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斑目委員長「停止していなかったら、一体ナニが問題になるんでしょうかね」発言。
海水注入中止は実際には行われていなかった。現場の判断で注水は続いていた。(せっかく私が菅首相を騙して中止命令を出させたのに・・・)(でもホントよかった。もし私の進言で菅首相が中止を命令したことが世間にばれれば、私が事件を大きくしてしまったと世界は攻めただろうから。ああ、よかった。ホッとした)というのが彼の本音ではないのか。
「55分間の中断!」などとメディアが大きく書きたてるから東電は真実を暴露せざるを得なかった。「中断はしていなかった」という真実でなく、「吉田所長」の独断で海水注入は続いていた、という事実。結果的にそれでもっと大事に至らなくて済んだ、ということ。そしてそのお手柄が東京本店幹部はあまりよく思っていない「吉田所長」だったこと。『週刊文春(4月21日号)』に載っているそうだ。吉田所長は「やってられねえよ」と東電幹部に反乱することしょっちゅうの現場のオニ(でも作業員はついてくる、)だったそうだ。本部指令にいつも噛み付いてくる憎い飼い犬の手柄を認めるのが癪だったのではないか。
どれだけIAEAが怖いのか、明日また新たな発表がある、とか。2分ごとの記録の中から今度はどんなお化け真実が飛び出すのやら。
海水注入だが、東電が「1.3号機の廃炉可能性の示唆」は3月14日のことだった。1号機の水素爆発が12日午後3時36分。3号機は14日午前11時01分。海水注入が(試験的に)開始されたのが12日午後7時04分。菅首相が「海水なんて入れたら再臨界を起こすぞ。直ちに中断せよ!」と怒鳴ったとされるのが7時25分。斑目委員長が「中断!」と怒鳴るように画策していたのはこの頃だ。つまりこの時点でまだ原子力安全保安院は原子炉存続に未練たっぷりだったわけだ。住民の健康・作業員の安全・命よりも金のかかった金の卵のほうがよっぽど大事だったのだな。「やはり断念せざるを得ないか・・・」となったのがようやく14日、というわけだ。(福島民報3月15日付の朝刊に、大きな見出しで『1.3号機、廃炉か』と)
1号機は3月12日未明(午前3時頃か?)に炉心溶融が始まり、同日午前9時にはメルトダウン。つまり燃料棒が全露出。しかも圧力容器の底に解けてたまっていた!これが「地震直後18時間でメルトダウン」ということなのだ。このとき炉心の温度300度。それで底に3センチの穴が開き、50時間後には穴は7センチに拡大し、冷却水漏れが加速した、ということだ。
101時間後、即ち3月15日午後8時には2号機もメルトダウン。12日から15日までの短期間になんと恐ろしいことがいともあっけなく起こってしまった。世界史未曾有の大原発事故がたった4日間で完了したのだ。
問題は2点ある。このあっという間の時間に、どの部署がどんな不始末をしでかしたのか。どこの指示部隊が何故このような取り返しのつかないミスを犯してしまったのか。泣く子も黙るIAEA(正体はアハハ・・・だが)様に嘘の報告はできない、とやらでこの間の真実はもうすぐ伯仲に晒される(?)。
もうひとつは、これが実は一番気がかりなことなのだが、原発被災者の一人として、地震発生当日および炉心溶融が始まり完了したその翌朝の、東電のそして地方自治体の住民に出された指示は、果たして適切なものだったかということ。
また改めて問題提示したいが(今回はここまで来るのに長くかかってしまったので)3月11日、巨大地震の後、まず津波警戒報が出た。これは正しい。わざわざ海岸近辺に近づくものはいなかった。海岸近辺の住民には避難指示が出たから(高台やかねてからの避難場所)これも正しかった。私の町の津波による死亡者はほんの数名である。夕方になって有線放送で「町民は屋内退避してください」と町内の空に流れた。「窓はきっちりと締め切って」とも。しかし「放射能漏れ」の放の一言もなかった。福島第一原発が・・・ともなかった。町民は何も知らされずただ「屋内退避を」というものだった。だもの町民は外をウロウロしていたさ。車と家を行き来して車に荷物を積んだり。家の中は地震でぐちゃぐちゃ。家が半壊した人もいる。人々は少しでも余震から逃れようと毛布・食糧・ラジオ(ある人は)・懐中電灯・・・などを車に積み込んでその日のうちに逃げる人は逃げた。震度5級の余震が5分ごとに襲ってくるので家の中にい続けることはかなりの恐怖だった。そうやって眠りにもつかず(誰があんな余震の真っ只中眠ったりできるものか)恐ろしい一夜を明かした。ほとんどの人々は多分車の中で。
翌朝、「屋内に退避してください」が再び流れた。それで多くの人は家の中にぶるぶる震えて閉じこもっていたから、7時ごろパトカーが、警官は防護マスクを付けて、町内を触れ回ったのを気づかない人がたくさんいた。「直ちに西に逃げてください」という恐ろしい叫びである。出遅れた人々は避難先の川内村まで倍以上の時間がかかった。交通渋滞で。のろのろになるたび人々は外に出たりした。コンビニで食糧・電池・飲料水を買ったり、ガソリンスタンドに並んだり。
そうそう、川内村の避難所にお昼頃ひょっこり町会議員の一人が顔を見せて「原発は心配ありませんから安心してください」とニコニコ顔で(町民を安心させようとして)陣地見舞いしていたが、あれは一体なんだったのか?
つまり私は、この大事な短時間のうちに、どのくらい町の人々は放射能を浴びてしまったのか、ということを問いたいのだ。それと(明日まさか恐ろしい発表があったりはしまいな、と願うばかりだが)、ヨウ素とセシウム以外の放射能は飛散しなかったのだな、と確認したい。3月12日3時36分の1号機の水素爆発の前にはどんな放射能も大気中に放出されなかったのだな、と確認したい。
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