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山本五十六の真実E鬼塚氏が発見した日本の真実−白洲次郎とは何者か
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 30 日 16:19:45: 8qHXTBsVRznh2
 

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。

以下本文。


で、もう一つあります。白洲次郎という男が非常にもてはやされております。これから白洲次郎という男について語ります。この男を語ると昭和史の闇が見えてきます。彼は白洲商会というのがあって、親爺は繊維問屋をやってて、繊維不況の中で倒産します。小さな会社です。親爺は倒産してどうしたかというと、九州の山の中に掘っ立て小屋を建てて、借金取りから逃れて、そこで一生を終わる男です。ちょうど白洲次郎がケンブリッジ大学に行ってるんですね。倒産します。で白洲次郎はどうしたか。白洲次郎は当時のイギリスのクラッシック・カーを乗り回して盛んに遊びます。なぜそんなことが出来るのか?


白洲次郎を助けた男にジグムント・ウオーバーグというのがいます。これはドイツにロスチャイルド家と並んでウオーバーグ家というのが二大財閥でいます。ロスチャイルド家と一時同じくらいの力がありました。そのウオーバーグ家から息子たちがドイツから、長男と次男が残って、ジークムントという従兄弟がイギリスに渡ります。そしてポールという弟がクーン・ローヴ商会という所へ行って、そこの娘と一緒になります。ポールはFRBを創る男ですね。


ジークムントはS・G・ウオーバーグという金融会社を作り、国際金融システムの一員となるんです。その当時ロスチャイルドと対抗できるくらいの金融家にイギリスでなるわけです。その男が生涯にわたって金もなくなった男に巨大な金を与えてケンブリッジに行かせて、その後も一生大事に育てるわけです。おかしいと思いませんかこれ。僕はねどうもこの男(白洲次郎)は日本人じゃないんじゃないか、ウオーバーグの子どもじゃないかという考えをずっと持っておりました。で、ちょっと前に『1945年占領史』という本が出まして、その本を読みました。徳本栄一郎という人が書いた本で、その中にですね、妙なことを書いてました、結局、彼はホワイトクラブというのがあるんですが、最高権力者、チャーチルとかロスチャイルドとかMI6の長官とかトップクラスの者が入る、イギリスの最高の貴族クラスが入るクラブの会員であったと。(注 会員ではないが出入りしていた)貧乏人の男で親父が掘っ立て小屋に住んでるのに、どうして彼はできるんだろうと。


そしてまた彼の『1945年占領史』という本を読んでいる時に、ああそういうことかと思いましたね。彼が日本に帰ってきて、ある雑誌社でしょうね、ジャパン・アドヴァタイザーという、『ジャパン・オブザーバー』という雑誌社の編集員になる。そして彼が記事を書いてるすべての記事は、ジョン・シラスと書いてる。そうなんですよ、彼は白洲次郎である前に、ジョン・シラス・ウオーバーグなんですよね。僕はそう思います。だから彼は親爺が掘っ立て小屋を建てて借金から逃げているのに、ずっとクラッシック・カーを乗り回して・・・白洲正子というのが女房なんですけど、白洲次郎のことを盛んに書いてます「白洲次郎はイギリスで最高の暮らしをしていました。クラッシッ・カーを乗り回していました」」と。なぜそれが出来るか。それは間違いなく彼は、僕ははっきりそう思います、彼はジークムント・ウオーバーグの子どもであると。


◎鬼塚さんの凄い卓見である。
徳本栄一郎氏は白洲次郎の優れた資料を発掘しているがここまで言及できない。
白洲次郎はユダヤ財閥ウオーバーグ家の庶子であると私も思う。
しかし資料を読むと父親はアビー・M・ウオーバーグだと思われる。
母親はフィレンツエにいた東洋系の女性だと思われる。

アビーはボン大学で美術史を学んだ関係で、フィレンツエを訪れる。
以後ずっとフォレンツエに執着して住んでいるのである。
ウオーバーグ財閥の棟梁息子がである。
その後アビーは、マリーという女性と結婚をする決心に8年もかかっている。
しかし結婚するやいなやフォレンツエに戻って暮らすのである。
そしてアビーは重度の心身症を引き起こす。
フォレンツエでの新婚生活は早くも破綻するのである。
アビーが本当に愛しているのは次郎の母親で、
おそらくマリーとは偽装結婚だったのだろう。
マリーは終生寡黙に欺瞞の結婚生活を耐えたようだ。
アビーは「神は細部に宿る」というあの有名な金言を作った美術史家である。
しかし生涯プーを貫き、後年フロイトの患者になるほど精神状態が悪化していく。


