http://www.asyura2.com/11/genpatu13/msg/227.html
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事故は避けられないものであったのか。直接的には3月11日の地震と津波によって原発事故は発生した。だが、警鐘が皆無だったのかといえば、決してそうではない。繰り返し、具体的に指摘されていたのだ。なぜそれが届かなかったのか。
3.11以前、電力会社の政治力と潤沢な広告費を背景に、大手メディアには原子力に否定的な言説は登場しなくなっていた。原子力ルネサンス、原子力立国──今となっては妄想と評する以外にないコピーが大手を振るって闊歩し、異論は完全に排除されていた。原子力とエネルギー政策をめぐる、この壮大で空虚な知的光景と、異論を封じ込めてきた非民主的な構造こそが、福島第一原発事故の原因である。
いいだ・てつなり 環境エネルギー政策研究所 (ISEP) 所長。自然エネルギー政策研究。1959年、山口県生まれ。主著に『北欧のエネルギーデモクラシー』、共著に『グリーン・ニューディール──環境投資は世界経済を救えるか』(NHK出版) など。近刊に『今こそ、エネルギーシフト』(岩波ブックレット)
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/07/034.html
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わたしの母の名前はテル。会津藩の白河で産まれた母。
テルとミツ子の父は治之助、母はサヨと云った。サヨは広島県広島市安佐にある鎌倉寺
山の麓、有留村にある小さな寺の娘であった。治之助は広島県呉の造船会社で働く技術者
の息子だった。治之助の父は有留村の出身だった。治之助とサヨは広島で見合い結婚をし
た。治之助は石炭の鉱山を発見する技術者だった。治之助は、十二人の子供をサヨに産ま
せた。ミツ子は八番目、テルは九番目の娘であった。家族は治之助の赴任で、各地の鉱山
へ転々と移動した。テルが産まれたのは大正九(一九二〇)年二月、しんしんと雪ふる福
島県西白河郡金山村の白川炭坑社宅だった。外からは酒を飲んで歌う坑夫たちの常盤炭坑
節が聞こえてきた。
テルが産まれてすぐ、治之助は白川炭坑の東京本社に戻された。治之助の家族は日暮里
の貸家に住むことになった。テルは日暮里の高等小学校を卒業すると、姉のミツ子のよう
に洋裁店の針子として働いた。ミツ子もテルも二十歳を過ぎたが、若い男は皆、戦争に駆
り出されて恋の縁もなかった。昭和二十年三月十日の東京大空襲で江東区・墨田区・台東
区が炎上し、多くの犠牲者が出た。治之助は「お前たちは疎開した方がいい」と、娘たち
を栃木県太田原の佐久山の薬局に嫁いでいる長女のヤエのところに疎開させた。イネ、ミ
ツ子、テルが佐久山に疎開していった。東京に残った治之助とサヨは五月二十四〜二十五
日にかけての東京大空襲の爆撃で死んだ。ヤエの夫も南太平洋戦線で戦死した。
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西会津 春先
死者を囲み青春を歌った友らは嗚咽上げ涙する
なごり雪よ 誰のためにふる
あなたを担ぐ 麻で編んだ会津武士衣装
悲しみ映す 黒い道 白い雪
森田童子の歌を始めて知ったのは1978年4月だった。
死者が根元で眠る桜の花はなごり雪で凍りついた。
1978年4月に入り、わたしの友人、長谷川さんが死んだ。
胃がんである。日本革命運動の闘士だった。
彼は大企業の電器会社の工場で働いていた。彼は青年組織の
指導者であった。だからいつもしめつけが工場内では
厳しかったのである。1977年反動の季節、日本列島は
変革をきらい、復古が反復していた。あらゆる組織は
つぶされようとしていた。わたしはふるさとでの運動から
逃亡した。長谷川さんを残し。
その長谷川さんが病気で倒れ、1978年正月、栃木県
矢板市の塩谷病院に見舞いにいった。部屋から出るとき
彼の情念と執念がこもった視線に刺された。
「おまえは逃亡したのだ」と。
そして4月最初、工場の同志から電話がかかってきた。
「長谷川さんが亡くなった、葬式が長谷川さんのふるさと
である西会津である、待ち合わせは、明日の朝8時、
塩谷病院玄関前で」わたしはすぐ電車に乗った。上野駅近く
の深夜喫茶で東北本線下りの始発を待つ。
矢板駅についた。塩谷病院玄関前で待っている。まだ誰もきていない。
病院の前の道、高校生の頃新聞配達のため毎日、
自転車で販売所に通った道だった。
やがて恵子さんがあらわれた。恵子さんはわたしの幼なじみである。
東京から敗北して戻ったのは1974年だったが、うたごえ喫茶にいったとき彼女がいた。
そして長谷川さんと出会う。音楽が生きがいの人だった。
彼のギタ−伴奏に合わせ、おもいきっり、喫茶店で歌うのある。
雪が降ってきた。なごり雪である。やがて友人たちが集合してきた。
10人くらいである。それぞれ分散して車に乗る。西会津をめざす。
国道四号線を福島へ北上するのである。
長谷川さんの家に着いたのは昼頃である。葬式にはまにあった。
工場の党員同志たちも着ていた。
「この子は、みなさんに何か迷惑をかけていませんでしたか?
