47. 2011年6月16日 19:31:55: sgSoRjNSaI
第二次世界大戦が終わる直前の1945年7月16日、アメリカはニューメキシコ州で原子爆弾の爆発実験を行い、それから1カ月も経たない8月上旬に広島・長崎に原爆を投下した。こうして核爆発による放射性核種が地上に散布されることになった。 核爆弾の開発は戦争が終わってからも続けられ、アメリカは南太平洋のビキニ環礁で爆発実験を行い、1949年9月23日にはソビエトが、1952年10月3日にはイギリスがこれに加わり、フランス、中国と続く。こうした実験、特に、大気圏内の爆発実験では、放射性物質は成層圏にまで吹き上げられ、放射性降下物(ラジオアクティブ・ファールアウト)として全地球的な規模で降ってきた。 大気圏内の核爆発実験には3回のピークがある。その最初は1951年から54年で、63回、合計61メガトンの爆発が行われた。このうち1954年3月1日、南太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水素爆弾実験は、我が国にとっては特別なものとなった。偶然その近くでマグロ漁をしていた第五福竜丸が濃厚な放射性降下物をかぶり、乗組員23名が放射線症や放射線火傷になったのである。しかも不幸なことにうち1名は死亡した。2回目のピークは56年から58年の169回、89メガトン、3回目は61年から62年の177回、257メガトンの爆発である(UN2000)。 1962年の8月、ようやく部分核実験停止条約が成立して米英ソ三国の大気圏内核実験は停止され、それを境に人工放射能レベルは急速に減少した。この減少傾向は1964年の中国の参入で一時鈍ったが、1981年以降は、地下核実験のみとなった。結局のところ、大気圏内核実験は合計543回、440メガトンの爆発であった(UN2000)。 1986年には、核実験とは別の原因で大量の(とはいえ核実験と比べれば微々たるものであるが)放射性物質が成層圏へ入った。4月26日にソ連のチェルノブイリ原子力発電所で事故が起き、放出された放射性物質は、大火災に伴って発生した上昇気流によって成層圏まで舞い上がったのである。 こうした放射性ファールアウトに関し、日本では大学や研究所の研究者が早くから測定を始め、ネットワークをつくって調査してきた。放射線医学総合研究所(放医研)もビキニ事件が直接の契機になって設立されたものである。 監視体制はチェルノブイリ以後さらに増強されたが、これに関わっている機関は、放医研、気象庁、気象研究所、高層気象台、水産庁、海上保安庁、防衛庁(現防衛省)技術研究本部、農業環境技術研究所、畜産試験場、家畜衛生試験場といった国立試験研究機関に加え、全国47都道府県の衛生研究所、公害研究所や日本分析センターであり、調査対象は空、陸、海の自然環境から食品、人体内の放射線・放射線核種にまで及ぶ。 ファールアウトは地上に落下し、あらゆるものに降りかかる。海に山に野に町に降り、土に蓄えられ、水に溶け、やがて農畜産物や水産物に移り、これを食べた人の体に入る。人体中では、例えばセシウム137なら、セシウムが摂取される速度と排泄される速度との関係で人体中のセシウム137の量は変化する。監視体制はこれらをそれぞれの段階でチェックしているのであるが、ざっと見ると、ファールアウトが最大になる時期があり、それから遅れて食品中のセシウム137濃度が最大になり、それからさらに遅れて体内量の最大値が出現する。 ここではファールアウトによる環境汚染の総括ともいうべき人体内の放射能量の変遷を見ることにする。 人類の被曝線量を考えた時、最も重要なファールアウトは、炭素14である。しかし炭素14は、宇宙線により絶え間なくつくられており、その量は毎年1500兆ベクレルにも及ぶ。そして、この自然の炭素14と核爆発由来の炭素14は、区別がつかない。またこの核種はベータ線しか出さないので、サンプルを採取しないと計測できないといったやっかいさがある。 2番目に重要なセシウム137は、天然には存在しない核種であるので、これを測定すればファールアウトの様子がつかめる。しかもこの核種はガンマ線を出すので、人体内にあっても直接検出できる可能性がある。3番目はストロンチウム90はであるが、これはガンマ線を出さないので、測定は多少面倒である。 体内からのガンマ線を検出する装置は、ヒューマンカウンタとかホールボディカウンタ、あるいは全身計測機などと呼ばれる。ただ、ホールボディカウンタにもいろいろあり、精密な測定をするには、宇宙線による測定を避けて、特殊な鉄でつくった室内で計測する必要がある。放射線医学総合研究所では鉄室内ホールボディカウンタでの測定を1963年から始め、現在も続けている。 そのうち健康な成人男性について測定した内山正史氏のデータを見ると、セシウム137体内量は1963年の測定開始時にはすでに上昇しており、引き続いて上昇を続けて1964年10月に最大値、約600ベクレルに達した。その後は時間の経過につれて急速に減少し、1968年末には約70ベクレルとなった。 1970年から体内量は微増傾向に転じ、1971年前半には、1968年初めのレベルに戻った。これは1967年から1970年まで中国が毎年行った3メガトン級の大気圏内の核実験によってセシウム137が補給されたためである。1971、72両年には大気圏内核実験が行われなかった。1973年には2.5メガトン、1976年には4メガトンの核実験が大気圏内で実施された。この期間、体内量は30−50ベクレルを維持している。 大気圏内核実験は1980年10月の中国の実験を最後に行われなくなった。それにつれて体内量も現象を続け、1986年2月には22ベクレルとなった。 チェルノブイリ事故の影響はホールボディカウンタの測定でも確認されている。その最初は1986年5月1日であった。事故発生は4月26日午前1時過ぎというから、放射能が日本に到着して人体内の量の増加として認められるまでに5日ほどかかっている。事故直前の2月に22ベクレルであった放医研の被験者群の平均体内量は、5月第4週には、30ベクレルに増加した。事故後の早い時期には、食品汚染のばらつきを反映しているのであろう。被験者間で体内量の差が大きい。しかし汚染が普遍的になるとその差は小さくなり、体内量も増加して、事故1年後の1987年5月には平均60ベクレルに達した。その後、体内量は変動しつつ減少傾向し、3年後には元に戻った(内山氏1989、1997)。 ファールアウトから人類が受ける放射線量はどのくらいか。この場合、現在までに浴びた線量だけでなく将来浴びることになる線量も含めて考えなければならない。これを線量預託という。将来というのをいつまでにするかによって話は変わるが、大気圏内核実験の始まりから数えて2200年までで実効線量預託は約1.3ミリシーベルト。未来永劫まで考えた場合は、3.5ミリシーベルトと計算されている。いずれにしても自然放射線1年分(2.4ミリシーベルト)と同じオーダーである(UN2000)。 3.5ミリシーベルトの中身を見ると、炭素14によるものが圧倒的に多くて2.5ミリシーベルト、次がセシウム137で0.46ミリシーベルト、3位がストロンチウム90の0.115ミリシーベルト、4位がジルコニウム95の0.084ミリシーベルトである(UN2000)。 参考URL http://sankei.jp.msn.com/life/news/110428/trd11042823060023-n1.htm http://rcwww.kek.jp/kurasi/page-46.pdf
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