再び鬼塚氏DVDより

そこから見ると全部歴史の闇がはっきり見えて来ます。アメリカにジークムント・ウオーバーグの従兄弟が渡って、クーン・ローヴ商会の共同責任者、ロスチャイルドの作った会社の共同責任者になり、シフの娘をもらいます。経営者のね。そして彼が何をやったかというとFRBの創設者がウオーバーグです。

◎この辺は込み入っているので、
ロン・チャーナウ『ウオーバーグ ユダヤ財閥の興亡』
を参考に簡単にまとめてみる。

ウオーバーグ家は本家と分家の二つがあって、
アルスター湖の辺に居を構える本家と、ミテルヴェークに居を構える分家がある。
かの有名な五人兄弟を輩出したのは、分家のミテルヴェークの方である。
ミテルヴェークの者は、ミドルネームにモーリッツを表すMを入れる慣習がある。

アビー・M・ウオーバーグは五人兄弟の長兄である。
風貌はオッペンハイム家出身の母親シャルロッテの血筋を引いたのだろう、
黒髪・暗褐色の目・浅黒い肌をしている。
そんなアビーを母親シャルロッテは溺愛している。

まず四男のフィーリクスが、母親の実家のN・M・オッペンハイム商会に派遣される。
オッペンハイム家の晩餐にジェイコブ・シフ父娘が招かれ、
フィーリクスと娘のフリーダが引き合わされ結婚する。

三男のポールはフィーリクスの結婚式で、ソロモン・ローヴの娘と意気投合し結婚する。
ローヴはシフの義父であるので、ポールはシフと義兄弟になったことになる。
これが縁でM・M・ウオーバーグとクーン・ローヴ商会が固く結ばれる。

長男アビーが芸術志向だったので、代わりに次男のマックスが家を継ぎ、
ハンブルク・アメリカン・ラインを世界有数の船会社に育て上げる。
ハンブルクは世界の一大物資集散地へと変貌していく。
シフ家に高橋是清の娘・和喜子が三年間も滞在したように、
ハンブルクのウオーバーグ家にも三井家の一族がよく立ち寄る。

次男マックスはアステルダムに出先機関としての銀行を設立する。
次男マックスが会長、三男のポールと五男のフリッツが副会長に納まる。
この銀行はナチ政権出現後のウオーバーグ家の活躍の場として、かけがえのない役割を果たす。

ウオーバーグはナチスに最大の被害を受けた財閥のように振舞っているが、
裏ではナチスと結託して一般ユダヤ人を踏みつけにしている。
またウオーバーグは戦後汎ヨーロッパ同盟に6万金貨マルクを提供しているが、
この同盟はもともとナチスドイツの超ウルトラ諜報機関から生まれたものである。


◎『LEGACY OF ASHES』様より転載させていただきます。


『欧州連合はDVD(Devtsche Vertedigungs Digest)にとって長期展望に立ったものである。DVDはAbweherとゲーレン機関(Gehlen organisation)から生まれたもので、ナチの超ウルトラ諜報機関である。1943年マドリッドに本部が置かれたが、現在はミュンヘン郊外のダッハウ(Dachav)にあるが地図にはない。ここがロスチャイルドの司令塔だ。』


『ナチス・ドイツの千年王国(The Thousannd Year Reich)は変らず、実はこの欧州統合のためのマーストヒリト条約(Maastricht Treaty)の原点は、1942年ベルリンでのナチによるセミナーが叩き台になっている。Europian Economic Community(原文はドイツ語)と題する591ページの本が1942年ベルリンで発刊された。EDWARD HALE氏(クリストファー・ストーリー)が英国図書館のリーデイングルームで発見した。』


『恐ろしいことである。古い記事で三極委員会とゴルバチョフの密約まで書きましたが、当時フランスの大蔵大臣であったジスカール・デスタンのみが、3年後にこの条約が締結されることを知っていた。ゴルバチョフにソ連を解体しEU設立に協力する見返り(一億ドルの現金)が話し合われた。今のEUはナチの千年王国(New World Oreder)の実現のための過程なのです。FEMAキャンプでの人間の色分けは、ナチのSS物語・死者の順序に基づいている。』


