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6・19 すべての原発とめよう  怒りのフクシマ大行動  記録映画 (4)
http://www.asyura2.com/11/genpatu13/msg/227.html
投稿者 愚民党 日時 2011 年 6 月 22 日 06:10:13: ogcGl0q1DMbpk
 



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 事故は避けられないものであったのか。直接的には3月11日の地震と津波によって原発事故は発生した。だが、警鐘が皆無だったのかといえば、決してそうではない。繰り返し、具体的に指摘されていたのだ。なぜそれが届かなかったのか。

 3.11以前、電力会社の政治力と潤沢な広告費を背景に、大手メディアには原子力に否定的な言説は登場しなくなっていた。原子力ルネサンス、原子力立国──今となっては妄想と評する以外にないコピーが大手を振るって闊歩し、異論は完全に排除されていた。原子力とエネルギー政策をめぐる、この壮大で空虚な知的光景と、異論を封じ込めてきた非民主的な構造こそが、福島第一原発事故の原因である。

いいだ・てつなり 環境エネルギー政策研究所 (ISEP) 所長。自然エネルギー政策研究。1959年、山口県生まれ。主著に『北欧のエネルギーデモクラシー』、共著に『グリーン・ニューディール──環境投資は世界経済を救えるか』(NHK出版) など。近刊に『今こそ、エネルギーシフト』(岩波ブックレット)

http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/07/034.html


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わたしの母の名前はテル。会津藩の白河で産まれた母。

 テルとミツ子の父は治之助、母はサヨと云った。サヨは広島県広島市安佐にある鎌倉寺
山の麓、有留村にある小さな寺の娘であった。治之助は広島県呉の造船会社で働く技術者
の息子だった。治之助の父は有留村の出身だった。治之助とサヨは広島で見合い結婚をし
た。治之助は石炭の鉱山を発見する技術者だった。治之助は、十二人の子供をサヨに産ま
せた。ミツ子は八番目、テルは九番目の娘であった。家族は治之助の赴任で、各地の鉱山
へ転々と移動した。テルが産まれたのは大正九(一九二〇)年二月、しんしんと雪ふる福
島県西白河郡金山村の白川炭坑社宅だった。外からは酒を飲んで歌う坑夫たちの常盤炭坑
節が聞こえてきた。

 テルが産まれてすぐ、治之助は白川炭坑の東京本社に戻された。治之助の家族は日暮里
の貸家に住むことになった。テルは日暮里の高等小学校を卒業すると、姉のミツ子のよう
に洋裁店の針子として働いた。ミツ子もテルも二十歳を過ぎたが、若い男は皆、戦争に駆
り出されて恋の縁もなかった。昭和二十年三月十日の東京大空襲で江東区・墨田区・台東
区が炎上し、多くの犠牲者が出た。治之助は「お前たちは疎開した方がいい」と、娘たち
を栃木県太田原の佐久山の薬局に嫁いでいる長女のヤエのところに疎開させた。イネ、ミ
ツ子、テルが佐久山に疎開していった。東京に残った治之助とサヨは五月二十四〜二十五
日にかけての東京大空襲の爆撃で死んだ。ヤエの夫も南太平洋戦線で戦死した。

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西会津 春先

死者を囲み青春を歌った友らは嗚咽上げ涙する

なごり雪よ 誰のためにふる

あなたを担ぐ 麻で編んだ会津武士衣装 

悲しみ映す 黒い道 白い雪

森田童子の歌を始めて知ったのは1978年4月だった。


死者が根元で眠る桜の花はなごり雪で凍りついた。


1978年4月に入り、わたしの友人、長谷川さんが死んだ。
胃がんである。日本革命運動の闘士だった。
彼は大企業の電器会社の工場で働いていた。彼は青年組織の
指導者であった。だからいつもしめつけが工場内では
厳しかったのである。1977年反動の季節、日本列島は
変革をきらい、復古が反復していた。あらゆる組織は
つぶされようとしていた。わたしはふるさとでの運動から
逃亡した。長谷川さんを残し。


その長谷川さんが病気で倒れ、1978年正月、栃木県
矢板市の塩谷病院に見舞いにいった。部屋から出るとき
彼の情念と執念がこもった視線に刺された。
「おまえは逃亡したのだ」と。


