http://www.asyura2.com/11/genpatu11/msg/441.html
Tweet |
以下のような投稿に対し、いくつか、思うことがあったので、投稿する・・
>池田信夫「原発のリスクよりリターンのほうが大きいなら原発が>市場で選ばれるだろう」について
http://www.asyura2.com/11/genpatu11/msg/415.html
池田という人物。私は、まったく知らないので、彼がどういう人間か?という事前情報がない状態で(ただ彼の書いた文章についてのみ)書き込む。
まず、「原発がリスクよりリターンの方が大きい」という、彼が発明した「新手の神話」について、一言申す。
この「原発がリスクよりリターンの方が大きい」という発明は、
客観的な資料やデータを提示して論理的整合性が証明された発明なのか?を問いたい。
次に、「神学論争」という言葉に注目したい。
>原発がいいか悪いかという“神学論争”は、いくらやっても不毛だろう。
なにやら「神学」と「論争」をくっつけたことばのようである。
では神学とは?
では神学とはどういったものか?
(以下ウィキペディアから引用開始)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AD%A6
神学(しんがく、英語:Theology, ドイツ語:Theologie, ラテン語:Theologia)は、信仰を前提とした上で、神をはじめとする宗教概念についての理論的考察を行う学問である。神道や仏教では、教学(きょうがく)や宗学(しゅうがく)と呼称することが多い。護教学(ごきょうがく)と呼ばれることもある[1]。各宗教ごとに存在するものではなく、自身の信仰について考察する学問として、一般的な神学が存在しうるとの理解も可能である[2]。Theologyの語源はギリシア語のθεολογια。θεος (神)および λογος(言葉)の合成語。「神についての議論(学問)」という意味。
引用終わり
(私のコメント)
本人はレトリックで言ったつもりか、皮肉をこめて言ったつもりかわからないが、市場原理主義の権化のような発言(発明)
「原発がリスクよりリターンの方が大きい」
とのたまう輩としては、明らかに不似合いな言葉の選択である。
最初に、私(池田)の科学的論理的思考が
「原発がリスクよりリターンの方が大きい」と言わしめると言っていながら、
>原発がいいか悪いかという“神学論争”は、いくらやっても不毛だろう。
という、「原発の論争は神の論争(信仰の論争)である」といきなり、その根拠も提示せず、ワープして、単純に言い切る。これは、本人の思考が大きな矛盾を抱えている証拠である
ただ、全否定はしない、なぜなら、原発推進派は科学的な知識を一切拠り所とせずして、カルト的な推進信仰のみを唯一の活動のモチベーションにしているからである。
以下に代表される驚愕のヒステリックな発言で証明されるが・・
>「放射能は体にいい」
>「放射能を浴びると長生きできる」
>「プルトニウムは飲んでも大丈夫」
このような狂人まがいのコメントが、この期に及んでも、原発推進派から数多く散見する。この手の輩には、科学は通用しないであろう。やはり、ヒステリックで狂信的盲目的な信仰しかよりどころはないだろう。この辺がやっこさんたちの最後の砦なのだろう。
そういう意味で、推進派にとっては、原発というのは神学論争なのであろう。恐れ入った。原発推進原理主義ともいうべき、カネを裏付けにした盲目的な輩が構成員のほとんどであるから、科学や客観的な知識は、やはり信仰の邪魔になるのであろう。
信仰とはそういうものである。これにも恐れ入る・・。
一方、原発反対派は、小出先生に代表されるように、科学的客観的考察の上、
「原発はわれわれ人類の英知の粋を集めても、安全に運用できない、不完全なものであるという」さらに、
「事故が発生したら、制御不能になる」など、
客観的事実に基づいた結論を導き出している。これは信仰ではない、神学でもない、理論でもない、事実であり、スリーマイルやチェルノを含めた歴史なのである。(今の福島がまさにそうである)
1.機械は壊れる
2.人間はミスをする生き物である
3.放射性物質は人間の力ではどうにもならない
上記1〜3は、今、われわれの目の前で起きている福島第一で、完全証明され、小学生にも理解できる簡単なことがらである。
最後に、私が一番言いたかったことを書く。彼の以下のコメントに対してである。実はこのことを言いたかったために、投稿する気になったので、最初にもってくるべきだったのかもしれないが・・
>発電方式として何を選ぶかは、株式市場で決めればよい。原発のリスクよりリターン>のほうが大きいという電力会社の主張が正しければ、原発が市場で選ばれるだろう。>再生可能エネルギーが原発より低コストだという反原発派の主張が本当なら、それを>採用した企業が市場に参入するだろう。原発がいいか悪いか神学論争を繰り返すより>も、投資家に自己責任で選んでもらえばいいのである。
>再度要点だけ取り上げる
>@株式市場で決めればよい
>A投資家に自己責任で選んでもらえばいい
