http://www.asyura2.com/11/genpatu12/msg/683.html
Tweet |
毎日が戦場へ向かう心境 原発処理の「先輩」恐怖語る
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110613/erp11061310270002-n1.htm
2011.6.13 10:27 産経新聞
「生きては帰れないかもしれない。毎日、戦場へ向かう心境だった」。25年前の旧ソ連チェルノブイリ原発事故で、爆発した原子炉施設内で復旧に当たった元作業員の科学者セルゲイ・ベリヤコフさん(55)がこのほど取材に応じ、当時の切迫した状況が証言から浮き彫りになった。
■チェルノブイリで作業
ウクライナの大学で准教授だったベリヤコフさんがチェルノブイリで作業を始めたのは事故から約3カ月後の1986年7月末。陸軍で化学兵器処理を学んだ予備役でもあり、事故処理を志願した。
それでも爆発の衝撃でぽっかりと穴があいた原発4号機を目の前にすると足がすくんだという。放射性のちりが充満し、目に強い光が差すような痛みが走った。
割り当てられたのは、放射線量が高い場所に飛び込み、汚染されたがれきや土砂を素早く除去する「ジャンパー」と呼ばれる仕事。原子炉をコンクリートで覆い「石棺」にするためには避けられない作業だ。
診療放射線技師が着るようなゴムのシートを急ごしらえ。それに防塵マスクとヘルメットだけを身に着け、短時間で交代しながら作業をつなぐ。
被ばく線量の上限は約250ミリシーベルト。多くの作業員がその数倍を被ばくしたという。手にした線量計の数値を直視するのが怖かった。「上限値はお題目。自分で身を守るしかない。1回の作業時間は最短36秒、最長2分半だった」
■白血球激減と呼吸困難
40日の作業期間で4号機内への「出撃」は23回。最も線量が高い原子炉建屋の屋上には6回上った。熱で溶けたコンクリート、順番を待つ数百人の恐怖でゆがんだ顔。屋上へと続く階段を上るときに見た光景は、脳裏に刻み付けられている。
現場で働いた仲間4人が事故から10年以内に死亡。ベリヤコフさんも白血球が激減しているのが見つかり、呼吸困難で満足に歩けない日々が続いた。「医者は本当のことを言わないが、原因は分かっている。いま生きているだけでも自分は幸運だ」とベリヤコフさん。
旧ソ連崩壊後、米国の市民権を獲得し、現在は米企業の研究員としてシンガポールに暮らす。福島第1原発事故が起きて以降、当時を思い出すことが増えたという。
過酷な環境で処理を続ける福島の作業員に向けて「むやみに勇敢にならず、必要な作業だけに集中してほしい。愛する家族のため自身を守れるのは自分だけだ」と語った。(共同)
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 原発・フッ素12掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。