そして4月最初、工場の同志から電話がかかってきた。
「長谷川さんが亡くなった、葬式が長谷川さんのふるさと
である西会津である、待ち合わせは、明日の朝8時、
塩谷病院玄関前で」わたしはすぐ電車に乗った。上野駅近く
の深夜喫茶で東北本線下りの始発を待つ。


矢板駅についた。塩谷病院玄関前で待っている。まだ誰もきていない。
病院の前の道、高校生の頃新聞配達のため毎日、
自転車で販売所に通った道だった。
やがて恵子さんがあらわれた。恵子さんはわたしの幼なじみである。
東京から敗北して戻ったのは1974年だったが、うたごえ喫茶にいったとき彼女がいた。
そして長谷川さんと出会う。音楽が生きがいの人だった。
彼のギタ−伴奏に合わせ、おもいきっり、喫茶店で歌うのある。

雪が降ってきた。なごり雪である。やがて友人たちが集合してきた。
10人くらいである。それぞれ分散して車に乗る。西会津をめざす。
国道四号線を福島へ北上するのである。

長谷川さんの家に着いたのは昼頃である。葬式にはまにあった。
工場の党員同志たちも着ていた。
「この子は、みなさんに何か迷惑をかけていませんでしたか?
お金をかりたとか、あればいますぐ言ってくさい」
そう長谷川さんのお母さんが言った。会津武士の厳格さがあった。
「長谷川さんはそういう人ではありませんでした、お母さん」
山梨出身の工場労働者同志が言ってくれて、わたしたちは救われた。


冠の前で、青春を歌った、友らは嗚咽をあげ涙する。
わたしはバランスが崩れる、自分の精神と身体を保守するに精一杯だった。
わたしは、長谷川さんに謝るのに精一杯だった。


やがて長谷川さんは墓へと運びだされる。
雪はふるふる。雪に積もる白い西会津の村。雪が溶ける
黒いアスファルト道路。麻であんだ武士衣裳、村人男たち、
長谷川さんのお兄さんが冠を運ぶ。男たちは野辺送りの唄をうたいながら
裸足である。会津戦争で敗北した会津の死者たちは、薩長官軍
によって埋葬することを禁じられた。死者を愚弄した明治維新官軍
をいまだ会津はいまだ許していない。歴史は雪に埋もれている
に過ぎない。だから雪が溶けた黒い道を男たちは裸足で
共同体の青春途上の無念な若き死者を弔うのであろうか?


なごり雪よ誰のために降る


長谷川さんは土深く埋葬される。わたしたちは村人から
教えられる。土を手で墓のなかに入れてかぶせてあげるんだよ。
わたしは一握の土を手に取る。凍った土である。
長谷川さん体が入った冠に投げる。


「暖かいお茶を飲んでいきなさい」
近くの家で、わたしたちはこたつに入れてもらい、お茶をよばれた。みんな沈黙の悲しみにあった。

わたしたちは長谷川さんの村から帰る、隣の県へ。西会津から会津若松へ、そして猪苗代湖へ。
雪は激しくなってきた。郡山に入るとますます激しく。わたしは車の窓からただ路上の街灯をみていた。
雪が舞う。白河を過ぎ、国境へ入る。一台の車がとうとう動かなくなったので、おいていく。

車から歌が流れていた。
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ビラビタール 森田童子

悲しい時はほほを寄せて
寂しい時は胸を合わせて
ただ二人は息をこらえて
虫の音を聞いていました
そんな寂しい夏の終りでした

悲しい時はほほを寄せて
寂しい時は胸を合わせて
ただ二人は目を閉じて
眠るのを待っていました
そんな寂しい愛の形でした

悲しい時はほほを寄せて
寂しい時は胸を合わせて
ただふたりは夜のふちへ
ふるえて旅立つのでした
そんな寂しい ふたりの始まりでした
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わたしはその歌を聴きながら目を閉じていた。
川が流れている。彼岸には夏草の香り。
長い髪の少年と少女が黙って川を見ている。
語りえない内なる優しさは抒情の裏側にある現実の重みだった。

「誰の歌?」
わたしは運転している友に聞いた。
「森田童子」
友は答えた。
長谷川さんとの告別を葬式で確認したわたしたちは重く深い
悲しみの深淵に漂流していた。
わたしはその歌い手の名前をすぐ忘れてしまった。