お金をかりたとか、あればいますぐ言ってくさい」
そう長谷川さんのお母さんが言った。会津武士の厳格さがあった。
「長谷川さんはそういう人ではありませんでした、お母さん」
山梨出身の工場労働者同志が言ってくれて、わたしたちは救われた。
冠の前で、青春を歌った、友らは嗚咽をあげ涙する。
わたしはバランスが崩れる、自分の精神と身体を保守するに精一杯だった。
わたしは、長谷川さんに謝るのに精一杯だった。
やがて長谷川さんは墓へと運びだされる。
雪はふるふる。雪に積もる白い西会津の村。雪が溶ける
黒いアスファルト道路。麻であんだ武士衣裳、村人男たち、
長谷川さんのお兄さんが冠を運ぶ。男たちは野辺送りの唄をうたいながら
裸足である。会津戦争で敗北した会津の死者たちは、薩長官軍
によって埋葬することを禁じられた。死者を愚弄した明治維新官軍
をいまだ会津はいまだ許していない。歴史は雪に埋もれている
に過ぎない。だから雪が溶けた黒い道を男たちは裸足で
共同体の青春途上の無念な若き死者を弔うのであろうか?
なごり雪よ誰のために降る
長谷川さんは土深く埋葬される。わたしたちは村人から
教えられる。土を手で墓のなかに入れてかぶせてあげるんだよ。
わたしは一握の土を手に取る。凍った土である。
長谷川さん体が入った冠に投げる。
「暖かいお茶を飲んでいきなさい」
近くの家で、わたしたちはこたつに入れてもらい、お茶をよばれた。みんな沈黙の悲しみにあった。
わたしたちは長谷川さんの村から帰る、隣の県へ。西会津から会津若松へ、そして猪苗代湖へ。
雪は激しくなってきた。郡山に入るとますます激しく。わたしは車の窓からただ路上の街灯をみていた。
雪が舞う。白河を過ぎ、国境へ入る。一台の車がとうとう動かなくなったので、おいていく。
車から歌が流れていた。
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ビラビタール 森田童子
悲しい時はほほを寄せて
寂しい時は胸を合わせて
ただ二人は息をこらえて
虫の音を聞いていました
そんな寂しい夏の終りでした
悲しい時はほほを寄せて
寂しい時は胸を合わせて
ただ二人は目を閉じて
眠るのを待っていました
そんな寂しい愛の形でした
悲しい時はほほを寄せて
寂しい時は胸を合わせて
ただふたりは夜のふちへ
ふるえて旅立つのでした
そんな寂しい ふたりの始まりでした
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わたしはその歌を聴きながら目を閉じていた。
川が流れている。彼岸には夏草の香り。
長い髪の少年と少女が黙って川を見ている。
語りえない内なる優しさは抒情の裏側にある現実の重みだった。
「誰の歌?」
わたしは運転している友に聞いた。
「森田童子」
友は答えた。
長谷川さんとの告別を葬式で確認したわたしたちは重く深い
悲しみの深淵に漂流していた。
わたしはその歌い手の名前をすぐ忘れてしまった。
わたしは黒磯駅でおろしてもらった。東京のアニメ−ション会社の職場に戻っても、わたしは沈黙の
悲しみにいた。言葉少ない日々が続いた。
あのときのあの歌は誰が歌った歌なのだろう? わたしはその歌い手を探していた精神の漂流者だった。
ちいさい仕事場にはいつも音楽がカセットデッキから流れていた。
それは同僚が日曜日にNHKFMの音楽番組を録音したテープだった。
「忘れ物を取りに教室に戻ったら誰もいませんでした。窓から午後の日差しがさしていました。
わたしはしばらくひとりたたずんでいました。森田童子さんの<海を見たいと思った>をお願いします」
女子高校生のリクエストをアナウンサーが読み上げ<海を見たいと思った>が流れてきた。
森田童子、その歌い手の名前はわたしの心に深く刻印された。