『幸いなことにこの陰謀において、ソヴィエト側は事態に影響を及ぼす前に崩壊してしまいまいした。しかしもともとの理念には、彼らが乖離縮小と呼ぶものが含まれています。つまりソヴィエト連邦は幾分軟化して社会主義のようなものになる反面、西欧は社会民主主義と社会主義に変る。その後、互いの間にある距離はどんどん縮まり、ついに構造的に同化するという。これこそ欧州連合が初期においてソヴィエトの体制に合致することを目的としていた理由なのです。これこそ、なぜこの2つが互いに機能的・構造的に近似しているかの理由なのです。』


『このヨーロッパに出現した怪物の構造と特徴を調べれば調べるほど、それがソ連と似ていることにますます気づくことでしょう。もちろんそれはソ連ほど過激な体制ではありません。どうぞ私の発言を誤解しないでください。わたしはそれが「収容所」であると言っていません。KGBがあるわけでもありません。しかし、例えば、私はユーロポルのような組織に注目しています。私がこの組織を真に警戒しているのは、それが恐らくKGBよりも大きな権力を持つようになると予想しているからです。』


『ユーロポルには外交的特権が与えられるでしょう、外交特権を持ったKGBなど想像できますか?ユーロポルは32種類の犯罪について私たちを監視するでしょう。その一つはとくにゆゆしきものです。人種差別です。別名、外国人嫌悪症。地上どの刑事裁判所においても、このようなものを犯罪として扱うところはありません。(これは完全に事実とは限らない。ベルギーではすでにそうしている。−ベリーン)』


『私は今起こっている事柄によって、誰が迫害を受けているか注意深く観察しています。なぜならばこれは私が専門とする分野だからです。私は収容所の時代が迫りつつあるのを感じます。今後もっとも起こる可能性が高いのは、ヨーロッパの経済的破局です。特にユーロの導入は狂気の産物でした。通貨は政治的に決定されべきではない。私はこれについて確信があります。ソ連が崩壊したように、欧州連合も崩壊するでしょう。』


引き続き鬼塚氏のDVD本文。


そのウオーバーグの息子にジェームズというのがいます。彼がちょうど戦争が始まるとOSSのアジア担当の情報部に入ります。でウオーバーグがさかんに日本工作をして、グルー大使と交流します。その過程で白洲は、カントリー・ジェントルマンとかカッコ良い名前でみなさん呼んでますけど、鶴川に隠棲したってなってますけど、そうじゃありません。そこに巨大な無線基地を作り、全部イギリスからアメリカの情報をもらって、そして彼が吉田茂と樺山愛輔に情報を流すんです。


吉田茂についてなぜヨハンセン・グループなのか、吉田茂がなぜ首相になったかっていえば、ちょっと脇道にそれますが喋ります。吉田茂は長崎の女郎が生んだ訳の分らん子どもなんです。吉田健三という、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド系のアヘンを主に扱った商社があります。その商社の日本代理人に吉田健三というのがおりました。この吉田健三がある女郎屋に行って、「あの娘はどうした?」と言うわけです。店の人「あの娘は子どもが出来た」健三「誰の子供か?」店の人「分らない。それで今引っ込んでいる」健三「その子ども連れて来い」健三「お前はどうして子どもを作ったんだ?」娘「いや好きやから」健三「馬鹿なことするなあ。どうする気か?」娘「どうしようもない。育てないといけない」健三「じゃオレが子どもがいないから貰ってやろう」。で、女郎の子どもをもらって吉田健三が育てる過程で、友だちのある男を介して「お前の子どもにしてくれ」「分った」というので一応四国の名家の名前を借りましたけど、吉田健三がその子を育てるわけです。