わたしは黒磯駅でおろしてもらった。東京のアニメ−ション会社の職場に戻っても、わたしは沈黙の
悲しみにいた。言葉少ない日々が続いた。
あのときのあの歌は誰が歌った歌なのだろう? わたしはその歌い手を探していた精神の漂流者だった。

ちいさい仕事場にはいつも音楽がカセットデッキから流れていた。
それは同僚が日曜日にNHKFMの音楽番組を録音したテープだった。

「忘れ物を取りに教室に戻ったら誰もいませんでした。窓から午後の日差しがさしていました。
わたしはしばらくひとりたたずんでいました。森田童子さんの<海を見たいと思った>をお願いします」
女子高校生のリクエストをアナウンサーが読み上げ<海を見たいと思った>が流れてきた。

森田童子、その歌い手の名前はわたしの心に深く刻印された。
ようやく探し当てたと思った。季節は陽光の五月になろうとしている。
昼休み、池上本門寺まで散歩した。
並木道の樹木、若葉たちは風に踊っていた。わたしは25歳の逃亡者だった。

27年前の季節。
真っ白に積もった重たい雪のなかで、芽ばえている若葉は
五月になると街を彩る。

わたしは青春途上の死者たちを今でも忘れてはいない。
その記憶の案内人こそ森田童子である。

個人による個人のための個人へ
表現はこの世界に現有するもうひとりの自分へと
向かっていく。それが身体の糸である。

そして表現とは
いかなる時代になろうとも、何十年が過ぎようと
人の営みのなかでくりかえしくりかえし反復していく。

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 原子力発電とは、ウランの核分裂反応を利用した蒸気機関である。今日標準的になった100万kWといわれる原発では1年間に1トンのウランを核分裂させる。広島原爆で核分裂したウランは800gであったから、優に1000倍を超える。原発は機械であり、事故を起こさない機械はない。原発を動かしているのは人間で、間違いを犯さない人間はいない。

電気を多量に消費するのは都会だが、万一の事故のことを考えれば、原発を都会に立てることはできなかった。そこで、原発は過疎地に押し付けられ、厖大な電気を使う豊かな生活のためには「必要悪」と言われてきた。私は40年間、いつか破局的な事故が起きると警告してきた。何とか破局的な事故が起きる前に原発を止めたいと願って来た。しかし、福島原発事故は起きてしまった。現在進行中の事故を収束に向かわせるため、今後、多くの作業員が被曝する。周辺の多くの人々も、歴史を刻んできた土地を捨てて避難するか、被曝を覚悟で住み続けるか選択するしかない。それを思うと、言葉にできない無念さがある。

 これほどの悲劇を前にまだ原発が運転され続けていることを、信じがたい気持ちで私は眺める。世論調査では、停電すると困るので原発は必要とする人が多数いると言う。もし、享楽的生活を続けるために電気が必要と言うのであれば、原発は是非都会に作って欲しい。それができないのであれば、電気が足りようと足りまいと原発は即刻全廃すべきものと私は思う。

小出裕章 (京都大学原子炉実験所)

http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/06/052msg.html

---------------

 情報とマネーとエネルギーの三つは、現代文明に欠かせないある種の「メディア」(媒介物)の役割を果たしている。見えにくく意識しにくいが故に、その有り様がその国や社会の政治と民主主義の成熟度や変化を表象している。

 情報は、かつての情報公開の段階から、今やインターネットやフェイスブック、ウィキリークスまで生まれ、誰もが共有し、受け手であると同時に発信者という方向に大きく変わってきた。マネーも、リーマンショックやギリシアの通貨危機が起きて、ローカルに主体的な管理が意識されてきた。

 その二つに比べ、エネルギーは「国策」として国民に閉じられてきた。その民主化の遅れが、福島第一原発事故という歴史的な大事故を招いた真因の一つであることが、その事故によって白日に晒された。

 地域の自立とエネルギーの主権を私たちが取り戻すことが必要であり、今やそれを可能とする自然エネルギーという選択肢がある。

飯田哲也 (環境エネルギー政策研究所)

http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/07/034msg.html

 

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コメント
 
01. 愚民党 2011年6月22日 06:29:37: ogcGl0q1DMbpk : Rn4Ke6YX5U
<6・19 すべての原発とめよう  怒りのフクシマ大行動  記録映画>

