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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/12794
政府は早くも、一部を除いて全国の原発の運転を再開する方針を示した。しかし、事故後の混乱を見れば、政府・電力会社に事態の収拾能力が十分に備わっているとはとうてい思われない。
平和でもクリーンでも決してない原発の建設過程
また、万一の場合、原発の運転に関して国民や自治体はどういう権限を持つのか。政府や電力会社は国民に対してどういう責任を持っているのかについても明確に示されていない。こんないい加減な状態で、再開などあり得ないと考えるのが常識だろう。
振り返れば、そもそも原発という巨大プロジェクトが、原子力の平和利用、クリーンエネルギーなどと言われる反面、建設プロセスを見れば、決して“平和”でも“クリーン”でもなかったことが分かる。
この点についての検証、反省がまず先であることを、浜岡原発をめぐる1980年代の報道と出版物を例に取って示したい。
いまから31年前、1980年10月10日、毎日新聞の社会面(東京本社発行、12版)のトップに、「浜岡原発岩盤の強度」「数値操作の疑い」という見出しの記事が掲載された。
当時すでに建設されている浜岡原発1、2号機の設置許可申請時に、岩盤の強度を示すデータを意図的に操作した疑いがあるという専門家の指摘をもとに、記事は、結果として浜岡原発の耐震性に問題ありと警告を投げかけた。
浜岡原発の安全性を徹底調査した唯一の記者
当時、私は浜岡原発のある静岡県の毎日新聞静岡支局に赴任して半年ばかりの新米記者だった。記事は原発や環境問題などに取り組む支局の先輩記者が書いたものだった。
当時の毎日新聞静岡支局は、他の新聞社の静岡支局、あるいは同じ毎日新聞の他の地方支局とも違って、よく言えば記者たちは個性的で自由に独自のテーマを熱心に追うところがあった。が、悪く言えば他社が絶対に落とさないようなネタを取りこぼしたりする、統制の取れていない集団でもあった。
先の記事は、この支局の強みであり1つのテーマを掘り下げる記者の個性と力量が示された例だった。この記事をはじめ東海大地震との関係で、浜岡原発の地震対策などについては、毎日新聞、というよりこの記者だけが先行していた。
前年の79年3月に起きたスリーマイル島原子力発電所事故の記憶も新しく、浜岡原発についても反対運動は、革新政党や団体、学者らを含む市民グループらによってわき起こっていた。
翌年には、建設計画のある3号機増設にあたって地元住民の意見を聞くための第2次公開ヒアリング(主催・原子力安全委員会)が開かれ、これを阻止しようとする市民グループなどを機動隊が実力で排除するという事態にも発展、紙面で大きく扱われた。
公開ヒアリングという名の建設推進プロセス
なぜただの公開ヒアリングがこれほど揉めるのかと言えば、原発建設のプロセスの中で必要な手続きの1つであり、にもかかわらずほとんどセレモニーと化しているからである。
つまりこのヒアリングで十分な討議が行われることなどなく、建設計画への流れが大きく変わることなどほとんどあり得ないのである。
したがって、ヒアリングが開かれてしまったら、それだけで一歩前進になってしまうという危惧があり、反原発派は実力阻止という戦略に出たのだ。
問題に深く関わっていない一般の人はこうした事実を知らないから「ヒアリングを開いて意見を言えばいいのに」と思うだろうが、原発問題に限らず国が関与して地元自治体と産業界が推進するプロジェクト(ダム開発や高速道路建設、大型店舗建設など)では、この種のヒアリングのように一般住民からの意見を反映させるプロセスは、少なくとも当時は機能していなかった。
この公開ヒアリングでも、質問者は地元の“名士”ばかりで、国=通産省(当時)からは専門用語を多用した説明が目立ち、この場で建設的な批判が受け入れられる余地などなかった。
原発建設に断固反対した三重県の芦浜地区
とにかく、はじめに建設ありきで、稼働中の原発の事故などよほどの問題や反対がなければ、推進側の計画を止めることはむずかしいのが現実だった。
しかし、中には激しい反対運動によって原発計画を退けた例もある。三重県度会郡の南島町(現南伊勢町)と紀勢町(現大紀町)にまたがる芦浜地区に計画された中部電力芦浜原発がその1つだ。
