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「たね蒔きジャーナル 広河隆一氏の福島事故とチェルノブイリ事故」
[2011(H23)年5月3日(火)AM03:45]
《パレスチナに平和を京都の会》の諸留です。
**転送転載 自由**
たね蒔きジャーナル
2011(H23)年4月26日(火)放送分の
私の友人の広河隆一は長年チェルノブイリ事故現場にも
精力的に取材してこられています。
フォトジャーナリスト及び、ディズジャパン編集長の広河隆一氏が
今回の福島原発事故発生2日後の3月13日に
現地に飛び込んで計測調査した時の報告と
チェルノブイリ調査と比較した貴重な対談です。
http://www.mbs1179.com/tane/
(なおこの同じURLには、京都大学原子炉実験室助教小出裕章先生
の福島第1原発事故の談話も納められてます)
以下は広河隆一氏の音声記録です。
チェルノブイリ事故を起こした旧ソ連よりも、日本政府の対応が
如何にヒドイかが、チェルノブイリ事故と比較しながら
具体的事例に則して語られています。是非お読み下さい。
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「こんにちは」
(司会)広河隆一さんはチェルノブイリ事故に取材にいらっしゃったのは何度くらいでしょうか?
「僕自身は勘定してないんですけれど、救援運動の知人によると、もう50回以上になると言っています。」
(司会)チェルノブイリ事故の事故から25周年の今日、この福島の事故について今広河隆一さんが体験していらっしゃるお仕事について、今はまずどんな思いでしょうか?
「えーと、まず自分の迂闊さというか・・・・そういうことを思っています。と言うのは、日本はこれだけの地震の国であるので、そこに原発を作ると、そこに必ず地震が来ることになることを学者達は皆予想していて、その後津波が来ることも予測してた。それで事故が絶対起こるっていうことも、自分は雑誌等で特集を組んでやったきたてんですけれども。でも、実際にそれが起こった時にどう対応するかっていうことを、何も持ってなかったわけなんですね。例えば僕がいつもチェルノブイリの取材に持っていく放射線検知器があるんですけれど。それは100μSv/hまで計れるものなのですけれど。ところがそれを持って今度は福島の原発の被災地の方へ行ったのですけれど。13日の午前中に行きましたけれども、その時の双葉町という一番近い町なのですけれども、そこでその検知器の針が振り切れてしまったのですね。」
(司会)100μSv/hまでの針が振り切れてしまったのですね。
「ええ・・・・友達の持っていった1000μSv/hの針も振り切れたんですね。」
(司会)えっ?1000μSv/hの針も振り切れるということは・・・・
「はい。僕はいままでチェルノブイリの事故現場に今まで50回以上行ってたんですれでども、むこうではそんな事は全くなかったんですよね。僕は自分の検知器だけで、これ位の放射線はあるから、じゃあ、ここでの滞在時間はチョット短めにしようとか、この場所はまだこれぐらいだからまだ大丈夫だ・・・とか、五感で放射線は感じられませんので。だから全部機械を信じるわけなんですけれども。その機械が振り切れてしまうと、自分としてはもうどうしたらいいのかと、すっごい慌てふためいてしまうんですよね。そんな状況だったんですね。」
(司会)その時はまだ双葉町までは入れる状況でしたけど・・・その辺りの放射線とかの具体的なデーターとかを得ていらしゃったのでしょうか?
「いえ、政府も電力会社も発表してなかったんですね。それで我々もびっくりしてしまって、自分たちの機械が壊れてしまったのでは・・・・?って思ったんですけれど。原発に近づくにつれて、どんどん、どんどん数値が上がっていきますから。それである時点でむこうの役場の前まで行った時から、針が全部振り切れてしまって全部使い物にならなくなってしまってましたから。ところが、我々だけじゃなく、そのことを知ずに地元の人が自転車で走ってきましたから、また、バイクで走ってる人とかも一満いたんですよね。」
(司会)もう生活していらっしゃる普段の生活してる人とかがいたんですよね。
「ええ、いったんは避難地域になってますねど、念のため避難しなさいって言われてたので、そんなに大したことはないだろうと思って、その日は天気も良かったので。事故から二日間ほど経って、皆ポケットに何千円かを持って、他には何も持たないで出てきてたから、じゃあ貯金通帳を取りに行こうっていうことで。あとは、ビニールハウスで花を植えてる人とかが、水をやらないと枯れてしまうっていうことで、そういう形で皆さん避難地域に入って来てたんですよね。で、その人たちは被曝っていうことは全く知らされずに、そいうい数値は全く発表されませんでしたから、しなくてもいい被曝をしてしまったという・・・そういうように私は思ってますよね。」
(司会)そのとき広河隆一は町の人たちとお話しなどなさいましたか?