ですが時間がかかります。

<6・11 新宿 記録映画>のように、「ファォローアップ投稿フォーム」を活用にして、一挙に下降していくひとつの大きなかたまりとして投稿できなくなりました。

自分で書く文章、転載文章も考えねばならず、わたしの個人史における気持ち
会津藩と東北への思いが強く、できた時点で投稿していくことになります。

ご理解のほどをよろしくお願いします。 


02. 愚民党 2011年6月22日 08:38:58: ogcGl0q1DMbpk : Rn4Ke6YX5U
福島市で反原発集会 1500人 「福島返せ」  共同通信
http://www.asyura2.com/11/genpatu13/msg/133.html

ここで読者様からコメントをいただきました。

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03. 2011年6月22日 01:02:55: 5DDlEaqU2o

全国から応援しなければ。
現地の人たちの発言・要求など聞きたいところです。
映像を期待しています。
発言のある集会映像もアップしてもらうといいのですが。

------------------------

わたしは基本的に集会・デモとは、来られなかった人々、参加できなかった人々のために、参加者が外へ表現していく内容であると認識しております。

集会発言の映像も必要であると思いました。
集会発言の方々が発信する言葉のテキスト起こしも必要であると思いました。

集会発言を撮影するためには、デジタルムービーが2台必要です。
貧乏人生活のわたしには買えません。

集会発言を記録するためには、録音機器があれば十分です。
それを後日、テキストに起こせばいいのですが、その時間がわたしにはありません。

現在、わたしたちは巨大新聞・巨大テレビ・マスメディアとの最終戦争に突入しております。

記者クラブとの妥協なき最終戦争に突入しております。

誰でもが記録し全日本全世界に発信していく民衆ジャーナリストになれます。

今後、集会発言をどう記録するかについて、わたしは知恵とアイデアを模索してみます。

記者クラブ・マスメディアの回路は国民を洗脳するために閉じられておりますが、草の根民衆表現の回路はつねに外へ開かれております。


03. 2011年6月22日 11:51:49: JXTT2GqKHE
「驕りの原発, 怒りのフクシマ」
をスローガンにすればどうでしょう。

04. 愚民党 2011年6月22日 12:57:48: ogcGl0q1DMbpk : Rn4Ke6YX5U
03番様

「驕りの原発, 怒りのフクシマ」
素晴らしいスローガンだと思いました。

記録動画は(7)までつくりましたので

(8)から、「驕りの原発, 怒りのフクシマ」
は、英語に自動翻訳し、映像の中に入れたいと思います。

ありがとうございました。(8)までアップーロードして
阿修羅に投稿できるのは時間がかかりますが、
よろしくお願いします。


05. 2011年6月22日 14:40:40: 8xJ0yt5j0A
反原発ソングは「ふるさと」で決まり!

ちょっとスロー過ぎるけどBGMの「ふるさと」良いですね。
6.11の新宿でも歌ってたね(こころちゃん?)。

脱原発ソングは色々替え歌があるけど、こじつけみたいでどれもしっくり来ないし、聞き取れない。
デモの歌は誰でも知っているこの童謡「故郷」でどうでしょう。
誰でも歌える、沿道の人も歌える。

生き物たちが跳びはね、子どもたちが野山で遊ぶ。清らかな水。
「美しい国」ではなく「美しい郷土、国土」
汚染された村にいつか帰れる日が来る事を祈念して

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)に在(い)ます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷


06. 2011年6月22日 17:50:32: EGaQ73B5yp
反原発デモも、その他のデモでもそうだけど、
デモで歌われる唄には本当に違和感がある。

清志郎の唄も斉藤和義の「ずっとウソだった」も私は好きだけれども、
それは、シンガーソングライターの批判的・風刺的な作風に共感するからであって、
それをデモでみんなで合唱するってのは、やっぱり気持ち悪い。

この気持ち悪さは、たとえば「愛のむきだし」って映画のなかで
カルト教団の若者達が、合宿や集会で、ゆらゆら帝国の「空洞です」を
合唱している情景の、その薄気味悪さに通じるものだ。

「ふるさと」という唱歌も、……というより唱歌というのは
ある世代以上の人々には、それなりに懐かしく、心の琴線に触れる楽曲では
あるけれども、NHKの「みんなのうた」みたいなもので、近代日本の公教育の文脈で
捏造された、いつわりの愛郷心もどきや、いつわりの日本人の心の歌だ。