(吉田健三は)金持ちですから、全財産を吉田茂が貰うんですから、長じて東大に入る時も、『回想十年』て本に書いてます「俺はバカやったけど裏口から入った」と本人がちゃんと告白してます。で、彼は東大出て、外交官になってイギリスへ行くけど、英語はうまく喋れない男なんですよ。これはもうはっきりしてます。講和条約の時英語で喋ろうとしたらアメリカから待ったがかかった。「お前の英語は意味が分らん。だから日本語を喋って通訳を通せ」。これはイギリスの外交文書を見ると、外交官が書いてます。「この男は何者なのかね?外交官のくせに英語が何も喋れない」。ところが白洲次郎は喋れるわけですね。完璧に。それで吉田茂は総理になった時に、マッカーサーと司令部と日本の外務省を結ぶ終戦連絡事務局というののトップに据えるわけですよ。そして交渉させる。


ウオーバーグのルートで吉田茂を育てたジャーデイン・マセソンという香港を舞台にした麻薬中心の会社に、白洲次郎が日本製鉄が四つに分かれる時に広畑製鉄所を作ってマセソンに売りつける。日本を売ることに何の心に痛みを感じない男なんですね。これがまさしくコンプラドール。吉田茂も同じなんですよ。日本の支配者はほとんどがみんなイギリスの金融機関ロスチャイルドからウオーバーグ、それからアメリカの金融機関の連中のコンプラドールであったと思います。だから松本重治といって、ロックフェラーに取り入って日米文化会館とか国債会館とか作ったやつもみんなコンプラドール。それから有末精三といいますが、これもみんなコンプラドール。悲しいかなコンプラドールだらけなんです。そこから見ると戦後がみんな見えて来ます。戦後もそういうやつが溢れていて、心の痛みを感じないやつらが、なぜ日本のリーダーになったのか。私たちはそこを正さなくては、未来はないと思います。


以上鬼塚氏のDVDからの抜粋。


◎徳本栄一郎『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』より抜粋。


『英国東部は教会を中心に発達した小さな町が多い。その一つケンブリッジはロンドンの来た80キロにある。中心部のキングス・パレードからトリニテイ・レーンの路地を進むと石造りの校舎が見える。ここがクレア・カレッジ、14世紀初め、英国王エドワード一世の孫娘クレアが設立した名門校だ。『ヒューズ女史「お待ちしていました。あなたが探しているのはこの人物でしょう」著者「ええ、これです。ミスター白洲に間違いありません」今から80年以上前、ケンブリッジ大学に入学した白洲次郎の記録だった。』


『1902年、兵庫県芦屋の実業家の家に生まれた白洲は神戸一中卒業後、英国留学した。帰国後は様々な職業に就き、戦前は近衛首相のフブレーン、戦後は吉田茂首相の側近を務める。憲法制定などGHQと折衝を行い、通商産業省創設や電源開発に関わった。戦後の政財界要人だった人物だ。1985年、彼は生涯を閉じたが、近年「白洲ブーム」というべき現象が起きている。日本人離れした長身、英国流ダンデイズムを身につけGHQと対等に渡り合ったなどと言われる。「プリンシプルを貫いた」「従順ならざる唯一の日本人」などと形容詞も多い。』

◎後述するがこれは全部白洲本人が流布させたプロパガンダである。


『かつて私は白洲を戦後史の目撃者としつつ特別な関心はなかった。それが本格的に興味を持ったのは四年前、ロンドンの公文書館で戦前、戦後の日英関係ファイルを調べた時だった。英国外務省や情報機関が作成した膨大な文書である。その時不思議に感じたのは文書にしばしば白洲の名前が登場した事だ。その後入手したGHQの文書も大量の白洲ファイルを含んでいた。これを読むと占領期、彼がGHQと深く関わったのは間違いなかった。』


『さらに興味深いのは世間の白洲像の変遷である。白洲がマスコミを賑わせ始めたのは19050年代、吉田内閣の頃だ。前著を書くに当たり当時の記事に一通り目を通してみた。驚いたのはキャラクター・アサッシネーション(人格抹殺)とすらいえる批判の連続だった事だ。「傍若無人」を初め「陰謀家」「吉田内閣宮廷派長官」「ラスプーチン」と言葉が並び、露骨な個人攻撃もあった。半世紀で評価が逆転してしまったのだ。これを見て私は白洲に人間的興味を抱き始めた。占領の裏面を知る白洲次郎とはどんな人間なのか。彼とGHQにどんなドラマがあったか。』