「ええ、それで、町で出会う人をとにかく全部止めて、この数値を示して、ここは今本当にこんなに危険な状態になっているからと説明し、そして一旦退いて、また数値が下がったことが何かの形で連絡が入ってきてから、それからまた入って下さい、って御願いしました。そういう具合に町で出会った人たちに言ってそこから出てもらうのと一緒に、僕たちもそこから出たんですよね。で、帰りの道を郡山まで走りながら、知らないから向かいからどんどん町の中へ向かって車が町に入っていこうとして走って来るんですよね。その中には外国人労働者たちの車とか、中には子ども連れの人たちなんかもいたんですよね。」
(司会)はぁ・・・・子ども連れですか?
「はい。とにかく今はダメなんだ。ものすごい放射線が現在ありますから、って言って、それでその人たちを止めて、また子ども連れの人たちには、そこの避難所に行くっていうので、しかも、そこの避難所にはもっと沢山の子供達がいるって言うので、それえ、そこの避難所に僕たちも一緒に行きました。子どもたちがいるその避難所のある町は川内村っていうんですけれども。そこでは皆にここは危険ですって言うとパニックになってしまいますから、むこうの責任者の副村長さんに、現在ここはこれこれの値の数値ですからって言って、ここの避難所には双葉町から来てる人も多いと思いますけど、そこへ戻ることは今日は絶対危険ですからって、それから道には必ず検問を置いて、今日はダメなんだ。安全になってから通ってもいいんだって・・・・そういうふうにして欲しいし、出来たら皆さんもここから出て欲しいし、それが出来なかったらせめて子どもたちと妊婦だけでもここかだ出してあげて下さいって、そういうふうに訴えたんですけれど。」
(司会)その時の広河隆一の状況を毎日新聞の記者がお聴きして、その時の政府の発表が五時間遅れだったんですよね。13日の10時半過ぎに広河隆一さんがそういう体験をされて、政府が1557μSv/hという発表をしたのが、実は午後3時頃だったんですよね。だから5時間くらい政府は放置したままだったんですよね。驚くべき無頓着さって言いますか・・・・
「ええ。政府のほうは、とにかく放射線量が高いときに言えばパニックを煽るから、だからそれが下がった時に、一時高かったけれど、それが今は下がりましたっ、ていうふうに言うっていう、そういう姿勢で発表してたんですよね。だけどパニックを煽るからって言って、状況を知らせずに、それで被爆者を増やしてしまったら一体何のことかって思うんですけどね。」
(司会)実際にその避難所で情報を広河隆一さんがお伝えになった時に、皆さんはその場でパニックになられましたか?
「いいえ。僕はむこうの副村長だけを呼んで、こうこうこういう状況なんですって言って説明したんですね。そしてその副村長さんが深刻な顔をしてその放射線検知器の数値を書き留められて。そして僕はそこからまた別の田村市の責任者の人に伝えるためにまたそっちへ移ったんですけれど。二日後に新聞を見たら、川内村の人たちは自主避難をしたって書いてあったので、すごくほっとしました。」
(司会)はぁ・・・・やっぱり正しい情報を、その場に応じた方法で、パニックにならない方法で伝えていくっていうことが難しいことですけれど大切なんでしょうねぇ・・・・
「ええ、難しいことですけれど大切なことだと思います。だけど本当に危険で大変な状況になったら、パニックになってでも逃げたほうがいいと僕は思うんです。」
(司会)チェルノブイリでいろんな人たちにお会いになられて、さまざまなものを見ていらしゃった広河隆一さんが、今の福島で今後どういうことが起こるのか、今後どうなるのか、どう考えていらっしゃいますか?
