29. 2011年4月30日 10:03:25: 338ujto5ji
2011年4月30日の日テレの「ウェークアップぷらす」で独立総合研究所の青山繁晴氏が福島第一原発の構内に入り、レポートした様子を見た。以下に青山繁晴氏のブログを転載する。 http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/ (転載開始) ON THE ROAD 青山繁晴の道すがらエッセイ 青山繁晴個人HP、メイン・コーナー @現場入りを続けています 2011年04月23日 05時16分27秒 | Weblog▼いま、仙台市内のホテルにいます。2011年4月23日土曜の夜明けです。 きのう4月22日金曜に、福島第一原子力発電所の構内に入りました。 この、ちょうど1週間前の4月15日金曜に、福島第一原発の正門から20キロ圏内、30キロ圏内の、住民が消えた地域を歩き、そして原発正門に至ったとき「中に入りますか」とも尋ねられましたが、『作業できない人間がまだ入るべきではない』と考え、辞退しました。 その後、「原子力委員会の原子力防護専門部会の専門委員、および原子力新政策大綱策定会議の委員の立場で、青山さんが望めば、構内に、もう入れる段階です。ただし当然、構内は放射線量が高いので、それを諒解されることと、正式な防護服とガスマスクなどの装着、事後のスクリーニング(被曝検査)が不可欠です」という話が、良心派の政府当局者からありました。 そこで、複数の当局者・関係者としっかり協議したうえで、「構内に入ります」という意思を示して、具体的な調整を急ぎました。 ぼくの知る限り、原子力委員会は、委員も、ぼくのような専門委員も、20キロ圏内や30キロ圏内に入ろうとせず、ましてや福島第一原発の構内には入っていません。 マスメディアも、あるいは学者も同じです。 ほんらいは、現場を踏まないままに論じるとことは、本道ではないと考えます。 作業に迷惑をかけないことを確認できるのなら、現場の真実を、身体で知るべきです。 他人を批判するのではなく、ぼく自身の生き方の問題でもあります。 ▼きのう、福島第一原発の構内では、免震重要棟に置かれた「緊急時対策本部」で、作業員のみなさんと話し、それから所長の吉田昌郎さんと、じっくり時間をかけて議論をしました。 それから、車で1号炉、2号炉、3号炉、4号炉に向かい、目を疑うほどに建屋が破壊された4号炉の横で、車を降り、その真下に立って、これまで映像などではまったく見たことがない破壊箇所、あるいは逆に持ちこたえている箇所を、しっかりと見ました。
そのあと車に戻り、津波が直撃した、海に面する破壊箇所を見ていき、汚染水を移送しているホースや、移送先の建物なども見ていき、対策本部に戻ってふたたび吉田所長らと意見を交わしてから、構内をあとにしました。 そして自衛官、警察官、すべての作業員の拠点となっている「Jビレッジ」(もともとはJリーグのサッカー練習施設、福島第一原発から20キロ)で、防護服やガスマスク、手袋、足袋などを手順に従って処分し、スクリーニングを受け、さらに防護服の下に着ていた私服や靴もすべて処分し、郡山駅に向かいました。 線量計による、ぼくの被曝量は、143マイクロシーベルトでした。 20キロ圏内や30キロ圏内を見ていったときは、23マイクロシーベルトだったから、それよりは充分に高い。ただし構内としては、予想よりずっと低かった。 (中略) A今夜9時からの放送で、ある程度は、出てくるかも?しれません (すこし書き足しました) 2011年04月18日 15時36分26秒 | Weblog▼もう4日前になるけれど、4月15日金曜に、福島原子力災害の現地に入ってきました。 事前に関係当局と協議し、諒解を得たうえで、ひとりで独研(独立総合研究所)の社有車を運転し、山越えで、まず政府が「屋内退避、自主避難」としてきた30キロ圏内に入り、やがて「避難指示」となっている20キロ圏内の入り口で警察官による検問所に着き、通過の許可を得たうえで、中に入り、人が消えた村や街で車から降りて歩き、取り残された犬や猫としばしの時間を過ごし、運転に戻って、やがて福島第一原発の正門に到達。 そこで、作業員のかたたちの話を聴き、また正門を背にして、放射線量を含めてあたりの様子を調べ、これまで平時の原発調査で見慣れた、高い排気筒をこれまでとは違った気持ちで見上げました。 ▼福島第一原発から、20キロ圏内に入ったひとは実際はある程度、いらっしゃる。 まず住民のかたがたが、たいせつな用件や、あるいはどうしても必要な忘れ物を取りに行くために、検問所で警察官と話しあったうえで、入られている。 ただし、ごくごく少数の住民です。
