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街の弁護士日記since1992 5月13日
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原発に発するぼんやりとした思い
言葉にならない思いの一部は、こんなことだ。
今回の震災で、自然の前に人間は無力だということをつくづく知らされた。
現代日本にあって、よもや死者・不明者を確定できないような災害が起きるとは想像もしていなかった。
地震や津波による犠牲は可能な限り、少なくするように努力するべきだ。そのことはその通りだ。
しかし、自然の猛威の前に、決して犠牲者はゼロにはなり得ない。
自然を支配して、犠牲を皆無にすることができると考えるならば、それは人間の思い上がりだろう。
基本的に人間は自然の前に無力だ。
近代以前、災害列島に住んできた人々は、そうした思いを連綿と受け継いできたはずだ。
自然に対するそうした謙虚さを踏まえれば、地震国日本にはおよそ原発は不向きなエネルギーであることは自明であろう。
このことは「エネルギー不足」という風評や流言飛語に惑わされなければ誰しも認めるところだろう。
日本では、どのように原子力発電の技術が進歩しようが、常に「想定外」の災害が起こり得る。原発の危険性は除去できない。
地震国だけの問題ではない。
原発の燃えかすである放射性廃棄物は、10万年の単位で管理されなければならない。
現にノルウェーが、10万年の間、放射性廃棄物を保管するために、沖合の島に深さ500mの坑道を掘削して保管場所を作ろうとしている。完成は、2100年だという。
そして、10万年の間、密閉して保管するという。
何万年などという単位は、人知の及ぶ時間ではあり得ない。
人類最初の文明の発祥が紀元前4000年頃とされている。
たかだか人類が文明と呼ぶものを有するようになってから、6000年しか経過していないのだ。
原発の燃えかすは、人類が文明を有するようになってから現在までの時間の十数倍の時間、厳重に保管しなければならない。
そのようなことは、人知を超えている。
原子力発電の技術が容易に原子爆弾に転用可能なことを措いても、このような人知を超えるものに人間は手を出すべきではない。
自然に対して、謙虚でなければならないのと同様に、人知を超える時間を持った原子力に、人は謙虚であるべきだと思う。
僕は、十分な代替エネルギーが開発できるかどうかは、政策次第で容易なことだと考えている。
しかし、もしも、代替エネルギーでは、現在の生活水準を維持する電力が確保できないというのであれば、進んで過剰な部分をそぎ落とすべきである。
無駄と思われる部分はいくらも見つかる筈だ。なぜ便座は便座カバーではなく暖められていなければならいなのか、なぜウォシュレットでなければならないのか、なぜ24時間ずっとテレビが放送されていなければならないのか、なぜ至る所に自動販売機が置かれていなければならないのか、なぜくそ暑い夏も仕事から解放されてはいけないのか…
原子力に手を出さなければ、維持できない生活を確保しようとすることは、人間が身の丈に合わない欲望にとらわれていることを示すのに他ならない。
経済の最低限の目標は、人の衣食住を満たすことだ。
原発がなくとも、すでに経済は、十二分に人の衣食住を満たすレベルに達している。
必要なのは、経済の仕組みを人間の身の丈にあったものに変えていくことなのだろう。
我々は、自然や原子力ではなく、いったい何を恐れる必要があるというのだろうか。
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