「えーと、将来の事は全く解りませんし、電力会社の人も政府の人も全く闇の中だと思いますね。明日何が起こるか解らないっていう状況だと思います。安心させるようなことを言っても、それに対する確信など、誰にも無いっていう状況だと思います。ただチェルノブイリ事故の場合と比較すると、政府や電力会社や一部の学者たちが、いやチェルノブイリの十分の一しか放射線が出ていないんだ、安全なんだって言うようなことをおっしゃってますけど、僕にとってはチェルノブイリのもう十分の一もの放射能がもう出てしまったのか、っていうオドロキなんですよね。それは何故かって言うと、チェルノブイリの場合は、セシウムだけをとってみても広島型原爆の少なく見積もっても500発、あるいは人によっては広島型原爆の800発分とか1000発分の放射能が出たって計算されていますから、ですからチェルノブイリの十分の一っていうと、少なく見積もっても広島型原発の50発分の放射能が、もう出たっていうことになりますよね。」
(司会)そういう計算になりますよね。
「ええ・・・・そういうふうに考えたら、これは本当にもう恐ろしい事態になっているんだって、そういうふうに思うんですよね。」
(司会)広河隆一さんのディズジャパンで書かれているレポートで非常に印象的な場面がありまして、20年前にチェルノブイリの被災地に行かれました時に、現地のソ連の方が飢えて死ぬより、10年経って癌で死ぬほうが良いって自分に言い聞かせて、自分たちの生産物を食べて、生きていくって、そういうふうに言う人に出会ったって報道されてましたけど、そういうシーンが、今福島でも、何とか土地に残って生きていきたい!っていう、そういう願望を持った人達が今結構多いですよね。そういう福島の人たちがチェルノブイリの人たちと重なって写るんですけれども・・・・
「はい。チェルノブイリの現地と重なって写ることもいっぱいありますし、またチェルノブイリの現地ではこうしたのに、こちらの福島ではできないっていうようなことも一満あるんですよね」
(司会)はぁ・・・福島のこちらでは出来ないことって、例えばどういう事でしょうか?
「それは現地では避難を言う時に、子どもとか妊婦を、先ずその日の内に最優先させて避難させたんですね。まずその日の内にですが。その避難も何回も分けて行われたんですけれども、10キロ圏では翌日にという具合ですけど。それから30キロ圏の人はもう少し日数が経ってから・・・6日後くらいでしたけど、そいう具合でしたけれども、6日後に避難を発表した時には、とにかく子どもと妊婦を、まず先ず逃がしたんですよね。その翌日には大人を逃がすというふうに、そういうやりかたを取っていったんですよね。だからいつでも最優先は、妊婦と子ども、っていうふうにチェルノブイリでは決めていたんですよね。というのは、彼等は放射能の影響を一番受けやすいのが、そういう妊婦と子どもたちだっていうことが解っていましたから。ところが日本の場合は、全部、数値の発表にしろ、安全の為の基準にしろ、これから影響が有りませんとうことの基準にしろ、例に出してくるのは、全部日本の場合は健康な大人の人を対象にしたものばかりで、子どもも関係ない、妊婦も関係ないっていう・・・・そういう形で言いますよね。それって本当にオカシイですよね!」
(司会)はぁ・・・・
「ですから、そういう意味では、ああいう事態は大変だったのですけれども、人間の生命に対する考え方は、日本よりしっかりしていたんだなぁ、って思います。でも、ソ連の中でも、確かに、論争があったんですよね。これをあまり大げさにしてしまうと、原子力産業にヒビが入るっていう形で、あの頃も、皆大勢の人を避難させてしまったら、こんなに凄いかって皆が思ってしまって、かえってパニックに襲われるんじゃないか、そうなったら自分たちにとって得にならないんじゃあないか?・・・っていう具合で。それは向こうの旧ソ連の保健省の人たち、つまり人間の体を守らなければいけないっていう、そういう人たちが、そういう考えにまず反対して、それから幾つかの科学技術部門関係の人たちとか、そういう人たちが、とにかくこれは逃げなくてもいいんじゃないか、って言ったのに対して、住民の人たちの代表が、本当にもう泣かんばかりになって、喰ってかかって、とにかく自分たちにはこれだけの数の子ども達がいるんだって、とにかくすぐに、この子どもたちだけでも避難させてくれ!って・・・・要求して、それで翌日からチェルノブイリから、あるいはそのすぐ傍の地域から、翌日に避難が決定したんですね。それでも決定は遅かったんですね。」
(司会:へぇ・・・・
「それでもそこの子どもたちから、沢山の甲状腺癌の子どもたちが、後で生まれてきますから。」
(司会:私はチェルノブイリは情報を隠すばかりで、非常に対応が遅れていたと、思っていて・・・それに比べて日本は、まだちゃんと情報が出ているのかと、思っておりましたが・・・
「それは全然違いますので、僕もビックリしました。僕は自分の目で、自分の検知器の針が振りきれるまでは、僕も半ばそうかなって、思ってたんですけれども・・・・。なんでこんなに恐ろしい被曝で人々に伝えないんだ?・・・・って。そのことは、彼等は本当に知ってたんですからね。モニタリング・ポストは停電のため、全部動かなくなっていた。それは確かかもしれない。しかし、僕が持っている程度の放射線検知器は、向こうに何百台もあるわけなんですね。」
(司会)はぁ・・・・
「はい。」
(司会)チェルノブイリのさまざまな教訓の中から、今福島で出来ることって何でしょうか?