これと同じくらい最近、気持ち悪いのは、全国の伝統芸能が、原宿竹の子族の
成れの果ての「よさこいソーラン」によって駆逐され、日本の歌謡演芸が
韓流のジャリタレ奴隷労働によって駆逐され、あるいはフジサンケイ秋元康の
キャバクラ48商法によって駆逐されつつある状況である。

ふつうの歌を、なんでも島唄ふうの発声で歌う「蓄膿症ミュージック」の流行も、
これらと同じくらい気持ち悪い。

なんで気持ち悪い商業音楽や商業イベントばかりが日本を覆い尽くして
文化を窒息状況にしているのか?

それは、源流となる演芸や唄を、いまだに無視し、ないがしろにしているからだ。

原発反対デモに、いちどでも福島現地の民謡が出てきたか?

わたしは福島の人間ではないが、新相馬節を聞くと、福島の風景や
望郷の念が自然とイメージできて、とても切ない気持ちになる。
今回の災害では、岩手も大変な被災をこうむったが、南部牛追い唄を
聞くと、被災地の人々の悲しみに、すこしでも共感できるような心になる。

今回、地震と津波と原発災害で被災した東日本は、民謡の宝庫だ。
民謡は、土地に根差した産業活動・労働・共同社会のなかで育まれ
結晶した、地域の人々の心のエッセンスだ。そして日本のすべての芸能の
ルーツミュージックの、重要な源泉であり(他の源泉は皇族や帰属や武士
ボスたちが珍重した、舶来の芸能や音楽なのだけど)、まさに人民の芸能だ。

日本で生まれ育った者なら、ブルースやソウルミュージックを追求していけば、
日本の民謡に漂着せざるをえない。それぞれの風土や文化圏で育った人々には
それぞれのルーツミュージックがある。 ……それが今、商業圧力で抹殺され
ようとしている。

小学校唱歌として大正時代につくられた学校ソングの「ふるさと」もいいけどさ、
なんで反原発デモで、被災地の民謡を歌わないんだ? 

新相馬節も、南部牛追い唄も、宮城県の長持唄も、田畑での労働や、牛や馬を
相手にした生活のなかで生まれた歌だから、当然のったりしているよ。
当世のセコセコした家畜日本人のリズムと比べると、のんびりしすぎている。

だからこそ、大人数でのったりと街中をあるく当世の反原発デモにはぴったり
じゃないか。 

従来の、学生集団や労働組合による「戦闘的」デモは、ぶらぶら歩きではなく、
軍隊の行進(マーチ)や、さらにいえば、梯団を組んでそのまま警官隊に
ぶつかることを想定した「戦闘ロボット軍団」としてのデモが多かった。
だから、唄も、インターナショナルやワルシャワ労働歌など、勇ましくて
軍隊のマーチのようなリズムの行進曲だった。これはデモの性格上、当然の
帰結であった。 しかし、現在の反原発の市街ぶらぶら大行進のばあいは、
それにふさわしい歌があっていいはずだ。一定以上の年齢層なら「ふるさと」
のような唱歌は多くの人が知っている、というのが世の通念だろう。
(だけど日本の正式な教育を受けてこなかった人たちは、年配の世代でも、
この歌を知らないかもしれない。典型的な例として、在日外国人や、最近海外
から引き揚げてきた人々や、外国に生まれ育った帰国子女については、唱歌を
「当然しっている」とは限らない。)

唱歌だからみんなが知っている、というのは一種の排外主義的な思い込みだ。
だから、いっそのこと、この際みんなで東日本の民謡を覚えて、デモでうたいながら、
そして民謡にあわせて鈴などを鳴らしながら、しんみりと、葬送の大行列のように、
原発で殺された牛や馬たちのぶんの怒りや悲しみも代弁しながら、悲しみの
こもった反原発デモをしてもいいんじゃないか?

浅草サンバカーニバルじゃあるまいし、サウンドデモなんて馬鹿馬鹿しい。
サウンド流して踊りたいなら、新宿駅の広場で、その目的だけで強行せよ!
60年代末の新宿フォークゲリラのような騒乱と祝祭を、歌や踊りという目的
だけのために、戦闘的に創り出せばいいのだ。 それはそれ、これはこれで、
反原発デモを、イカすバンド天国にする必要はない。


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