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http://www.news-pj.net/genpatsu/2011/oshidori-0514.html
宮城と南相馬の避難所の違い
〜一人っきりの子供がいます〜
宮城の避難所にて
2011年5月9〜11日、私たちはアコーディオンの coba 氏とともに宮城、福島の避難所へ慰問と取材にまわった。
9日夕方に宮城入り。夕食後の宮城県名取市民文化会館の避難所に伺う。
ここは津波により壊滅した閖上(ゆりあげ)地区の方々が避難しておられるところだ。
イギリスのBBCが、巨大な津波によって地図上から姿を消した町、として取り上げた閖上はかつては活気のある漁港の町であった。
ここの避難所には当初は 1000人ほどおられたが伺った5月9日は 200人程度にまで減少したという。
仮設住宅の建設が進み、そこに移られた方が最も多いとのこと。
しかし仙台市の仮設住宅はなかなか申し込みづらい、なぜかというと、16年前の阪神淡路大震災のとき、仮設住宅で独居老人の孤独死があいついだ。
なので、地域のコミュニティを切断しないかたちでの仮設住居への申し込みがのぞましい、ということで10世帯! まとめての申し込みしか受け付けないというのだ。
それが難しく、仙台市への申し込みは非常に少ないのであった。
調べてみると 「コミュニティ受付」 といった 10世帯単位のものが確かにある。
5月6日に10世帯から5世帯へと変更になっていた。
仙台市ではあまりにも仮設住宅が余っていたので変更せざるをえなかったのだろう。
しかし、5世帯、10世帯といった数を決めるのではなく、もう少し柔軟な対応をしてほしいものだ。
名取市民文化会館の避難所は非常に団結していた。
慰問も盛り上がり、飛び入りで民謡を歌う男性が二人出て、手拍子、掛け声を全員でというにぎやかさ。
私たちが終わったあと、子供たちに囲まれ、すぐに手を握り膝に座りという人懐っこさ。
その周りには大人たちが集まり、おしゃべりや針金作品のプレゼントで1時間半以上、あっという間にすぎた。
避難所のスタッフ(行政の他、文化会館のスタッフがそのまま避難所のスタッフになっている)に伺うと、誰でも使えるパソコンのインターネットで津波の動画をみんなで見ているとのこと!
「あ、ここ俺んち!」
「この流されてるの多分、私の家!」
など、何度も何度も津波の動画を繰り返し見ているそうだ。
初めは夜泣きする子供も多かったが今ではこんなにタフになっている、とスタッフの方々も驚いておられた。
10日は閖上地区を横に通りながら河北新報へ。取材を受けたあと、FM仙台に飛び入り出演。
被災地のメディアとして自社もひび割れたり、壁が落ちたりしながらなんとか地域に密着した情報を出し続けようとされていた。
河北新報は3月12日にも新聞を発行している。
自社の印刷工場も被災しとても発行できる状態では無かったのだが、新潟で印刷して、電車も使えず、車で運んで何とか配ったそうである。
その新聞をロビーの掲示板に貼ってあるのだが、自立式の掲示板でその足には1つずつ10キロの重りが乗せてあった。
つまり、まだまだ揺れるので、相当な耐震補強が必要なのである。
そして夕食前の七ヶ浜国際村、その後、夕食後の七ヶ浜中央公民館へ。
両方とも宮城県宮城郡にある。
こちらの避難所も2ヶ所とも活気があった。
「住所教えて! 手紙書くから!」 と駆け寄ってくる子供たち。
「前は興業打つ仕事してたから、戻ったらあんたたち呼ぶから。」 と連絡先を聞いてくるおばさま!
「負けませんよ! 見ててください!」
と力強く握手してくる若者たち。
そして、宮城の避難所ではどこも新聞が山積みされ、誰でも自由に使えるインターネットとしてパソコンも置かれ、お菓子や飲み物がテーブルに溢れていた。
特筆すべきは毎日新聞の 「希望新聞」
色味のない資料が山積みの長机の中で、カラフルでお正月版のような新聞は避難所でも人気があり目だっていた。
そしてどこの避難所でも山積みでおいてあった。
翌日、11日は宮城県亘理郡山元町役場へ。
ここは 「りんごラジオ」 という地域エフエムがある。
エフエム長岡(新潟県)の協力により、山元町災害臨時エフエム放送局 「りんご ラジオ」 が開局されたのだ。
しかも震災から4日後に!