ようやく探し当てたと思った。季節は陽光の五月になろうとしている。
昼休み、池上本門寺まで散歩した。
並木道の樹木、若葉たちは風に踊っていた。わたしは25歳の逃亡者だった。
27年前の季節。
真っ白に積もった重たい雪のなかで、芽ばえている若葉は
五月になると街を彩る。
わたしは青春途上の死者たちを今でも忘れてはいない。
その記憶の案内人こそ森田童子である。
個人による個人のための個人へ
表現はこの世界に現有するもうひとりの自分へと
向かっていく。それが身体の糸である。
そして表現とは
いかなる時代になろうとも、何十年が過ぎようと
人の営みのなかでくりかえしくりかえし反復していく。
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原子力発電とは、ウランの核分裂反応を利用した蒸気機関である。今日標準的になった100万kWといわれる原発では1年間に1トンのウランを核分裂させる。広島原爆で核分裂したウランは800gであったから、優に1000倍を超える。原発は機械であり、事故を起こさない機械はない。原発を動かしているのは人間で、間違いを犯さない人間はいない。
電気を多量に消費するのは都会だが、万一の事故のことを考えれば、原発を都会に立てることはできなかった。そこで、原発は過疎地に押し付けられ、厖大な電気を使う豊かな生活のためには「必要悪」と言われてきた。私は40年間、いつか破局的な事故が起きると警告してきた。何とか破局的な事故が起きる前に原発を止めたいと願って来た。しかし、福島原発事故は起きてしまった。現在進行中の事故を収束に向かわせるため、今後、多くの作業員が被曝する。周辺の多くの人々も、歴史を刻んできた土地を捨てて避難するか、被曝を覚悟で住み続けるか選択するしかない。それを思うと、言葉にできない無念さがある。
これほどの悲劇を前にまだ原発が運転され続けていることを、信じがたい気持ちで私は眺める。世論調査では、停電すると困るので原発は必要とする人が多数いると言う。もし、享楽的生活を続けるために電気が必要と言うのであれば、原発は是非都会に作って欲しい。それができないのであれば、電気が足りようと足りまいと原発は即刻全廃すべきものと私は思う。
小出裕章 (京都大学原子炉実験所)
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/06/052msg.html
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情報とマネーとエネルギーの三つは、現代文明に欠かせないある種の「メディア」(媒介物)の役割を果たしている。見えにくく意識しにくいが故に、その有り様がその国や社会の政治と民主主義の成熟度や変化を表象している。
情報は、かつての情報公開の段階から、今やインターネットやフェイスブック、ウィキリークスまで生まれ、誰もが共有し、受け手であると同時に発信者という方向に大きく変わってきた。マネーも、リーマンショックやギリシアの通貨危機が起きて、ローカルに主体的な管理が意識されてきた。
その二つに比べ、エネルギーは「国策」として国民に閉じられてきた。その民主化の遅れが、福島第一原発事故という歴史的な大事故を招いた真因の一つであることが、その事故によって白日に晒された。
地域の自立とエネルギーの主権を私たちが取り戻すことが必要であり、今やそれを可能とする自然エネルギーという選択肢がある。
飯田哲也 (環境エネルギー政策研究所)
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/07/034msg.html
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