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>放射性廃棄物を貯めていたタンクが「爆発」。
>冷却装置の故障による「水蒸気爆発」であった
冷却装置が故障しただけで、詰んでしまうシステムは
難しいことは抜きにしても、もう駄目、駄目なのは明らか。
しかし、既に発生させてしまった使用済み核燃料だけでも
膨大な量がある。 いずれ、また「冷却失敗事故」が起こらないという
保障はない。 人類自体が、もう詰んでいるのかもしれない・・・
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チェルノブイリ以前、最悪の放射能事故「マヤーク核施設」(英考塾)
http://eikojuku.seesaa.net/article/203415168.html
ロシアの放射能事故といえば「チェルノブイリ」があまりにも高名だ。そのため、チェルノブイリの影に隠れがちだが、1957年に「マヤーク」核施設で起きた放射能事故も忘れてはならない。
放出された放射線量はチェルノブイリのおよそ40%を超える。「ウラル核惨事」と呼ばれる、チェルノブイリ以前では「最悪」の放射能事故である。現在もその汚染は高濃度で継続中である。
「マヤーク核施設」は、アメリカの原爆開発に遅れをとったソ連が、アメリカに負けじと、1945年(原爆投下直後)に慌てて建造した核施設である。
その甲斐あって、ソ連はたった4年で原爆の開発に成功(1949年)。米ソ冷戦の止めどない核開発競争は、ここに幕を開けた。
急ぎに急いだソ連の核開発。その代償はあまりにも大きい。なりふりかまわぬ核開発が国家の最優先事項とされたため、放射能汚染などを省みているヒマはなかった。
その最悪の結果が1957年の「マヤーク核施設」における放射能事故である。
1957年9月29日、放射性廃棄物を貯めていたタンクが「爆発」。冷却装置の故障による「水蒸気爆発」であった(福島第一原発の爆発と同じ原理)。
放射性物質が広範囲に降り注いだにも関わらず、周辺住民がその事実を知らされることはなかった。マヤークにおける核開発は、国家の機密事項であったのだ。
事故のおよそ20年後の1976年、科学者ジョレス・メドベージェフは、論文「ウラルの核事故」で、マヤークの事故を告発。しかし、ソ連は真っ向から否定し、欧米諸国も事故を信じなかった。
当時、欧米諸国は原子力発電に夢中で、放射能事故はまったくもって不都合な情報だったのである。
この事故が正式に知らされるのは、事故から30年以上も経ってからである。
事故が起こる前がら「マヤーク核施設」近辺は極度に汚染されていた。
放射性廃液は「カラチャイ湖」という湖に捨てられていたのだが、あまりにも汚染が進んだので、湖を埋め立てることにした。
ダンプでガレキを運ぶドライバーはこう言われた。
「12分で作業を完了させよ。特に湖のそばにいられるのは3分以内だ。」
「3分以上いたら死ぬ」と言われたほどの高濃度汚染であったのだ。
ドライバーたちは「エンストしませんように」と祈りながら作業をしていたという。
1967年、この「カラチャ湖」の水が旱魃により干上がり、乾燥した表面のドロが風にのって周囲に撒き散らされた。マヤークの爆発以来の放射能汚染であった。
現在、この湖にはチェルノブイリ事故の2.4倍に相当する放射線量の放射性物質が眠っている。「世界最悪の放射能汚染湖」と言われるゆえんである。
汚染されたのは、この湖だけではない。
際限なくタレ流された放射性廃液は、「テチャ川」をもひどく汚した。
「テチャ川」の周辺住民は、当然被曝した。ガンで死ぬ住民が異常に増えた。
事実が正式に知らされて以降、国は退去を勧告したが、いまだに多くの住民が暮らす村もある。「モスリュモヴォ村」もその一つだ。
国は土地のモノを食べないように告げ、わずかばかりの補助金を出し、その金で飲食物を買うよう住民は指示を受ける。
そんなハシタ金で生活できるはずがない住民は、従来どおり、汚染された川の魚を食べ、汚染された草を食べた牛の牛乳を飲んでいる。
当局は汚染の調査にやってくるものの、その結果を教えられたことはないという。健康診断も定期的に行われるが、やはり結果を聞いたことはないという。
住民たちは「俺たちはモルモットなのさ」と自嘲ギミに語る。
隠匿された調査の結果は‥‥。目を覆うばかりの数値であった。猛毒プルトニウムまでが検出された。
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