それからジャーナリストのひとびとも何人か、入っている。どのようにして入ったのか、それをぼくが直接に聞いたジャーナリストはひとりもいないから、詳しくは知らない。 仄聞(そくぶん)した限りでは、検問所で警察官を「説得」するようにして入ったということでした。 ぼくはジャーナリストでは、ありませぬ。 テレビ番組でも講演会でも「ジャーナリスト」や「評論家」として(勝手に)紹介されることが珍しくないけれど、それは現在のぼくの職業ではありません。 共同通信の記者を20年近く、務めていたあいだはジャーナリズムのただ中で日々、仕事をしていました。 しかしペルー事件をきっかけに45歳で共同通信記者を辞めるとき、「以下、余生なり」と心に決めると同時に、ただ一度しかない命の残りは、実務家として生きると、おのれなりに決しました。 そこで、シンクタンクの三菱総合研究所に入り、国家安全保障などの実務に携わりはじめ、たとえば原子力施設のテロ・サボタージュによる巨大なリスクと対抗するための実務も開始しました。 1998年、平成10年のことです。 そして三菱総研で4年3か月を働くうち、日本には、旧財閥や証券会社、銀行といったところの紐(ひも)の付かない、自由にして公正な実務に徹するシンクタンクが必要だと痛感し、日本で初めての独立系シンクタンクとして独立総合研究所(独研)を、資金ゼロの状態からかろうじて、少数の仲間とともに創立しました。 この独研も、日本社会の思い込みで「青山さんの事務所」と呼ばれることが日常茶飯事だけれど、ぼくはジャーナリストでも評論家でも、タレントでもないので、個人事務所は持っておりませぬ。 独研は、いかなる補助金も受けないために、また癒着をつくらないために、自立した株式会社組織のシンクタンクです。 既得権益の側から、潰そうとする画策は水面下では苛烈そのものです。 また、それを知って知らずか匿名のひとびとによる、現実とかけ離れた中傷誹謗、嫌がらせも激しく、それから何よりおカネがなく、この4月に創立からもう10年目に入りましたが、よくぞここまで生き延びてきたと、正直、こころの底から思います。 なぜ生き延びているのか。 社員たちの志と努力に加えて、ごくごくささやかであっても天命がある、果たすべき使命が、かすかにでもあるからではないか、それしか思い当たりません。 その小さな天命のひとつが、日本国に、自主エネルギー、すなわちアメリカを中心とした先の大戦の勝者が握る国際メジャー石油資本などに支配されない、独立国としての自前エネルギーを確立することです。 自前のエネルギーが無かったために、負ける戦争までせざるを得ず、自国民だけで300万人を失ったのですから。 その敗戦を真正面から超克するためにも、自主エネルギーを確保することこそ、祖国を甦らせる正道だと、今も変わらず考えます。 その一環として、日本でかろうじて自主、自前に近いエネルギーといえる原子力(※ウランを輸入せねばならないけれども、石油や天然ガスと比べてずっと国際メジャー資本やアメリカの支配力が弱い)をめぐっては、独研の代表取締役社長・兼・首席研究員であるぼくは、内閣府の原子力委員会の原子力防護専門部会で専門委員を務めています。 また経産大臣の諮問機関である総合資源エネルギー調査会で「核セキュリティWG(ワーキンググループ)」の専門委員を務めています。 かつては政府も電力会社も「原発にはリスクがない」という間違った、ウソの前提に立っていました。 「いや、リスクが厳然と存在する。特にテロやサボタージュによって冷却を止められれば、原子炉が安全に自動停止してもメルトダウンに至ることがあり得る」と12年前の1999年、平成11年から問題提起しました。 まだ三菱総研の研究員だった時代です。 意外にも、政府内部でも電力会社内部でも、ごく少数ながら関心を持ってくれる良心的なひとがいました。 アメリカで9.11同時多発テロが起きる2年前のことです。 テロへの問題意識も社会に薄く、耳を傾けるひとが、どんなに少なくても存在することに、ぼくは日本社会に希望を感じました。それは今も変わりません。 とはいえ、大多数からは無視される情況でもあり、命を削ってでも訴えることを、まったくの非力ながらも続けているうちに、たとえば2006年、平成18年に原子力委員会にテロ・サボタージュによるリスクを専門的に扱う「原子力防護専門部会」が新設され、その初代の専門委員のひとりとなりました。 