「りんごラジオ」 では、被災者や避難者、町外者に対し、必要としているタイムリーな情報の提供をつねに行っていた。
役場の中の長机に機器を並べただけ、マイクが2本あるだけのラジオ局であった。
しかし地域に非常に密着しており、つねに役場の最新情報を流し、地域をまわり帰ってきた方がそのまま情報を流す、というコミュニケーションがとれた放送であった。
私たちが伺ったとき、たまたまリスナーの方がタケノコご飯の差し入れを持ってきてくださっていて、お相伴に預かったほどだ! きゅうりの山葵(わさび)漬けの美味しかったこと!
山元町役場は古く、今にも倒壊しそうで、揺れるたびに、みんな一斉に外に出る、ということだが本当に活気が溢れていた。
「ボランティアセンター」 というテントの看板が色とりどりにできていて、近づいてよく見ると、ペットボトルのフタを集めて作っていたのだ。
りんごラジオに飛び入り出演したあと、山元町の山下中学校の避難所にも伺ったのだが、ここの校長先生も素晴らしく軽やかに動く方であった。
coba 氏と私たちの慰問を知るやいなや、生徒さんと避難所の方々を一気に集めてしまった。生徒さんは授業中にも関わらず。
「元気が出ることはどんどんやらないといけないんです!」
卒業式や入学式を避難所となっている体育館で行い、地域の方々にも参加して頂いたことでも知られる方だ。
避難所に帰ってきた小学生たち、一人一人の名前を呼びながら、「早くおいで、今から楽しいよ!」 と走っていかれた。
帰りに中学の校章が入った金太郎飴を頂いた。校長がポケットマネーで作ったそうだ。
これを何かあるたび、会う人ごとに配り、「山下中学をナメちゃいけませんよ!」 と言うそうだ!
なんと軽やかなことか!
雰囲気の違う南相馬
そして、福島県南相馬市へと向かう。
まず訪れたのは南相馬市民文化会館 「ゆめはっと」
ここは自衛隊の基地となっていた。
遺体の捜索をされる部隊が寝泊りをしていた。
南相馬市文化事業団の事務局長に話を伺う。
「南相馬は地獄です。4重苦の地獄です。」
震災、津波、原発事故、風評被害。
この事務局長が福島原発と言わず、「東京電力福島原発」 と呼ぶことに、深い意味を感じた。
風評被害というのは、本当に物資が入ってこない、人が近づいてこない、ということだ。
5月11日の時点で確かに空間線量は、福島市や郡山市より南相馬市のほうが低い。
だがコンパスで同心円状に線引きした30キロ圏内ということで、3月の時点から物資がほとんど来ないのだ。
あと、気になることも聞いた。
仮設住宅は建設してるのだが、そこに入居希望をせず、ズルズルと避難所にいたり、ヤケになり逆切れする方も多い、とのこと。
「仮設住宅に入ると、自分で生活せねばならないでしょう、避難所にいると三度のご飯は出てくるわけで…」
本当か。今まで伺った、宮城の避難所と全く雰囲気が違う。
しかし、南相馬市原町区原町第二中学校、同石神第一小学校の2ヶ所の避難所を訪れて、少しずつわかってきた。
まず、物資が圧倒的に少ない。
今まで見た、あふれんばかりのお菓子などどこにもない。
訪れた11日から初めて、暖かいご飯とおかず、というメニューになったとのことで、それまでの献立表を見せて頂いたら
*オニギリ、バナナ、牛乳
*オニギリ、ヨーグルト、ジュース
こんなメニューなのだ。それが2ヶ月も続いていたということか。
新聞もやっと届くようになったのは1週間前から、とのこと。
そして、宮城の避難所で溢れんばかりにあった毎日の 「希望新聞」 は無かった。ここにこそ希望が欲しかった。
目はうつろ、暗い顔で足をひきずるように動く避難所の方々。
事務局長の話を聞く顔も上の空で無反応だ。
果たして、私たちを楽しんで頂けるのか!?
