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福島第1原発、事故直後の新事実が明らかに―WSJ分析
• 2011年 5月 18日 15:42 JST
【福島】福島第1原子力発電所では、極めて重要な地震発生後24時間において、これまで考えられていたよりもはるかに急速に状況が悪化していた。ウォール・ストリート・ジャーナルによる事故状況の分析によって明らかになった。
壊滅的な被害をもたらした地震と津波発生から数時間後、発電所の作業員は途方に暮れていた。夕暮れが迫る中、彼らは付近の家屋から懐中電灯を探し出すことを余儀なくされた。正常に機能していない原子炉計器を必死に復旧させようと、津波で押し流されず済んだ自動車を見つけ、バッテリーを取り出した。原発の完全な電源喪失により、危険なほど過熱していた原子炉内の圧力を下げる蒸気放出作業(ベント)ができず、作業員は手動でバルブを開けなければならなかった。
そのとき重大な判断ミスが発生していた。作業員は当初、発電所の非常用電源がほとんど機能していないことに気付いておらず、復旧の時間はもっとあると勘違いしていたことが調査で明らかになった。その結果、これまで想定していたよりも数時間早く核燃料の溶融が始まっていた。東京電力は今週、福島第1原発の6基ある原子炉のうちの一基で地震当日に相当なメルトダウン(炉心溶融)が発生していたことを認めた。
東電は16日、2000ページ以上に及ぶ原子炉の運転状況を記録した「日誌」を公開した。日誌からは、これまで明らかになっていなかった震災発生直後の様子を一部垣間見ることができる。地震発生直後、津波が到達する前、発電所作業員は原子炉の1つの予備冷却システムのバルブを閉鎖した。冷却システムは外部電源に依存していないため、閉じても問題はないと考えたためだ。専門家は、この判断が核燃料の急速な溶融を招いた可能性があるとしている。
本紙の分析は、東電や政府資料を精査し、行政当局や企業幹部、国会議員、監督当局への数十回に及ぶ取材を基にしている。これにより、菅直人首相と東電幹部が真っ向衝突する異常な状況の中、原子炉の1つで危険な水準にまで上昇していた圧力を下げるためのベント作業について、なぜ東電幹部が最終的な決断を7時間も遅らせたのか、その詳細が新たに明らかになった。
東電幹部は、危機の深刻さを当初認識していなかったことを認めた。ベントを決断したときには、既に建屋内の放射線レベルはかなり高まっていた。自ら志願して手作業で安全弁開放を行った作業員は、わずか数分間で日常生活時の1年間の被ばく量の100倍もの放射線を浴びることになった。
政府自身も、菅首相自らが直接関与していたにもかかわらず、統一された早期対応策を示すことができなかった。当局者が楽観的過ぎる状況判断に足をすくわれたこともあるが、緊急対策室が置かれたビル自体も停電し、電話回線がつながらなかったことも一因だ。
政府・東京電力統合対策室事務局長の細野豪志首相補佐官は 「それぞれの組織が自分のチャンネルを使って情報を発信し統一性がなかった」と述べている。
マグニチュード(M)9.0の地震が発生した3月11日午後2時46分、福島第1原発の幹部の多くは発電所の会議室で監督当局と会議を行っていた。地面が揺れたのは、ちょうど会議を終えようとしていたときだった、と原子力安全・保安院の横田一磨・統括原子力保安検査官は話す。ファイルが倒れ、壁や床はひび割れ、細かい白いほこりが辺りに舞った。
そして電気が消えた。横田氏は神経質な笑みを浮かべながら当時を振り返って、「いやーひどいね」と述べた。
だが、事態は統制されているように見えた。福島第1原発の稼働中の3つの原子炉は緊急停止した。予備のディーゼル発電機が作動するとともに非常灯が点灯し、警報器が鳴った。
それからちょうど1時間後、約15メートルの津波が到達し、非常用電源が停止した。
午後3時37分、東電本社の事故対策本部に福島第1原発から「全交流電源喪失」との通報が入った。これは発電所で交流電源を供給できなくなる状態を示す用語で、日本最大の原発の1つで完全な停電が発生したことを意味していた。
当時事故対策本部にいた原子力設備管理部の小林照明課長は、そのとき「なんでブラックアウトしたの」と思ったと述べた。完全停電は災害対策で想定していた最悪の事態だった
だが小林氏は、本当に深刻な事態に発展するまで、電源を復旧させる時間はまだ8時間あると考えていた。原子炉の燃料棒の冷却や主計器の電源となる予備電源は8時間持つと想定されていたためだ。予備電源は、発電所の最後の頼みの綱だった。
16日に公開された文書によると、東電作業員は、全部ではないとしても、ほとんどの予備電源が津波で機能不全に陥ったと今は考えている。だが、当時はそれが分からなかった。彼らは予備電源は依然機能しており、8時間の猶予があると考えていた。
午後3時42分、菅首相率いる政府の震災緊急対策本部に交流電源喪失の通知が届いた。その場にいた2人の関係者によると、菅首相は通知を聞いて、「危ないのは原発じゃないか」と述べたという。
福島第1原発に夕暮れが近づくと、技術者たちは取り外した車のバッテリーを使って臨時装置の電力とし、原子炉の中で何が起こっているのか解明しようとした。午後9時21分には危険なサインを発見した。1号機の水位が急激に下がっており、燃料棒がいまにも露出しそうだった。
