、誰しもかさを持って出るなど準備をすると思います。しかしこれは
「雨の降る場合の数はABCDEFGHIの九つ」
「雨が降らない場合はJだけ」
〔雨の降る場合の数〕/〔すべての場合の数〕=9/10 よって90%
というような計算にもとづくものではなく、背景としては、より複雑な科学に基づきながら、最終的な表現は、直感的で数理的なものではありません。
社会がこういう表現に変に慣れていることには功罪両面があると思います。典型的なマイナス面は確率という言葉の意味への誤解でしょう。単に個人が勘違いしているだけなら害は少ないでしょうが、公的に責任を持つ人が、誤った理解に基づいて判断を下すなどあってはいけないことだと思います。
この「確率予報」と少し似ているものとして「EBM」という考え方を挙げておきましょう。あまり耳慣れない言葉と思いますが、お医者さんなら10年ほど前にはやったのをご存知の方が多いと思います。
EBM Evidence-Based-Medicine とは「根拠に基づく医療」とでも訳すべき考え方で、平たく言えば巨大な「電子カルテ統計」のことです。
ある病名が診断された。同じ診断を受けた多くの患者たちに対して、いままで、さまざまな治療がおこなわれ、その一部は功を奏して完治し、一部は治療が失敗に終わり、一部は症状がこんな風に変化した・・・といった、膨大な疫学統計を、強力なコンピュータを用いてデータ処理し、診断を下す上で「医師のヤマ勘」に頼るのでなく、「データ=根拠にもとづく医療」で臨床医療の世代交代を試みよう、という運動だったと理解しています。 なぜ、こんな話に変に通じているか、背景も一応お話しておきます。12年前私は東京大学に音楽の助教授として任官しましたが、そこで採用した大学院生の修士研究のテーマは、本人の将来を考えて柔軟に考えるようにしました。
もとは音にまつわる情報関連のテーマを志望してきた東大理学部数学科出身のI君という私の研究室の学生に、当時工学部長だった小宮山宏さん(のちに東大副学長→総長)に声をかけてもらった「知識構造化」というプロジェクトで関わるようになった「医療情報の知識構造化」で修士論文の仕事をしたほうが、将来研究職としてやってゆける公算も広がり、その余裕の中で音に関わる問題にタッチしてもよいのでは?と薦めた経緯がありました。そこで彼が取り組むことにしたテーマと「EBM」が密接に関わっていた訳です。
彼は私のところでこのテーマで修論を書いた後、このテーマで博士も取り、現在も東京大学医学部助教として関連の仕事で研究生活を送っています。私はよろず学生から相談を受ける際、単に問題となるテーマだけでなく、それを追求した先の発展性を含め、その人にとって力になる事も念頭に、一緒に考えるようにしている次第です。
さて、先ほどのEBMに戻りましょう。
なかなかよさげに聞こえる話ですが、実の所、そのあとEBMが振るったという話を聞きません。このブームの背景には、米国政府がもろ手で後押しした「IT革命」がありました。情報ネットワークで市民を繋ごう、に始まって、「病院を繋ごう」「臨床情報をデータベース化しよう」「100万という単位で症例が集まれば、いままでの『ヤマ勘医療』を越える確かな臨床判断が可能になるはず・・・」といったアイデアだったとおもいます。
なぜEBMがいまいちだったのか、確かな理由はいま知りませんし、現在も続く、効果ある発展もあるのかもしれません。ただ、2000年ごろに一部でやたらとPRされた電子カルテの世代交代は、その後何にしろあまり進んでいない。この問題はまあ別の機会に譲るとして、いまここで考えたいのは「治癒の確率」という微妙な考え方です。
疾病と「治癒確率」
いま、あなたは「胃がんです」と診断されたとしましょう。今日の病院では、お医者から患者に対して「症状はどれどれ、いま執りうる処置はこれこれ・・・」といった説明、つまり「インフォームド・コンセント」が徹底されるようになりました。
さきほどご紹介したEBMは、この「インフォームド・コンセント」と深く関わりがあります。
「あなたの今の症状に似たケースの過去の臨床データを見ると、7割の人が外科手術を受けていて、その9割は成功しています。この場合の5年後生存率は60%ということになっています。一方手術をしないという選択も可能です。この判断は高齢の方で多く、薬物と放射線治療の併用になりますが、この場合は・・・」
なんていう話ができるのは、疫学統計の知識の賜物ですが、EBMを推し進めるような形で「だからこれが最適の治療だ」というのではなく、「これこれの可能性ですが、どうしますか?」と患者本人に判断を委ね「いえ、余命は短くてもいいから、自分はこういう選択をしたい」といった主体的な判断を優先する方向で、医療が動いていると思います。
注意しなければならないのは、医療統計がどのように出ていようとも、自分の症例がそれに本当に合致しているかどうかは、実は定かでないし、「たいがいは治る」という治療メニューを選択しても、少数の例外ケースに自分がならない、という保証もまったくない、ということでしょう。
95%の確率で大丈夫、というのは、のこり5%分は大丈夫でなかったケースが、医療統計に残っている、ということで、自分がその5%の側に入るか入らないかは誰もしらない、やってみなければわからないという事実も、常に覚悟しておく必要があります。
また医療統計、疫学統計は、つねに「母集団」がどういうものか、を考えなければ意味を持ちません。かりに今、極めて珍しい難病にかかった人だけ10人集めて、そこで「統計」をとったとしても、多くのひとにそのままの値が当てはまるという保証はありません。同様に、多くの人に当てはまる割合が、珍しい特定の病気に当てはまるという保証もありません。
「この病気かかったとき、治癒率50%」などというとき、実際にはどういう症例を母集団(分母)として、何例くらいのケースで数字を出しているか、それらが不確かである場合、実はそうした「統計」の数字や「治癒確率」などは、殆ど意味を持つものになっていません。
