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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/9812
福島県南相馬市からの報告を続けよう。福島第一原発から20キロ、30キロの線で市域が3つに分断されてしまった街である。
「地震・津波」と「原発災害」の2つの被災地(死者・行方不明者は福島県で最多)であるこの街を訪れるにあたって、聞いておきたいことがあった。東京その他の全国で流れているマスコミの報道について、地元の人たちがどう思っているかである。そして、「東京」を筆頭とする他の地域の人々が「被災地」「被災者」に向ける視線についてどう思うか、である。
私がびっくりしたのは、南相馬市の市役所を取材に訪れた時だ。取材が終わり、担当の男性職員と軽い雑談になったときだ。
「NHKも朝日新聞も(南相馬市から)撤退してしまった。こないだ朝日はファクスで取材の問い合わせ来てたよね? あれどこだった?(福島市の電話番号だと同僚が言う)ほら、福島市ですよ。福島市から電話とファクスで取材してくるんだよなあ」
福島市は南相馬市から山を越えて車で1時間半ほどかかる。福島第一原発からは50キロ以上離れている。
「記者は会社の規則で原発から50キロ以内に入っちゃいけないっていうじゃないですか」
男性職員は苦笑した。
「私ら、ここに暮らしているんですよ」
南相馬市の3分の2は市民が暮らしている。30キロラインから外はまったく平常通りだ。私自身がその南相馬市に立ってみると、「50キロより外」に退避してしまったマスコミ企業は、残念ながら間抜けなほどの「腰抜け」に見える。
「あんたら、それでもジャーナリストなの?って言いたい。こんな大事件、逆にチャンスじゃないの?」
私の経験では、市役所職員のように記者と日常的に接している仕事の人たちは、大手報道企業のことを悪く言うことはめったにない。慎重な人たちだ。だから、この男性職員の怒気のこもった言葉には余計にぎょっとするのだ。
職員は横の女性職員を見た。
「もうね、彼女なんかすっかり『マスコミ不信』だよ」
彼らの言葉を「過剰反応」と言うことはできない。同市から記者は撤退した。トラック輸送も止まった。新聞すら届かないのだ。「見捨てられた」と市民たちが怒るのも無理はない(「福島民友」「福島民報」の地元紙はコンビニまでは届く)。
「東京の背広の連中は分かってない」
「この街の光景は異常でしょ? 店もやってないんですよ。放射能が降り注いでいる危険な場所に、みんな仕方なく暮らしている。異常ですよ」
そう怒りを表明していたのは、木幡竜一さん(47)である。経営している土木工事会社が、政府が決めた20キロラインの内側(立ち入り禁止区域)に入ってしまったため、会社に近寄れなくなってしまった(自宅は外側)。ダンプ、パワーショベルといった「商売道具」が使えないのはもちろん、工事の注文のファクスが入っても受け取れない。そんな話を以前書いた(「政府の避難計画は机上の空論だ、放射線量は高くないのに南相馬はゴーストタウン」)。
「こんな異常な話はない。全国に知らせてくれ、と地元のテレビ局に電話したんだ。なのに、まったく報道されない。どうなっているんですか」
木幡さんに問われた私は答えに窮した。被災地が多すぎて手が回らないんじゃないでしょうかと言うと、木幡さんはやんわりと否定した。
「原発から40キロだかのラインからは、マスコミは会社の規制で入って来ないんだっていうじゃないですか。ふざけた話ですよ」
「警視庁の(行方不明者の)捜索とか、テレビ局が来たからやっているのを、全国に見せているだけだ。あんなものを流してもしょうがないでしょう」
南相馬市に先立って訪れた岩手県野田村でも、よく似た怒りの声を聞いた。人口4650人の小さな漁村で、死者37人、全半壊450棟と、壊滅的な被害を受けたのに、村人の苦境について報道は一向に関心を向けない。地元紙すら取材に来ない。「官僚といいマスコミといい、東京の背広の連中は分かってない」と村人たちは怒っていた。
自分たちが苦しんでいるのに、忘れられている、無視されているという思いほどつらいものはない。
木幡さんが特に憤ったのは、福島から他県に避難した子どもが「放射能がうつる」といじめに遭ったという話だ。
「ここ(福島県)で発電した電気を40年使って、関東はあそこまで発展したんじゃないですか。それなのに、私たちをバイキンのように扱っている」
木幡さんはため息をついた。「もう、電気なんか送りたくない」
マスコミの取材はストーリーが決められている
「『苦境でも泣き言をいわないがまん強い東北人』とか聞くたびにバカヤローと叫びたくなります」
同市で衣類のクリーニング会社を経営する高橋美加子さん(63)は言う。
「黙っているのは、言葉にできないくらい悲しくて悔しいからですよ。言葉にならないくらい現実が重いんです。だから黙っている」
高橋さんは、身の回りの苦境を外に知らせようと電子メールを丁寧に綴っては発信した(高橋さんのメッセージ)。それが転送に転送を重ね、ツイッターでも流れて耳目を引いた。私もそれをきっかけに高橋さんに連絡を取った。
が、高橋さんは最初ためらった。あちこちマスコミの取材があったが、どうも違和感が消えないのだそうだ。「マスコミは最初からストーリーを決めて取材に来て、それに合うように話を当てはめるから」と言った。
どんなストーリーですか、と聞くと、「元気で復興に頑張っている」という図式だということが分かってきた。