冷却装置がなければ水は沸騰し、炉内の圧力が高まる。沸騰した水の量が増えれば、燃料棒は溶け出し、空気に触れて反応する。そして、放射性物質を放出し、爆発を引き起こす危険がある水素ガスができる。
午後11時頃、最初の発電用トラックが到着した。東京の首相官邸では歓声が上がった。
だが、喜ぶのはまだ早かった。発電所の損傷したメインスイッチに、発電機をつなぐことができなかったのだ。ケーブルの一部が短すぎて、発電所の別の部分まで届かなかった。津波警報も発せられ、作業員は高台に避難しなければならなかった。最初の24時間のうちに接続できた発電機はわずか1台だったことを、東電の資料が示している。
真夜中には、1号機の格納容器内の圧力が、設計時に想定された最大レベルをすでに50%超えていた。放射能レベルが非常に高かったため、東電の清水正孝社長は作業員に建物からの退避命令を出した。
関係者によると、大胆な手段を取る必要があることが、東電と政府の目に明らかになってきた。すなわち、格納容器が圧力で破損する前に、原子炉内の蒸気を放出しなければならない。
蒸気放出にはリスクがあった。蒸気は放射性物質を含んでいる可能性があり、近隣地域に危険を及ぼす。だが放出しなければ、容器が壊滅的に破壊される危険が非常に大きかった。菅首相と海江田万里経済産業相は、午前1時半頃、公式に蒸気放出を認めた。
その後何時間も続いたのは、情報の行き違いや混乱だった。3月12日午前2時45分、東電は原子力安全・保安院に1号機の格納容器内の圧力が想定最大レベルの倍になっているようだと伝えた。
それでも、蒸気放出口は閉じられたままだった。首相官邸から、海江田経済産業相は東電の経営陣に1時間ごとに電話をし、進捗状況を尋ねた。午前6時50分、海江田経済産業相は蒸気放出を命じた。だが、実行はされなかった。
東電が今週公表したところによると、3月12日朝のこの時点では、1号機の核燃料はすでに溶け落ち、容器の底に積み重なっていたと思われるという。
政府関係者らはいま明かす。東電で蒸気放出を決定するのに長い時間がかかったのは、放射性物質を放出すれば事故の重大さが急激に高まると考えられたからだと。東電はなお、蒸気放出をせずに事故を収束させたいと考えていた。なぜなら、大気中に放射性物質を放出すれば、福島の事故は世界最悪のものとなり、チェルノブイリと並んでしまうためだ。
これに続く記者会見と国会証言で、東京電力の清水社長は、時間がかかったのは周辺住民の避難への懸念と技術的な問題のためだと述べた。この件に関して、清水社長からはコメントは得られなかった。
3月12日の朝が近づくと、東電の役員を自らせっ(つ)くために、菅首相は福島第1原発に飛んだ。午前7時頃、10人乗りの自衛隊ヘリコプター、スーパーピューマは、菅首相と複数の補佐官を乗せ、発電所に到着した。
一行が緊急の対策本部に入ると、東電の職員が放射線レベルをガイガーカウンターで確認した。同行した補佐官は振り返る。同時に入った発電作業員の放射線量が非常に高く、測定した職員はこう叫んだ。「あー、結構高いな、ここは」
グレーの会議用テーブルが二列に並んだ小さな部屋では、東電の原子力事業を率いる武藤栄副社長と発電所長の吉田昌郎氏の正面に菅首相が座った。
同席した人々によると、菅首相は、白髪長身の原子力技術者、武藤副社長と衝突した。武藤副社長は、発電所の電力の問題があるため、あと4時間蒸気放出はできないと言った。作業員を送り込んで、蒸気排出弁を手動で開けることを検討しているが、原子炉付近の放射線レベルが非常に高いため、そうすべきかどうか確定できない。一時間ほどで決定すると、武藤副社長は言った。
菅首相の補佐官によると、「人ぐりが悪い」と武藤副社長は言った。
同席していた人によると、菅首相は「悠長なことを言っている場合じゃない、出来ることは何でもやって、早くしろ」と怒鳴った。
この件に関して、武藤副社長、吉田所長からのコメントは得られなかった。東電の広報担当者は、武藤副社長の発言を確認することはできないと言った。東電は常に、事態収束のために、政府などからの支援を進んで受けてきたと広報担当者は語った。
菅首相は、このミーティングの後すぐに福島第1原発を離れた。午前8時18分、発電所の技術者が最初に菅首相らに、1号機から蒸気を排出したいと伝えてから7時間後、東電は首相官邸にあと1時間ほどでバルブを開けると伝えた。
かなり遅れたものの、安全弁はまだ開放が可能だった。問題はこうだ。通常、それは制御室で電動か圧縮空気で開閉するが、いずれのシステムも機能していなかった。
その結果、高い放射線量の建屋内で作業員が安全弁を手動で開放しなければならなかった。
福島第1原発のシフト・マネジャーは、最初にバルブに挑戦するのは自分の責任だと考えた。関係者によると、彼は「俺が行く」と言った。
彼は完全防護服を着用し、マスクと酸素ボンベも身につけた。そうまでしても、彼が戻ったときには放射線レベルは106.3ミリシーベルトに達していたという。この数値は、日本で放射線を扱う職場で、1年間に認められている値の2倍だった。1年間で一般の人が浴びる量と比較すると、100倍以上だった。
記者: Yuka Hayashi and Phred Dvorak
http://jp.wsj.com/Japan/node_237921
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