疫学統計で考える放射線障害
さて、いま一般の疾病についての疫学統計と治癒率などを例に挙げて考えたわけですが、放射線障害もまた例外となるものではありません。
医療統計の一種としての放射線障害の疫学データもまた、どのような状況の患者や症例を、どの程度の数、またどれくらい網羅的に調べたか、によって、「確率」を考える分母(母集団)も分子(当該ケース)も数が全然変わってしまいます。
特に、広域に広がった放射性物質が、長年にわたってどのような影響を人体に与えるのか、あるいは、いま福島原発近郊で考えなければならない「低線量被曝」と呼ばれる状況がどれほどのリスクを持っているかの評価などにも、幾重にもわたってさまざまな「不確実性」が関わっていること。
これをよく斟酌した上で、「データ」と称されるものを物事の判断の参考にしてゆく必要があります。
その数値が得られた前提をきちんとみることなく、安っぽいスキャンダル・マスコミの見出しのような了見で右往左往するような事は愚かしく、信頼するに足りません。自分の命運をそこに賭けるなら愚挙といわねばなりません。
更に言えば、もし仮に、上記のような問題に関係して「司法の判断を仰ぐ」というような場合、もうひとつ別の不確定性を背負いこまねばならない事に注意しなければなりません。
仮に医科学的に極めて高い妥当性を持つ「証拠」であっても、その法廷あるいはその国の司法において認められていないものであれば、法廷での証拠力が保証されるとは限りません。
これはレイプなどの事犯における遺伝子鑑定の問題を考えれば分かりやすいでしょう。米国では、すでに死刑執行されたあとのケースで、遺伝子鑑定の結果、明らかに冤罪であった、というケースが幾つも知られています。
これはまた逆のケースもありえます。初期的で遅れた、誤った「遺伝子鑑定」の結果によって「有罪」とされ、無実の人が長年獄につながれていたケースが、日本でも近年判明したのは記憶に新しいところでしょう。
これら、司法判断の「不確実性」は「ヒューマンファクター」によるもうひとつ別のリスク、と理解しておく必要があると思います。
より本質的な「放射性物質の不確定性」へ
さて、いま触れた様々の事柄のどれひとつとして、放射性物質がその挙動をつかさどられる、量子力学的な不確定性とダイレクトには関わっていません。逆にいうなら、そこまで遡行せずとも、浅い範囲だけの考察だけで、大半の社会的・経済的な問題は考えることができる・・・ような振る舞いもすることができる・・・ということでもあります。
しかし、本当に物事を第一原理から突き詰めて考えるとき、放射性物質の持つ本質的な不確定性、つまり量子力学的な確率が介在する問題を一切抜きにして福島第一原発以降の問題を考えるとすれば、仮に日本が科学における先進国であるとすれば自己欺瞞というべきだし、放射性物質による環境汚染を量子力学抜きに考える社会であれば、科学受容という観点でかなり遅れていると言わねばならないでしょう。
イタリアで全国民の圧倒的な支持によって可決された「脱原発」を「集団ヒステリー」と称した人がいるらしいですね。私は先日、ドイツの責任ある地位の人から「日本で長年にわたって原発を推進してきた政党関係者がこのような発言をしたらしい。日本はこんな愚かな人ですら政治家ができる呆れた国なのか?」と尋ねられ、恥ずかしいけれど事実であること、日本における選挙は芸能人やその子弟が人気取りで票を集めるのが現状の衆愚状態にあり、ローマ帝国末期よりお寒い状況である、と説明せざるを得ませんでした。
一人の日本人として、私は、自分の生まれた国をそのような愚にもつかない社会であって欲しくないと思っています。そのような願いも込めつつ、次回は「シュレーディンガーの猫」と量子力学的な観測の問題に触れてみたいと思います。
(つづく)
このコラムについて
伊東 乾の「常識の源流探訪」
私たちが常識として受け入れていること。その常識はなぜ生まれたのか、生まれる必然があったのかを、ほとんどの人は考えたことがないに違いない。しかし、そのルーツには意外な真実が隠れていることが多い。著名な音楽家として、また東京大学の准教授として世界中に知己の多い伊東乾氏が、その人脈によって得られた価値ある情報を基に、常識の源流を解き明かす。
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著者プロフィール
伊東 乾(いとう・けん)
伊東 乾
1965年生まれ。作曲家=指揮者。ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督。東京大学大学院物理学専攻修士課程、同総合文化研究科博士課程修了。松村禎三、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに学ぶ。2000年より東京大学大学院情報学環助教授(作曲=指揮・情報詩学研究室)、2007年より同准教授。東京藝術大学、慶応義塾大学SFC研究所などでも後進の指導に当たる。基礎研究と演奏創作、教育を横断するプロジェクトを推進。『さよなら、サイレント・ネイビー』(集英社)で物理学科時代の同級生でありオウムのサリン散布実行犯となった豊田亨の入信や死刑求刑にいたる過程を克明に描き、第4回開高健ノンフィクション賞受賞。科学技術政策や教育、倫理の問題にも深い関心を寄せる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)『知識・構造化ミッション』(日経BP)『反骨のコツ』(朝日新聞出版)『日本にノーベル賞が来る理由』(朝日新聞出版)など。
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