◎後述するが白洲本人が逆転させる謀略を図ったのである。


『ヒューズ女史「当時のクレア・カレッジ入学者は上流界級の子弟か、極めて成績優秀な者に限られていました。女子学生も皆無で現代とは全く異なる環境でしたね」著者「つまりリッチな人間かスマートな人間、いずれかの条件が必要だった訳ですね」ヒューズ女史「その通りです」ヒューズ女史「これは第一次世界大戦と第二次世界大戦で戦死したクレア・カレッジの卒業生ですよ」私は一瞬驚いて石碑を見つめた。表面に人命がびっしり刻まれ、第一次世界大戦の方がはるかに多い。ざっと200名はあるだろうか。』


◎後述するが白洲次郎は辰巳栄一に依頼して赤紙召集を誤魔化してもらっている。
辰巳は吉田茂のロンドン・コネクションの一人である。


『1928年、英国から帰国した白洲が就職したのは英字新聞ジャパン・アドバタイザーである。(後の白洲の妻・正子も白洲と同じ1928年、金融恐慌でニュージャージー州のハートリッジ・スクール留学を切り上げて帰国している。そして1929年11月結婚)ジャパン・アドバタイザーを読んで気になったことがある。白洲の記事の署名が「ジョン・シラス(Jon Shirasu)」となっていたのだ。なぜ本名でなく英語名なのか、他の日本人は本名で寄稿しており強い違和感を覚えた。また記事を丹念に読むと白洲が日本に一定の距離を置いていたのが分る。同胞を「彼ら(They)」と呼び、日本文化も欧米の視点で見た物が目立つ。まるで自分は日本人ではないと言わんばかりだ。白洲は独自の帰属意識を持っていたのではないか。それが日本人離れした観察眼、構想力を生んだのでは。この「彼ら」は後に占領期の白洲を知る重要なかぎとなるのだった。』


『終戦から間もない1945年の冬、日々やの第一生命ビルにある男が出入りしていた。長身をスーツに包み、顔見知りの米軍将校を見つけると「ハーイ」と叫んで手を振る。正面玄関でなく裏手通用口から入る事もある。身なりも態度も日本人らしくなく、高価な葉巻やウイスキーを会うたびに配っていた。いつしかGHQで「調子のいい男」と呼ばれていた。彼の名前は白洲次郎、43歳、新しく設置された終戦連絡事務局の参与である。これはGHQと日本政府の折衝を行う役所で、外務省が機能停止した当時、国の命運を握る組織だった。』


『後に次長となる白洲は第一生命ビルに通いGHQ人脈を広げる。そして彼の最大の仕事、それは6階の民生局に食い込む事だった。民生局は占領行政の中枢で憲法改正、公職追放を担当した部署だ。その政策が国の将来を左右し、意向を掴むのが不可欠だった。そのため白洲は局長のコ^トニー・ホイットニー准将、次長のチャールズ・ケイデイス大佐に接近していた。白洲が英国留学から帰国して17年が過ぎていた。』


『ジャパン・アドバタイザーの記者時代、彼は貴族院議員樺山愛輔の次女正子と結婚した。家庭を築く傍ら外資系のセール・フレーザー商会、日本食糧工業(後の日本水産)などの取締役を歴任する。水産加工品の輸出で北米や欧州を飛び回る日々が続いていた。だが太平楊戦争が始まると東京近郊の鶴川村に引っ越してしまう。以来終戦まで一農民として生きてきたのだった。その白洲をGHQとの折衝に抜擢したのは幣原内閣の外務大臣吉田茂だ。白洲とは吉田が駐英大使時代からの付き合いで気心も知れていた。』


『その後白洲は終戦連絡事務局を退任、初代貿易庁長官として通商産業省設立に関わった。また首相特使として訪米し講和条約締結を話し合う。1951年のサンフランシスコ講和会議には顧問として出席した。まさに占領を目撃した男といえる。ところが生前白洲は家族にすら占領期について話さなかったという。友人にも「不愉快だから忘れたい」「人に迷惑がかかる」と答えた。それどころか晩年、手元の大量の資料を「こういうのは墓場まで持っていくもんなのさ」と自宅の庭で燃やしてしまった。自分の過去はもちろん活動の痕跡まで消してしまったのはなぜか。』