地元の猛反対によって中部電力はこれをあきらめ、次に建設候補地として白羽の矢を立てたのが、静岡県小笠郡浜岡町(現在の御前崎市)だったのだ。
浜岡でもほかのどこの原発候補地とも同じように、漁協や市民団体、革新系政党、団体などを中心に反対運動は巻き起こる。しかしその一方で、この町はかつて開発から取り残されたという苦い経験があった。
その一例が、明治期に東海道線の新設を拒否したことだった。当初、浜岡町はそのルートに入っていたのだが、「あんな煙が出るものが来たら大変だ」などと反対。このため鉄道は敷かれなかった。それもあって原発という地域開発を受け入れる潜在的な願望はあった。
東海道線を断った苦い思いが原発を呼び込む
最終的には、実質的に最も大きな建設の障害となる漁業権を持つ漁協が原発を受け入れることで話は進み、1970年代に1号機、2号機が相次いで建設されていった。
そしてさらに3号機へと増設されていくが、そのプロセスは先に記したように、「はじめに建設ありき」で、反原発の動きをかわすために正当性をいかに形作っていくかという方法に終始していった。
こうした建設の過程がいかに非民主的で公正ではなかったか。それを改めて思い知ったのは、冒頭の記事を書いた記者、森薫樹氏が1982年に出版した『原発の町から』(田畑書店)を読んでのことである。
すでに絶版になっていて、今回の政府の浜岡原発停止要請のあとも残念ながら話題になっていないようだ。だが、そもそもこの原発ができるまでに様々な問題点があったことを確認するうえで、改めて読まれるべきだろう。
本書は、予想される東海大地震との関係から浜岡原発の安全性について、地質に関する具体的な調査結果をもとに問題ありと指摘。断層の存在、岩盤の強度不足などを挙げ、中電側の調査方法、結果について疑問を呈する。
莫大なカネの力に抗えない過疎地の悲劇
また、電源開発促進税法などいわゆる電源三法に基づく地元への交付金や電力会社からの地域への協力金、寄付金、“裏金”や漁業補償金、農地の買収などで見せるカネの力で、自治体や住民が持つ開発願望や金銭的な見返りへの要望を吸収し、建設容認へと地元を懐柔していくさまを伝える。
こうして見ると、高度な科学技術に支えられ、設置に至る法制度も立派に整っている原発建設が、実際の建設過程を見れば、いかに目的のために整合性を持たせた科学や、カネの力と人間の欲に支えられてきたかが分かる。恐らく他の地方の原発建設のプロセスも大きくは変わらないだろう。
過疎地に目をつけカネの力で説得させる、これをとてつもない財力のある電力会社が国の支援のもとに推進する。小さな町村などよほどのことがなければ“抵抗”できないだろう。
そして自治体は原発なしでは財政的に困窮する“シャブ漬け”に陥る。その構図は、カネに困った人間に高利で金を貸すヤミ金とたいして変わりはない。
いま、我々の安全性や代替エネルギーの可能性に鑑みて、原発の存廃を議論しているが、そもそもこの原発建設というものが、いかに不適切な過程で作られたものかを反省することから始める必要がある。
原発が地元に落としたカネは地元を本当に豊かにしたのか
いったん事故が起きれば、電力会社は責任を負いきれないし、また、原発を受け入れ恩恵を受けた自治体だけが被害に遭うわけではない。それほど危険をはらむ存在である原発という巨大プロジェクトが、こんなプロセスで作られることにそもそも問題があるのだ。
今回の事故を見て分かるように、電力会社自体、批判に耳を貸してこなかったことを後悔しているのではないだろうか。森氏は本書の中で、原発という巨大エネルギープロジェクトが抱える問題をこう数え上げている。
「膨大な量の放射性物質を含んだ核廃棄物の処理問題、耐震性など原発の安全性の問題をはじめ、環境への放射能の放出や労働者被曝の問題、道路や学校が整備されていく反面、地域社会の監視体制や社会管理システムが徹底化して、ファッショ的状況さえ生み出していく問題、さらには原発に支えられた社会の『豊かさ』は果たして誰のための、そしてなんのための豊かさなのかという私たちの生き方の根本にかかわってくる問題などなど、ざっと考えてみただけでも簡単に答えを出したり解決したりできそうにない難問が並ぶ」
繰り返すが、本書が出版されたのは1982年である。我々が真摯に向き合ってきただろうかと反省すべきここに挙げられた問題は、残念ながらいま現実として我々の前にある。
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