ようするに、極端に言ったら、金儲けをモチベーションとした連中に決めさせろ!ということである。金儲けが正義で、株式市場や投資家が原発の是非を決める、それが正義であり、善でありと言いたいようだ。
「鉄砲を捨てた日本人」ノエル・ペリン著 川勝平太訳 中公文庫
(日本史に学ぶ軍縮)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4122018005/ref=s9_simh_gw_p14_d0_i1?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=center-1&pf_rd_r=0R0FDAD0CWYE2HPVHVTQ&pf_rd_t=101&pf_rd_p=463376736&pf_rd_i=489986
という本がある、この本は、日本に鉄砲が伝来してからしばらくして日本人が鉄砲を捨てた時期があるという、世にあまり知られていない事実を書き記したもののようである。この本を読んでいないので、これ以上は、この本についての記述はできないが、
現代日本人を支配する、効率、経済性、金儲け、市場原理、経済発展・・なんでもいいが、そういった、短絡的で打算的な思考に背を向けていた時代があったということに私は誇りを感じる。
私の勝手な解釈だが・・
鉄砲を使用すれば、刀より効率的に戦うことができる。
遠くからでも、敵を殺戮できる。刀ほど、技術を習得するのに時間がかからない、刀は、適性があり、扱えない人間もいる。鉄砲は極端な話、あまり適性を問われない武器である。刀は、何度も使えない(時代劇の立ち回りシーンはうそである)。刀は人ひとりを切ったら、刃がボロボロになることもあるそうだ・・あんな華麗でかっこのいい世界ではないらしい・・
戦うということでいえば、刀はだれが見ても、鉄砲にかなわない・・それなのに、わが日本人は、鉄砲を真っ向から否定し、刀で戦った。蛇足だが、鉄砲の製造技術も刀の製造技術も、当時は世界一だったそうだ。
>@株式市場で決めればよい
>A投資家に自己責任で選んでもらえばいい
と強調する輩や
>原発のリスクよりリターンのほうが大きいという電力会社の主張が正しければ、原発が市場で選ばれるだろう。
と強調する輩には当時の日本人のこの決断が理解できないであろう。
しかし、私は理解できる。
私は勝手に以下のように思っている
鉄砲という武器は確かに刀より様々な面で優れている。しかし、これでいいのか?それなりの技術の習得もなしに、極端に言えば、剣の修業受けたことのないような軟弱な男や女子供でも、将来的には(鉄砲の性能が上がって)、少しの技術習得で、扱えるようになるのではないか?当然、そうなると、武士の規律、武士道も失われていくであろう・・何でもありの無法の世界が到来する・・。
当時の日本人達は、そのような状態(鉄砲を禁止せず、鉄砲をはびこらせること)になった場合、決して、平和で安心できる社会ができるとは思わなかったと思う。今のように、刀を扱うのはそれなりの過酷な修行を耐えた良識ある武士のみが権利を有する。今の社会(鉄砲のない社会)の方が、平和で安定した社会が築けるのではないか?と判断したと私は勝手に思っているのである。
私は、当時の日本人を誇りに思う。彼らの知性、良識、理性が鉄砲を廃止して、まれにみる安定した江戸時代を築いたと思っています。
反対に、その頃ヨーロッパでは鉄砲が猛威をふるい、無法の世界が跋扈し、無秩序で大規模な戦争、虐殺が横行し、殺戮の世界がヨーロッパじゅうを蔓延していました。
市場原理や、経済効率、金儲けにわれわれ人間が支配されるとどうなるか?鉄砲をこれらの効率のよい金儲けにあてはめて考えてみたいと思います。当時の日本人は、このことを、卓越した洞察力で悟っていたと思います。
今こそ、彼(池田)のいうような以下の言葉に背を向ける時だと思います。
>@株式市場で決めればよい
>A投資家に自己責任で選んでもらえばいい
>「原発がリスクよりリターンの方が大きい」
P。S.
上記の池田の言葉には金儲けの意思しか働いておらず、われわれの良識、知性、理性、人としてあるべき姿は、人間は本来どうあるべきか?がまったく欠けています。利己的な欲望の集合体である市場や、金儲けに一人の人間の人生を委ねていいわけがない。その結果が、今、福島、いや、わが日本で進行している悲劇のルーツだと思うのである。
金儲けなんて、市場原理なんて、そんなもの追求しても、ごくごく一部の選ばれし者だけが勝利し、物理的豊かさに浸れますが、(基本は一人の勝者とその他大勢の敗者を製造するシステムでしかありません)われわれごく普通の人間は、それらに翻弄されるだけです。そんなものに翻弄されてしまったら、われわれ人間に一番重要な心の豊かさ、心の充足、心の潤いを得ることはできないです・・
われわれのやるべきことは、われわれは自然に生かされているということを、子々孫々に伝えたり、人間としての良識や、人として本来あるべき姿を、子々孫々に伝えることです。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 原発・フッ素11掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。