これは自民党政権の時代ですね。 しかし民主党政権になっても、この専門部会は続いていて、ぼくの立場も変わっていません。 政党色とは関係なく、国家と国民を原子力へのテロ・リスクから護る実務だからです。 ぼくが記者を辞めるとき(共同通信を辞めると言うより、記者という職業を辞める意識でした)、実務家を志したのには、そういうこともありました。 政党や権力の思惑に左右されない、時代を貫いていくフェアな仕事が必要です。 一方で、このように初めて原子力防護専門部会は設置されても、たとえば冷却システムの問題をいくら提起し続けても、具体的にはほとんど改善されず、そしてついにテロリストより先に大津波が、その弱点を突いてしまいました。 おのれが非力であることにも、重大な責任があります。 原子力専門部会が設置されたということは、「防護せねばならないほど巨大なリスクが原子力発電には実在する」ということを、やっと初めて日本政府が認めたことであり、それは、たいせつな一歩だったのです。 ところが、ぼくの民間人としての非力も含めて、それを生かし切れず、「冷却が失われた場合」に備える有効な改善を実現できないまま、もう一度申しますが、テロリストや北朝鮮の工作員の代わりに、あるいはその前に、3.11の大地震と大津波の襲来による「冷却喪失」を迎えてしまいました。 自然災害への防災は、ぼくの分野ではありませんが、そんなことで責任は免れません。 生涯にわたって背負い続けねばならない十字架であり、命が続く限りの責務が生まれました。 ▼その原子力委員会・原子力防護専門部会の専門委員として、また独研の社長・兼・首席研究員という実務家として、福島原子力災害の現地には、発生の当初から、胸の内では強く強く「入りたい」と願いました。 胸を焼くように、内心では、願ってきました。
しかし、ぼくは技術者ではなく、現地で作業はできません。 その作業の邪魔になるような現地入りだけは、厳に慎まねばなりません。 政治家(政治屋)でもジャーナリストでも評論家でもないのだから、よけいに、現地入りについておのれを律さねばなりません。 そのうえで、先週4月13日水曜の朝に「もしも青山さんが、職務のために入られるのでしたら、今週内しかないかもしれません。新たな規制強化も、場合によっては考えていますから」という話が、ぼくの信頼する良心派の政府当局者から、ありました。 その情報が政府当局者から積極的に寄せられたのではありません。 迷惑をかけずに、いずれは現地入りすることを、ぼくが模索している意思を伝え、それに対する当局者のフェアな答えのなかに、その情報もありました。 そこで週内に現地入りする考えを決め、関係先への連絡と協議を具体的に始めました。 原子力委員会の専門委員の立場を振りかざすのではなく、検問所をはじめ現地で任務に当たる警察官に余計な仕事を増やすのではなく、発電所の構内で戦う東電と関連会社、東芝、日立の名も無き社員・労働者に迷惑をかけるのではなく、同時に、国民が知るべき「避難を強いられた土地」の実際を、現地で掴む。 そのための協議です。 ちいさな志を理解してくれるひとも、関係者のなかに、何人もいました。ありのままに申して、嬉しかった。 ▼そして、政府当局者と電話で話した4月13日の夕刻になり、「水曜アンカー」(関西テレビの報道番組「スーパー・ニュース・アンカー」の水曜版)の生放送が始まるまえ、顔合わせのとき、「今週中に福島第一原発の正門を目指します」と伝えました。
無事に入ることができたら、水曜アンカーという機会でも、視聴者・国民に内容を伝えたいと思ったからです。 テレビ界では、福島第一原発の正門から40キロ圏内に入って取材しないという申し合わせになっているそうですが、ぼくはテレビ局の一員ではなく、芸能事務所などにも一切、属していませんから、そのような縛り、自主規制は関係ありません。 ただ、関テレの報道部には事前にお話ししておくのが、仁義でもあると考えました。 すると、取材経験の豊富な、信頼するディレクターのひとりが、にこにこと「青山さんは特別な、凄い防護服を持っていますもんね。だから行くんでしょう」と言ったので、驚きました。 ジョークかと思ったけど、まったく本気で言っていたから、ぼくは不思議に思い、「防護服なんて何も持っていないよ。それはどこから出てきた話?」と聞き、そして「防護服は着ません。