「『がんばっている』でなければ『国の政策の矛盾にあえいでいる』『悩んでいる』『苦しんでいる』ですね。あるいは『かわいそうな人たち』『気の毒な人たち』でしょうか。そういうふうに扱われるのがいやなんです」
「丁寧に語っても、話に合わせるために全部削られたこともある。これが言いたかったのに、という話が落ちているんです」
高橋さんの部屋には、すり減った洗濯板が掲げられている。高橋さんの父が使った洗濯板だ。1948年にサハリンから引き揚げてきて、その洗濯板1枚で商売を始めた。高橋さんが商売を継いで、南相馬市周辺に6店舗を構えるようになった。その会社も、追い詰められている。従業員の安全が確保できない。住民が逃げ出してしまってお客が減っている。外に出ることができない。生活がすべて破壊された。
原発事故はすべてを狂わせている。
通り一遍の言葉に腹が立つ
夕暮れ時、店の2階のソファで高橋さんと話し込んだ。小さな旗を印刷したんです。そう言って見せてくれた。
「原発に負けるな!」
「ありがとうからはじめよう! 人間復興! ふるさと再生!」
「こころはひとつ! ふるさと再生! 子どもたちに未来を!」
お金を出して200枚ずつ作った。パウチにして事務所や家の入り口に貼ってもらおうと思っている。
「がんばろう日本!」「がんばろう東北!」とか、テレビで流れている言葉に似ていますね。私がそう言うと、高橋さんは一瞬沈黙した。そして強い声で、静かに言った。
「テレビとか見ていると、すごく腹が立つんです」
私は「まずいことを言ったかもしれない」と後悔した。
「私たちの言葉の奥に何があるのか分かってない。だから結局(マスコミは)通り一遍の言葉になってしまうのです。私たちの『がんばろう』は自分に言っているのです」
「『バカにしているよね』『くやしいよね』。地元の人同士では言います。でも外の人には言いません。行儀が悪いですから。自分の土地を悪く言うのは恥ずかしいでしょう?」
高橋さんは沈黙した。本当に、悔しさや悲しさ、疲れで二の句が継げないように見えた。
私は自分の身の上を話すことにした。バブル景気がはじけたとき、自分の生まれ育った家が、知らないうちに親戚の借金の担保にされて潰され、思い出が消えてしまったという話をした。
高橋さんはじっと聞いていた。
「・・・なんだかんだ言って、根底には怒りがあるよね・・・」
そう口を開いた。
「1階は津波で流されたけど、2階はそのまま無事だったという人がいます。夜、カーテンを閉めて寝ると、何もかもそのままなのに、朝カーテンを開けると瓦礫の山で、悔し涙が流れて、気が狂いそうになるといいます」
原発に対する複雑な感情
高橋さんは環境問題に関心が深い。会社でも、天然石鹸を自社でブレンドして洗浄に使っている。チェルノブイリ原発事故にまつわる映画「アレクセイの泉」の上映会や、写真家の広河隆一氏の展覧会を開いたこともある。
「『騒いでいると、土地の評価を下げる』と言われます」
だから講演会じゃなくて展覧会にしていました。個人でやることは、声高に語るより「きれいね。これ何?」と目をとめてもらうのがいい。そう話す。
前回書いたように、南相馬市では東京電力は「会社」ではなく具体的な名前を持った「個人」として信頼と理解を勝ち得ている。小さな会社にも仕事をくれる。親戚や友人が「お世話」になっている。福島第一原発ができて40年が経つ。深く地域に根を下ろしている。原発事故があったからといって反発し、拒絶するような単純な関係では、もうない。
「祝の島」「六ヶ所村ラプソディー」(原発や核燃料再処理工場のドキュメンタリー映画)の上映会もやりたかったのですが、と高橋さんはさびしそうに笑った。
「原発のことを取り上げたくても、私だって自然に自主規制しちゃってたんです。説明するのにも疲れるし。近ごろは(原発で)生活が潤っていたから、する必要もなくなってしまっていたんですけどね・・・」
そこで言葉が途切れた。その後には「地震や原発事故で、こんなひどい事態になってしまった」という言葉が続くはずなのだ。
私も言葉がうまく見つからず、黙る。2人、黙る。そうするしかないような、重い現実が窓の外にはある。
故郷を守るためには、いがみ合っている時間はない
「よくみんなで話すんです。『津波(被害)には復興がある。でも、放射能は後世に残る』『どうしたらいいんだろう?』って。そこで頭が止まってしまう」
そんな時だからこそ、旗を揚げたい。へこんでいても仕方がない。東電のことをうじうじ言っているより、一人ひとり意思表示しよう。「ありがとう」と、前向きなこと、プラスなことから始めよう。まず一人ひとりがつながろう。
長時間話し込んで、高橋さんが取材に慎重だった理由が分かったような気がした。
「原発に以前から疑問を持っていた人なら、東電や国に批判的なことを言うだろう」
「前向きな言葉をスローガンにしているそうだ」
マスコミはそんなステレオタイプに高橋さんを当てはめようとしているのではないか。
私が南相馬市に入って理解したことがある。放射能汚染という現実はあまりに重く、その現実に対処するには、指を差し合って「お前のせいでこうなった」と罵っている時間やエネルギーなどバカバカしく思えるのだ。それに何より、推進派だろうと反対派だろうと、放射能汚染は平等に襲ってくる。
自分たちの故郷を守るためには、いがみ合っている時間はない。ますます自分たちが落ち込むだけだ。
それは、福島を故郷として生きていく人たちの、最後の「抵抗」なのだ。
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