07. 2012年2月06日 04:56:45
: E7RJEsnjtc
リンどバーク回想録が有名ですね。他にも民間人や女子供を皆殺しにしていたという公文書はありますよ。日本人捕虜は皆殺しでしたからインデアンや現在の放射能での福島ジェノサイドと同じですよ。シルバー回顧録をはります :人種蔑視に基づく残虐行為 [シルバー回顧録] http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1a.htm#zangyaku (貼り付け開始) 日本軍のおこなった残虐行為については東京裁判以来耳にタコができるほど聞かされてきましたが、それに対して連合国側の将兵は、戦場において国際法を遵守し立派な行動をとってきたのでしょうか?、決してそうではありません。彼等は有色人種に対する蔑視から、日本兵以上に残虐行為をしてきたのです。 しかし勝てば官軍という言葉があるように戦勝国にとって都合の悪い行為は、意図的に覆い隠され責任を問われることもなく、敗戦国側の行為のみが責任を追及され、誇張されて報道されたに過ぎないのです。 連合国側がおこなった非戦闘員の無差別大量虐殺、戦場における捕虜の虐殺や戦闘能力を失った者に対する虐殺以外にも、戦死者の遺体に加えた冒涜行為などは日本人の宗教的感覚とは相容れないものであり、その実態は彼等の残虐行為を戦場で体験し、目撃した者が書いた以下の著作にあります。 その中には米軍兵士の残虐行為を目撃した米国人のものも、数多くありました。 (1)、沈没艦船の兵員の運命 昭和二十年(1945年)四月七日沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)、駆逐艦三隻が敵の空襲を受けて沈没しました。 「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立った米軍戦闘機の群が執拗に来襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」(矢矧の原艦長の証言)
「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、米軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた。」(著書、「伊藤整一」、大和と運命を共にした第二艦隊司令長官) 同様な残虐行為はニューギニア近海でもおこなわれました。昭和18年3月3日に起きたビスマルク海戦(空襲)の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船8隻と駆逐艦4隻が敵機の攻撃により沈められましたが、沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり漂流中の千名の兵士達に対して、アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影のカメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。 「決して男らしいやり方ではなかった」と第五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告しています。「隊員の中には気分が悪くなる者もいた」。 救命ボートやその周辺を文字どおり血の海に変えたその殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが十年ほど前にオーストラリアのテレビ局から放映されて、国民に大きなショックを与えました。「我々はフェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。(容赦なき戦い、ジョン・ダワー著) ちなみに日本海軍では漂流者に対する攻撃を禁止していました。 (2)、米海兵隊兵士による蛮行 昭和十七年(1942年)八月十七日の早朝、カールソン中佐率いる海兵隊は、西太平洋のギルバート諸島のマキン島にある日本軍前哨陣地を攻撃し、守備隊を全滅させました。しかし彼等が戦場で敵の遺体におこなった蛮行は、アメリカ海兵隊の歴史に恥ずべき汚点を書き加えました。 これが手始めとなり、その後の太平洋各地での戦場からベトナム戦争に至るまで、米軍兵士による敵の遺体を冒涜する行為は、各地で続けられましたが、いずれも人種的偏見、蔑視に基づく行為でした。
(その一) ルーズベルト大統領の息子で海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加わっていたカールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日本兵の口中に詰め込んだ。 太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、またテレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサーであるシャーマン・グリンバーグが、二十年後にカールソン隊員の一人にその時の模様を(テレビで)詳細に語らせている。その隊員は戦友たちのやった蛮行を写真に撮っていた。
(ジョセフ・ハリントン著の「ヤンキー・サムライ」から)
(その二) マキン島へ救援に赴いた私(谷浦中尉)は、戦場で妙なことに気が付いた。どういうものか仰向けになった屍体が十五〜六あり、しかもすべて下腹部を露出している。死後一週間経っていたため原形は完全に崩れていて、顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。 どうしてこんな格好をしているのだろう。被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたのか?。アメリカ兵といえばキリスト教徒であり、日本人以上に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった誰一人として思いつく者はいなかった。 戦後五十年経って意外な事実を知り、愕然とした。それはマキン襲撃の際に行われた、海兵隊の蛮行を物語る出版物を読んだからである。 (マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英夫著)
(その三) 作家上坂冬子の著書によれば、硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は壱千個にもなる。彼等はそれでロウソク立て、灰皿やペン皿を作ったといわれ、また硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するものが、ロサンゼルスの骨董店で一個二十五ドルで売られていた。(硫黄島いまだ玉砕せず) (その四)、リンドバーグが見たもの 1927年(昭和二年)にチャールズ・リンドバーグはニューヨークからパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功したが、この偉業は後に「翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」の題名で映画化された。彼は1944年(昭和十九年)にニューギニアの米軍基地で陸軍将校として四ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「第二次大戦日記上巻、下巻」として出版した。 それによると彼は戦場で見たものにショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。 たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラもないことを発見した。 そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単なる動物としか見ていなかった。 注:) ニューギニア戦線において捕虜となった日本兵の数がなぜ少なかったのか、その理由は以下を読めば納得できます。 Yellow Monkey (黄色い猿) 1944年(昭和十九年)六月二十一日の日記には、日本人捕虜にタバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、のどを「真一文字にかき切った」というのを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将軍との会話を要約している。残虐行為に対するリンドバーグの異議は、嘲笑と「あわれみ」をもって軽くあしらわれた。 六月二十六日の彼の日記には日本兵捕虜の虐殺、およびパラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。降伏し捕らえられた千数百人という日本兵捕虜のうち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か二百人に過ぎなかった。残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。
