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原子力発電所が破綻して放射能が漏出し、広範な地域に居住する住民に被害を及ぼす事態がある。
従来なら年間1msvの許容範囲であった放射線の基準が、大人も子供も20msv/年という数値に引き上げられた。これは法律で定める「放射線管理区域」に匹敵する数値だという。
この事態を「安全だ、安心だ」と言っている学者がいるらしい。「100msv/年」でも大丈夫だと。
一方、「20msv/年」 は過酷な数値であるという人たちもいる。
明らかな混乱がある。そして、過酷なことに、どれが正しいのか「各家庭」で判断せざるを得ないような事態になっている。
私が福島の男たちにお願いしたいのは、とにかく、大至急、必死になって、ネット情報を含めてさまざまな文献にあたり自分なりの見解を確定していただきたい。他人に任せるのではなく、自分自身の判断根拠を確定してもらいたい。
そういう自分も本サイト等で情報収集を行ったが、結論としては以下のとおりである。
「チェルノブイリで実際に何が起きたのかということを追求することが回答のように思える」
「低線量放射線被曝や内部被曝についての確定的学説は存在しないとされている」
「定説が存在しないからといって一挙にその基準を20倍にすることは理解できない」
「浴びなくていい放射線被曝は避けるべきである。」
「ICRPが・・・、ECRRが・・・」
最終結論
「自分の子供を、学者の意見が割れるような環境下におくことはできない」
このような事態は日本史において存在しなかったのではないか、いや世界史的にも稀有な事態である。だから普通に考えていては判断がつかないと思われる。
よって「普通に考えない」ことを勧める。つまり極端に考えてみる必要があるように思う。私は以下のように考えてみた。
・・・・・
今一人の男が現れて、あなたにこう言う。
「あなたに、全地球の鉱物資源をあげます。そのかわり、あなたの子供の小指をください。」といわれたとする。
「はい、どうぞ」と子供の小指を切断して与えるだろうか。間違いなく世界一の富者となるだろうが、子供の心は地獄のようになるだろう。
だから拒絶する。
ということは、自分にとって、子供の体のほんの一部ですら、「地球の富」に替え難いものだということを「自分が思っている」ことがわかる。これが本心だと認識する。強く強く認識する。
・・・・・・
今、子供の健康・生命が危機に曝されているという意見がある。
もし、それが事実であれば、子供の小指よりも、重大なものが失われようとしている。
(それが事実かどうかは繰り返すが自分で認定するしかない。実はここに一番の悲劇性があるように思う。)
にも、かかわらず行動を取るにあたって、その妨げになるものは、おそらくは、「つきあい」だと思う。
親戚のつきあい。
近隣とのつきあい。
職場のつきあい。
学校のつきあい。
友人たちとのつきあい。
回覧板を回すこと、プロ野球についての雑談、旦那寺での法事、大手新聞の購読、・・・これらが実は「体制維持」のための末端装置であることを今更ながらに発見する。
江戸時代には、農村には年貢の支払いが「連帯責任」で負わされていた場合があった。誰かが「逃散」すれば、その逃げた者の分を残った者が負わされる。だから逃げる奴は許さないとばかりに相互監視する。そういった封建時代の遺制が我々を拘束しているように思う。特に水田耕作は村落における共同作業が不可欠であったと聞いている。新進の気性よりも相互連帯感が重要だったと。そして財産分与についても必要に応じ子供たちに財産を分ようとすると結果として全体としての税収が落ち込んでしまうため、そういった行為を「田分け者(戯け者)」として禁止する。それら皆、支配者側の利益に沿った考え方だったのだが。我々の多くは、もう、とっくに水田耕作を主として生きているわけでもないのに。ましてや、寄生地主制度もとっくに消滅しているはずなのに。しかし、このようなシステムは戦時中に「隣組」という形で再利用されたように感じる。
・・・・
つきあいを大切にしたいと思う気持ちはよくわかるが、私の考えからすれば、それすらも「生存のための手段」だと思う。
今、「生きる」とはなんだろうか。妻や子の笑顔を保証することではないだろうか。
さきほどの「思考実験」において、我々は「全世界の富(生活手段)」よりも「子供の体、命」が大切だと知ったはずだ。子供たちの健康は、「つきあい」=「生活のための手段」よりも優先すべき「目的」であることを認識しているはずだ。
その土地にいないと生きていけないのだろうか。おそらくは、その土地を離れても、生きていくことは可能だと思う。しかし、その土地から享受しているもの全てをどこでも再現することは不可能だろう。そして、その土地を離れることが経済的に不利だとするならば、せめて、自分だけがそこに残り、妻や子だけでも、より遠く安全なところに逃がすことはできないだろうか。
家族の安全を確保して、今までのつきあいも今までどおり維持したい、そのようなことは不可能と思われる。
妻や子を逃がしたとする。そのことが、今後、「軽率」だったと思える日が来るかもしれない。それはそれで最良の結果ではないだろうか。そのとき、あなたは、周囲から疎まれるだろう。でも、「それ」に耐えられないというのなら、一体あなたは妻や子を「何」から守れるというのだろうか。このことよく考えてもらいたい。
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