http://www.asyura2.com/11/genpatu12/msg/807.html
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+++++浅井基文氏の「原子力平和利用」についての主張(1)
以下は、元外交官、浅井基文氏のブログからの引用です。浅井氏は「「原子力の平和利用」という概念が本当に成り立ちうるのか、人類の意味ある存続を将来にわたって確保する上で、軍事的にはもちろんのこと非軍事的にも、核エネルギーは封印する以外にないのではないか、そしてイランと日本が率先して脱原子力への国際的リーダーシップをとることが人類の意味ある存続に対する最大の貢献となり、したがって両国及び人民にとっての最高の歴史的な名誉となるのではないか、」
と、自らに問題を提起し、それを解き明かしています。私は、正直なところ、浅井氏が言う「核エネルギ」の封印に展望を持つことができません。世界が「封印」を決すれば、必ずやそれをひそかに保有し他者を脅す勢力が生ずるでしょう。日本国では、銃の所有は禁ぜられていますが、実際は暴力団がそれをひそかに所有し、しばしば一般市民を脅すのに使われます。一方、「封印」を限定的に解除すれば、強者の弱者への屈服を強いる手段となります。現行のNPT体制はまさにそれです。
さらに言うならば、アインシュタインの相対性理論から導かれた、放射能物質の壊変がもたらす膨大なエネルギに人類が訣別するだけの理性を今後幾年にもわたって維持できるとは思えないのです。それはさておき、浅井氏の議論を以下に添付します:
%%%%%浅井氏の議論はじめ
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2011/index.html
福島第一原発から何を学ぶべきか
*6月12日及び13日にイランで軍縮及び不拡散に関する国際会議が開かれます。昨年に開かれた会議の第二回目の会議です。前回にも招かれたのですが、急病で断念せざるを得なかったいわく付きの会議なのですが、今回も駐日アラグチ・イラン大使が声をかけてくれて(2006年に広島を訪れた彼と懇談して知り合いになっていた経緯もあり、彼が招待してくれている次第です。)、わずかな期間ですが、私がとても関心があるイラン式民主(デモクラシー)の「空気」なりとも感じ取りたく、今回は是非行きたいと思っています。 前置きが長くなりましたが、その会議に提出するペーパーはすでに出しているのですが、私としては、原子力発電計画を進めているイランに対して福島第一原発の事態を踏まえて考えてほしいことを会議では率直に発言したいと思い、その発言を用意しました。その内容をこのコラムにも以下において掲載しておこうと思います(6月8日記)。
私は、福島第一原発の事態を踏まえ、「原子力の平和利用」という概念が本当に成り立ちうるのか、人類の意味ある存続を将来にわたって確保する上で、軍事的にはもちろんのこと非軍事的にも、核エネルギーは封印する以外にないのではないか、そしてイランと日本が率先して脱原子力への国際的リーダーシップをとることが人類の意味ある存続に対する最大の貢献となり、したがって両国及び人民にとっての最高の歴史的な名誉となるのではないか、という3点についてお話しさせていただきます。
<「原子力平和利用」はあり得るのか>
「原子力平和利用」はあり得るのかという私の問題意識を皆様にご理解いただく上では、まず「原子力平和利用」という概念がどのような歴史的経緯から生み出されてきたのかを踏まえる必要があります。
ここでは、核問題に関する著名なジャーナリストであるジョナサン・シェルの著書『第7の10年 新たな様相の核危機』("The Seventh Decade The New Shape of Nuclear Danger")で次のように述べている箇所(pp.37-40)をご紹介します。
「アイゼンハワーは、ソ連に対する(核兵器における)数的優位の10年を買うために将来における(核)拡散という代価を支払った。この不幸な取引の手段が「平和のためのアトム計画」だった。……
米ソの水爆実験のもとで、軍備競争を阻止する国際圧力が高まった。アイゼンハワーは核兵器増強の邪魔になる管理協定は望まなかったが、それを望んでいるようなふりをした。ダレス国務長官の言葉を借りれば、「国際的な世論・諸政府の意見」を考慮した「その場しのぎ」として(軍備管理の)交渉をすることを望んでいる対外的ふりを示すことが必要だったのだ。国家安全保障委員会計画局がその年(1953年)後半に述べたように、軍縮交渉は「アメリカが軍縮に関心がないと示唆するようなことは、この時点での(アメリカの)政治的立場を損なうということを主な理由として」必要だったのだ。
(しかし)アイゼンハワーは、必要としない軍備管理の提案にかかわる代案としてまったく異質なもの、即ち「平和のためのアトム計画」を持ち出した。…その公にされた目標は、核の剣を核の鋤に打ち直すということだった。……しかし…両方(アトム計画と核兵器)を進めることはまったく可能だし、それが実際に起こったことだった。……
「平和のためのアトム」にはもう一つの隠されたコストがついていた。(つまり)その計画は、1950年代のアメリカの核兵器増強を覆い隠すことに使われただけでなく、核拡散の加速に対する技術的基礎を据えるものだったのだ。アイゼンハワーの提案によってまかれた種は、1960年代後半に核不拡散条約(NPT)交渉として有毒な果実を結ぶことになる。…(この条約により)非核兵器国家は、5カ国が核兵器を保有することが認められる世界で核兵器を保有しないことの見返りとして、原子力技術に対する完全なアクセスを獲得したのだ。
この取引は、条約条文に書き込まれた「トロイの木馬」だった。5カ国が(核兵器を)保有し続けることにより、他の多くの国々が核兵器を取得したいという願望は確実に強くなるし、(NPT)第4条の規定(締約国の原子力平和利用の権利)は、そういう野心を満たす手段の9割を取得することを保証するものだった。(かくして)今起こりつつある核保有国と核拡散国の衝突の舞台は据え付けられたのだ。」
長い引用になりましたが、要するに「原子力の平和利用」という概念は、アメリカが自らの核政策を正当化するために持ち出した、本質的に人の目を欺く言葉(のもてあそび)であり、NPTは正にその延長線上の法的産物だということです。即ちNPTは、5大国の核独占という本来あってはならない国際的な不平等を固定化することの見返りとして、核兵器国が非核兵器国に原子力の「平和利用」の権利を認めることによって不平等性に対する不満を解消することを狙ったものであるということです。このことからは、二つの結論が導かれます。
一つは、「原子力の平和利用」はアメリカ自身が言い出したことであり、NPTはその法的な産物である以上、イランがその権利を行使することは法的には正当であり、これを妨げることは許されないということです。非核兵器国である日本が核濃縮をはじめとする核燃料サイクルを確立することが国際法上の権利として認められているように、イランもその国際法上の権利が認められています。そのことは、IAEAの前事務局長だったエルバラダイの著書『ごまかしの時代』("The Age of Deception")において繰り返し述べているとおりです。日本の核計画は認めるが、イランについてはこれを認めない、ということは典型的な二重基準であり、主権国家の対等平等性を根本原則とする国際社会においてあってはならないことです。 今ひとつは、「原子力平和利用」という概念はアメリカの核政策・戦略を正当化するために作り出されたきわめて恣意的な用語・政策的産物であり、そもそも'核エネルギーを平和的に利用するということがあり得るのか'という根本問題に関する科学的な、同時にまた人類の意味ある存続と両立しうるのかという観点からの厳密な検証を踏まえたものではないということです。この点がしっかり検証されない限り、私たちは「原子力の平和利用ありき」の前提に立って議論を進めるべきではないと、私は強調したいと思います。
%%%%%浅井氏の議論添付(中断)
(つづく)
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