渾身で舞台をし、本当に笑って、楽しんで頂けた。
「2ヶ月ぶりに歌ったり笑ったりしたよ!」
そう声をかけて頂いた。
宮城の避難所では今まで、どんな有名人が来たか喜んで話し、専用のサイン帳を持つ方々も多かったというのに!
その後、石神第二中学で避難所の方々とお話をした。
というより、ほぼ、一人の子供と遊んでいたのだが。
そのうち、事務局長が言っていた言葉の意味がわかってきた。
南相馬は絶望しているのだ。
家を仕事を無くしても、故郷を復興しようという気持ちにやっとなれた宮城の方々。
南相馬は違う。
家を仕事を、そして故郷まで無くしたのだ!
物資は無く、国から見捨てられ、人も来ず、差別されている、という気持ち。
それは本当に人を自暴自棄にさせる。
また、そうはいっても放射線量が高いため、若い方や子供もほとんどいないのだ。
しかし。
私たちおしどりが今回一番衝撃的な出会いがここであった。
福島第一原発から23キロしか離れていない石神第二小学校の避難所に、2歳児がいたのだ!!
この子はおしどりの舞台が終わったあと、ひっついて離れなった。
どこの避難所でも子供は人懐っこく、くっついてくるのだが、この子は違った。
笑ってはしゃいだかと思うと全身を密着させ、じっとしている。
他に子供はおらず、あまり仲良くなりすぎると、後の別れがつらい、と思い、何度も少しずつフェードアウトしようとしたが、すぐに見つかり、結局ほとんどひっついていた。
この子にはおじいさまがおり、少しずつ話を伺った。
あまりおつらそうなので、無理に聞き出そうとはせず、アコーディオンの coba 氏がお聞きしたことと総合すると。
この子の父母は恐らく津波で亡くなったということ。
「ちょっといないんだよね」
こういう言い方しかなさらないが、周りの方から少し聞いたのだ。
おじいさまとおばあさまと、この子とで、一旦、新潟の長岡の避難所に移ったとのこと。
しかし、そこでおばあさまも亡くなって。
そして、この子が
「南相馬の子に近づいたらダメ!」 と言われ続け差別を受けたとのこと。
(それには、小さい子の親御さんは放射線被曝に、より神経質に気を使わなければいけない、という背景もあるのだろうが!)
最終的に、また、おじいさまとこの子とで、南相馬の避難所に戻ってきたとのこと。
この子は本当に愛くるしいかわいい女の子で、でも、天然パーマの髪の毛はボサボサで毛玉もできていた。
服が湿っていたので聞いたら
「遊んでたら雨に濡れたの」
南相馬の雨に!!
誰かこの子を守ってくれる人はいないのだろうか?
誰もいなかった。
おじいさまはもうこれ以上ムリ、というくらい傷ついて年老いておられた。
まわりの方々も老人が多かった。
青年は自分以外の家族を流され、どこにも行けず、南相馬にいるだけだった。
「だっていないもん」
「いないからね」
このこの子がふと言った二言は、恐らく、パパとママのことではなかろうか。
私たちが立ち上がるたび、
「どこ行くの! どこ行くの!」 と絶叫したこの子。
「どこも行かないよ、まだ遊べるよ」 と言い続けても帰る時間はせまる。
とうとう帰る時間になり、
「どこ行くの! どこ行くの!」という問いに
おうちに帰るとは、とても言えない。なので
「お仕事に行ってくるの」 と言うと
「帰ってくる!? 帰ってくる!?」 と絶叫する。
この子!
「絶対、絶対、帰ってくる。絶対また遊ぼう!」
そう言って、絶叫するこの子を後にした。
お願いします。
この子を誰か助けてください。
※編集部注 : この2歳児を記事上、実名にするか、匿名にするか、NPJで相当議論を重ねましたが、非科学的な差別を受ける可能性に鑑み、匿名とすることにしました。
もし、本当に差別をする人がいるなら、そのエネルギーを避難できないままの多くの子供たちを救うように政府に要求することに振り向けてほしい。この子もそう願っているはずです。
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