このままで行きます」と言いました。 ほんとうに、そのつもりでした。 避難を指示されている地域であっても、放射線量が蓄積すればまったく別問題ですが、しばらくのあいだ居たからといって倒れるような線量ではないことを知っていたからです。 それに、その地域の住人で、牛に水をやったり忘れ物を取りに帰ったりで、避難地域に入っているかたがたが、防護服は着ていないらしいことも聞いていたから、自分だけ安全を固めていくことはしたくなかった。 放射線量を計るための線量計は、身につけるけど、防護服もマスクも何もしないことをいったん決めていました。 防護服を着ない代わりに、訪問が終わったあとに、スクリーニング(被曝調査)を受け、その調査で仮に何も出なくても、身体を洗ってから帰京するつもりでした。 これは自己防衛ではなく、環境や、ぼくに接する人に、少しでも余計な放射性物質をもたらすことをしないためです。 ▼しかし、関係当局などと協議しているとき、「最低限の防護服を着ていただくのが条件です」という話になりました。 そこで、この点だけは考えを変えたうえで、準備を急ぎました。
▼そして現地入りの日程を探りましたが、先週内で、終日、時間をとれる日がまったくありません。 やむを得ず、4月15日金曜日を選びました。
この日は、午後1時半に東京・四谷で、経済人と会う予定がありました。 独研が完全会員制で配信している東京コンフィデンシャル・レポート(TCR)の法人会員として信頼するひとだから、予定変更などはお願いしたくなかった。 そのあと午後3時半に、独研の本社で、出版人から「会って話をしたい」ということで入れた面会の約束があり、午後4時からは、CS放送の「日本文化チャンネル桜」の「青山繁晴が答えて、答えて、答える」の収録が予定されていました。 となると、夜が明けて、あたりが見えるようになる段階ですでに現地にいて、そして午前の遅くない段階で現地を出発せねばなりません。 帰路の最後に直面するだろう都内の交通渋滞も含めて、どんな障害があっても極めてスムーズに移動、つまり車を運転して帰ってこなければなりません。 現地の道路には激しい陥没も確実にあるだろうし、現地の検問所などに、「事前協議で諒解がある」という連絡が、ほんとうに入っているかどうか、スムーズに通過できるかどうか分からない。 しかし、「ほんとうにできるか」とは、考えませんでした。 どうしても無理と分かれば、アポイントメントをドタキャンしないことを優先し、どれほど無念でも途中で引き返す。 それであれば、とりあえずは決行できます。 ▼現地入りの前に、ほんとうは1回でも充分に眠りたかった。 腸閉塞での入院から3月19日の土曜に退院してから、一度も、満足に眠ったことがない。 869年の貞観津波以来の大震災と、福島原子力災害のさなかだから、それはやむを得ません。 しかし現実問題として、体力が3分の1ほどしか、まだ戻っていないから、一度だけでもゆっくり眠ってから行きたかった。
実際には、それはまるで無理な相談でした。 4月15日金曜日の、午前2時40分、一睡もしないまま、独研の社有車(と言っても実際は法人リースの車だから、リース会社のものですね)を運転し、都内を出発しました。 ひとりです。 イラク戦争の戦地に入ったときをはじめ、リスクや危険の可能性があるときには、独研の社員も家族も、誰も同道させません。 それが、ぼくなりの原則です。 ふだんは、ほとんどの場合、独研の秘書か研究員が常に同行しているけれども、リスクのある地域にはひとりで行きます。 友だちや、社外の、つまりぼくが社長としての責任を持っている範囲の外での同志というべきひととは、そういうところに行くことは将来、あり得るかもしれない。 しかし、今のところは、それもしたことがありませぬ。 節電のために真っ暗に近い首都高速を走っているとき、ウインドガラスの正面に亡くなったかたと、いまだに行方の分からない、3万人とも考えられるひとびとの魂の重みがどっと、のしかかるのを感じました。 そうか、原子力災害によって生活を狂わされたひとびとだけではなく、すべての震災犠牲者が待つ土地に行くのだと、天から教えられたように感じました。 2001年9月11日の同時多発テロのあと、ニューヨークのセントラル・パークから、アルカーイダの乗っ取った飛行機2機がツインタワービルを破壊した、その現場に向かうために、長い時間を歩いているとき、わっと、のし掛かってきた犠牲者の魂と同じ気配を感じました。 それが、「生涯でもっとも長い半日」の始まりでした。 ▼現地で何を見たか、福島第一原発の正門で作業員のかたがたと何を話したか。 それは、できるだけ詳しく、ぼくの撮影した動画とともに4月20日の午後4時48分からの「水曜アンカー」で伝えたいと願っています。 ただし、これはぼくの番組ではなく、ぼくは、いつも申すように、ただの一参加(出演)者に過ぎませんから、勝手はできません。どこまで伝えられるかは、まだ分かりません。