「まず、食べ物の放射性物質の見地ですね。僕はチェルノブイリの事故が起こってから一年ちょっと後で、ドイツの被災地にも行ったんですけれども、そこでは一年経っても、二年経っても食べるものは何を食べていいのか解らない状況だったんですよね。それで政府や業者が発表する数値っていうのを、人々は信用してなかったんですね。それで、自分たちの市民の手による食品放射能検知所っていうのを作ったんですよね。各都市にね。そこで例えばクリスマスが近づいたら、乳製品とかチョコレートとか、各社の食料品を全部取り出して、どこどこで製造されたものは何Bq(ベクレル)あるっていう、そういう数値を発表したんですよね。それを見て、お母さんたちが、ここのものは安全だから買おう、ここのものは買うのは止めておこうって決めていくっていう、そういうことがあったんですよね。だから、そういうような事は、今すぐ日本でも出来ることなんですよね。」
(司会)それから、今回は津波が想定外だったんだ!って言うふうに責任者たちは言っているわけなんですけれども、これについてチェルノブイリの現地を歩かれてどうでしょうか?
「ええ。岩手県の方を歩かれたらすぐに解ることなんですけれども、岩手県の道路には至る所に標識が立っていて、それは立派な標識で車からも良く見えるんですけれども、津波浸水想定区域ここまで!とか、津波浸水区域ここから!って、そういうふうに大きな字で書いてあるんですよね。」
(司会)へぇ・・・・
「それで、ここまで・・・・って書いてある、その場所から先までは、見事に今回の津波は行ってないんですね。そこまではやられてはいますけどね」
(司会)へぇ・・・
「だから、今までの百年前の経験から、もう全部それは当たっているんですよね。ほとんど当たってしまっているって言ってもいい。だから、その標識を作っていた人たちは、津波がどこまで来るかってことを想定してたわけなんですよね。だから、地震が来て、津波が来て、何かがやられるっていうことは、いろんな人たち、地震学者の人たちとかが想定してましたから、だからそれを伝えたんだけど、それを信じようとしなかった人たちが、今、想定外だった、って言っているわけなんですよね。」
(司会)想定外なんかではなくって、想定したくなかった・・・・ってことなんですね。
「そういう事になりますよね。」
(司会)広河隆一さんが、今、国に対して一番求めたいと思われる事は、どういう事でしょうか?
「まず、とにかく、子どもと妊婦の人たちを守らなくてはいけないっていう事ですね。その為には、つまらない所で線引きなんかしちゃ、ダメなんですよね。この間だの福島県の小学校の、子どもたちを通学させて良い、その小学校の数値の発表がありましたけど。あの基準値の数値を見て僕はビックリしたんですけど。あの発表された数値を見て、え〜って思って、僕は自分の目を疑ったんですけれども。僕自身が、あの3・4μSv/hまでは学校に通わせても良いっていう日本の政府が発表したあの数値って言うのは、僕がチェルノブイリの原発をいつも訪ねるたびに、そこから4キロある死の町になっているプリペアチっていう町があるんですけど、その町の中で計る数値とほとんど一緒なんですね。」
(司会)え〜ッ!4キロ地点の町と一緒ですか!
「そうです。だから僕も最初は自分を疑って、自分の間違いかって思って、何回も自分の計ったそういう数値を見直したり、チェルノブイリの現地で撮影したビデオとか見直したりしても、やっぱり、間違いなくそうなんですよね。それで、あの死の町となっていて、誰もいないガランとして、そこの30キロ圏に入るまででも、18歳未満は一切入ってはならないし、大人でも特別な許可がなければ入ってはいけない、そして現在は住むことは一切禁止されている町、そういう所に子供達を走らせて、勉強させているっていう、そういう事を日本は決めているっていう、そういうようなのが、今の状況なんですよね。」
(司会)はい!広河隆一さんの話しから解ることが、今日は幾つもありました。どうもありがとうございました。
**転送転載歓迎**
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当日の音声は小出裕章さん分も含めてこちらで ⇒
mms://mbs.sswmt1.smartstream.ne.jp/mbs/tane/tane.wma
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