「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろう」とリンドバーグは聞かされた。つまり黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった。 七月十三日の日記では、「われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を射殺することをなんとも思わない。彼等はジャップに対して、動物以下の関心しか示さない。こうした行為が大目にみられているのだ。」と記されていた。 八月三十日にリンドバーグは、中部太平洋ギルバート諸島にあるタラワ環礁を訪ねた。そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。 ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて収容施設のある地域に輸送する際に、彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた。そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。(以上、第二次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ著) 捕虜を取らない、とは ニューギニア戦線でのオーストラリア軍やマッカサー指揮下の第四十一師団は、「捕虜を取らない」つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵を殺するので有名だった。 軍事歴史家デニス・ウォーナーは1982年に出版した日本の特攻隊に関する本の中で、ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。
「しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、部下の大佐が司令官に反論した。 「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)は答えた。「捕虜はいらない。全員射殺してしまえ」。そして彼等は撃たれた。 日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、戦時中の日本からの対米宣伝放送(東京ローズ)では、第四十一師団のことを「屠殺者、Slaughterer」と呼んでいた。 終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、第四十一師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが付けられていた。この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。(容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著) 病院に対する爆撃 昭和十九年(1944年)五月二十四日にブーゲンビル島ラバウル基地にあった第八海軍病院が、米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら千四百名が死傷した。病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように赤十字の標識を大きく塗装していたにもかかわらず、それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。 それ以後日本軍は病院施設に対する国際法違反の攻撃を防ぐために、地下壕や洞窟内部に病院を設営することにした。
遺体を損壊する行為 日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、米国民の間で戦時中からよく知られていた。 日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、ジャーナリストのリチャード・トレガキスが記録している。「ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、それを頂いてネックレスでも作るかな」と一人が言う。「おれは奴らの耳を持って帰るよ」ともう一人が宣言する。「塩漬けにしてな」。(ガダルカナル日記、1942年)
戦後出版された水兵の日記の1944年(昭和十九年)七月の記述に、すでに十七個の金歯を集めた海兵隊員がいて、その最後の金歯はサイパンで負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、と事もなげに述べられている。(容赦なき戦争、ジョン・ダワー著) 太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、日本兵の死体から 手を切り取って戦果のトロフィーとする、金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活から、解放してやっただけだ」 と気にも留めない海兵隊員の様子を目撃した。(E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録) (その五) フィリピンのラグナラ州カランバには日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、ここはフィヒリピンにおける最大規模の収容所であった。米軍の発表によれば収容された捕虜のうち、戦争が既に終了した昭和二十年(1945年)末までに、栄養失調で死亡した日本兵捕虜は一万二千人にものぼった。 もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑になったことは間違いない。しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われなかった。 そこには「バターンの死の行進」に対する復讐の意図から、敗戦後も栄養失調状態であった多数の捕虜に対する十分な食糧(栄養)補給をさせなかったからである。(孤島の土となるとも、 B C 級裁判) (その六) ベトナム戦争においてもかなりの数のアメリカ軍兵士がベトナム人の頭蓋骨を収集していたが、アジア人がアメリカ人兵士の死体に対してこのようなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるかは、考えてみる価値があるだろう。 (米英にとっての太平洋戦争、下巻)
太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッセル・スーパーは述べています。 「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、気がとがめなかった。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すよりも悪いことではないと言明した。この残虐性は四ヶ月後に広島でその頂点に達することになる。」 (著書、戦艦大和の運命) |