また、同じ日のRKB毎日放送の「スタミナラジオ」でも、時間の許す限りは話したいと考えています。 さらに、前述したように、現地入り当日の帰京後の「チャンネル桜」の収録でも、これは井上ディレクターの質問に答える形で、ある程度すでに詳しく話しました。 いずれ放送されますし、誰でもご覧になれるユー・チューブにもアップされます。 ただ、チャンネル桜の収録になったとき、凄まじい疲労がどっと押し寄せて、みなさんから頂いた質問を読んでいるうちに、眠りこけて、はっと目を覚まして、また読むうちに、またまた眠り込むという有様。 ほんらいの体力の3分の1では、この日、もう限界をはるかに超えていました。 実は、収録を中止し、次回にしようかという話も、井上さんたちと何度もしました。 しかし、身体が潰れてもドタキャンをできるだけしない原則を、どうにか貫いて、3回分の収録を終えました。 実際は、4回分でした。1回分に、情報源のひとりから「話してもいいです」という確認を取っていない情報が最後にちらりと含まれたことに気づき、その収録分は捨ててくださいと、井上さんたちにお願いしたからです。 だからもう、収録は3回分ともぼろぼろ。 聞き苦しかったり、伝え切れていないところはどうぞ、赦してください。 それから、東京コンフィデンシャル・レポート(TCR)の会員には、もっとも詳しく記録をまとめているところです。 遅くとも、明日の午後までには、会員に配信できると思います。 このレポートには、写真も添えます。 ▼それから、今夜4月18日月曜の夜9時から放送されるテレビ朝日系列「TVタックル」でも、きのう土曜日の収録では、かなりお話ししましたから、放送されるかもしれません。 ただし、今夜のタックルは生放送の部分はなく、収録を編集したものですから、どこまで実際に放送されるのかは、まったく分かりません。 過去には、収録での発言がほとんど放送されないことが複数回あり、誇張でなく95%カットされたこともありましたから、今夜も分かりません。 いつも申すように、それはテレビ局の正当な編集権です。
▼この個人ブログではとりあえず、もっとも印象の強かったことを、象徴的に挙げておきます。
・特に、20キロ圏内から原発の正門までは、生活感がそのまま残る村と街に、人だけが居なくて、そんな恐ろしい光景は、亡骸が転がり、肉片が民家の壁の跡にこびりついていたイラクの戦地にもなく、桜がみごとに咲き乱れているのが、ほんとうに悲しかった。 ここを「戻れない村」、「戻れない街」にしてはならない、そのためには懸命に寄与しようと、こころ深く、あらためて意を決しました。 ・正門と、その付近で話した作業員はみな、素晴らしく落ち着いていて、目の光りも強く、話しぶりも確信があって、感動しました。 わたしたちの祖国は、宰相や大臣や、官僚機構の首脳陣や、電力会社の首脳陣には頼むに値しない、私心のひとびとも多いけれども、現場、最前線で戦う国民は、気持ちが澄みわたるほどに私心なく、頼もしいこと、それが希望です。 ・ぼくが胸のすこし下に付けていた線量計の計測値は、夜明けから午前11時まえごろまでの積算で、23マイクロシーベルトでした。 数値としては、やはり大きくない。 ただし、専門家の端くれとして『確実に放射性物質が漏れ続けている』ということを、むしろ強く実感しました。 漏洩を1日でも早く、ではなく、1分でも早く止めて、あの静まりかえった村や街に、ふたたび明るい声が響くように、みなで、国家と国民全体で戦いたいと考えました。 エネルギーや原子力に対する姿勢や考え方がどれほど違っていても、「あの地が、かけがえのない古里であったり、たいせつな生活や仕事の場であるひとびとに、やがて、戻ってもらう」、この目標については、一緒に連帯して戦いたいと、考えました。 (中略) (転載終了) (コメント) この青山繁晴氏のように現地に入った人の発言には説得力がある。 小出のように遠くからただ危ないとばかり言っているだけでは、風評被害を助長するだけだ。
|