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昔、読んだはずだが、全く覚えていない、記憶がない。福島原発事故で久しぶりに読み返してみた。
ーーーーーー文庫版のためのはしがき―チェルノブイリに寄せて より引用
『そのような思いにかられている矢先、日本の21世紀に向けての原子力ビジョンが総合エネルギー調査会原子力部会によって発表された。「2030年の原発設備、現在の4.4倍〜5.6倍に」まで拡大されるのだという。もし、日本がそのような道を突っ走るのであれば、もはや狂気の国としかいいようがない。そう思うのは私だけではあるまい。
チェルノブイリ原発事故の影響を受けたヨーロッパでは「妊娠中の女性たちは定期的監視を怠らないようにせよ」
「今後5年間は受胎を避けるようにせよ」と政府勧告を出した国もある。
そのような中で86年7月11日の外電によれば、フィンランドの女性たち4000人は、自国の政府に対してこう抗議して衝撃を与えている。
すべての原子力発電所を遅くとも1990年までに全廃する政策がとられなければ、私たちは子供をうまない。
この類いの女性たちの決意が、かつて人類の歴史の中で語られたことがあっただろうか。“原子炉の操業が生命を育むもの、生命あるものすべてに敵対するのだ”との実感に根ざしたフィンランドからの声は、いま世界の女性たちに共有されつつある。
原発社会とは、どういうものだろうか?
1979年アメリカでのある原発裁判で証言した著名な物理学者J.ゴフマン博士の発言が思い出される。核燃料サイクルからの放射線放出について、どんな基準なら人が死なないのかと思うか、との裁判官の問いに答えて、「放出ゼロ。それが唯一の基準である。人を死なせないための・・・・」と。
もちろん放出ゼロの原子力技術などあろうはずがない。博士は、今日の放出基準が人の死を容認していることの矛盾をこう表現したのである。
通常時の操業でさえそうであり、ましてや今回のような大事故が将来において避けられる保証がないとすれば、私たち35基の原発密集国の住民は文字通りジェノサイドに通じる道を歩んでいることになる。死の灰を日夜生産し続ける原発の操業を許容している社会は、将来世代の殺しをも許容していることになる。
思うに今ほど20世紀に生まれ生きようとする子供たちから、私たちの世代の生き方に重大な疑義が出されている時はない。端的には、脱原発という社会構築に向けての決断が求められているのである。そうでなければ、彼らの誕生さえ危ぶまれるのだから。
その決断にあまり時間は残されていないであろう。そのことを「チェルノブイリ」はあますことなく啓示していると思う。そしてフィンランドの女たちは、その事態を生命感覚に根ざした女の感覚で深く読み取ったに違いない。私もまた同じ思いである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用終わり
『生命系の危機』綿貫礼子著 1988.社会思想社 文庫版のためのはしがき より
まだ、綿貫さんはご健在だろうか?
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