『かつて「英国機密ファイルの昭和天皇」を書いた時、私はラドウンを取材した事がある。白洲とは1970年代、仕事で来日した際よく二人で食事したという。そのきっかけを作ったのが彼の父で国際石油メジャー、ロイヤル・ダッチ・シェル会長ジョン・ラドウンだった。オランダの名家に生まれたジョン・ラドウンはユトレヒト大学卒業後シェルに入社、世界中の油田開発に携わった。1950年代、会長に就任。米国のデーヴィッド・ロックフェラーなど各国政財界にコネクションを持ち、ロックフェラー財閥の中核チェーズ・マンハッタン銀行のアドバタイザリー・コミッテイー委員長も務めた。1996年国際ビジネス界の重鎮だった人物だ。そしてこのジョン・ラドウンと個人的親交を結んだのが白洲だった。戦後の一時期、彼は日本でのシェル顧問も務めた。』


『「一言で言えば次郎はエリート主義だったと思いますよ。かれがケンブリッジで学んだ1920年代は今より上流階級がはっきりしていました。次郎は西洋化されていましたが傲慢な一面もありましたね」こう言ってラドウン(息子)はあるエピソードを教えてくれた。1970年代のある晩、ラドウンは白洲と夕食を共にした。場所は銀座ソニービル地下の「マキシム・ド・パリ」、日本初の本格的フランス料理店である。二人が食事していると一人の日本人がテーブルに近づいてきた。白髪の年配の紳士で穏やかな笑みを浮かべている。彼は白洲に丁寧にお辞儀して挨拶した。これに対し白洲は微かに頷いただけであった。後日ラドウンは相手がソニー創業者の盛田昭夫だったと知る。』


『これを聞いて私はケンブリッジの白洲の写真を思い出していた。ガウンを着た同級生の集合写真で貴族然とした若者たちだ。卒業後、彼らは政界や実業界に進むが生涯交遊を持ち続ける。特にオックスフォードとケンブリッジの学生は「オックスブリッジ」と呼ばれる強力なネットワークを誇った。白洲もその一員だったのでは。こう言うとラドウンが笑った。「一度英国のエスタブリッシュメントに入れば職場や仕事を変えても繋がりは消えません。それは情報収集にも効果的でしょう。例えば仲間の一人が海外に行くとき、事前に会員制クラブなどで会います。そして現地の政財界要人など調べて欲しい事柄を伝えます。帰国後、彼らが入手した情報をクラブで伝える仕組みです。その意味で皆がスパイと言えます」』


『コンピュータが発達した今日、情報はインターネットで入手可能と思われやすい。しかし、それは表に出た情報インフォメーションにすぎない。真にデリケートな情報は信頼の置ける者同士、対価を払って交換される。それがインテリジェンスである。英国の会員制クラブはその最高の舞台装置となってきた。そして白洲が通ったと思われる場所のひとつが「ホワイツ・クラブ」である。創立1693年の老舗で歴代会員はウインストン・チャーチル首相、ロスチャイルド男爵など錚々たる名前が並ぶ。政治家や外交官、ビジネスマンの社交場でSIS(別称MI6)長官も利用した。白洲自身はメンバーではないが彼のエピソードにこのクラブが登場する。』


『1946年3月、白洲は終戦連絡事務局次長に昇進した。やがて彼の力量を発揮する機会が訪れた。讀賣新聞の労働争議である。当時の讀賣は部数200万部、国内第三位の新聞社だった。その社長正力松太郎は警視庁出身で刑事課長を務めた男だ。1945年、正力はA級戦犯指定を受け収監、公職追放されてしまう。正力の後を継いだのは元ジャパン・タイムズ編集長の馬場恒吾だ。だが組合との争議に疲れた彼は辞表を出してしまう。馬場辞任から4日後の1946年6月11日、白洲はGHQ渉外局長のフレイン・ベーカー准将を訪ねた。その時彼は讀賣新聞業務局の幹部が作成した有力共産党員リストを持参した。「白洲はこのリストを手に、しばらく前から交際を深めていたベーカー准将に会いに行った。白洲はさり気なく「讀賣新聞事件」を論じ、馬場は共産党に対抗するために外部の激励を通説に必要としている善玉だとベーカーに納得させた」(「日本占領革命」)』


『白洲の説得は功を奏した。ベーカーは逗子の自宅にこもった馬場を呼び出し温かく迎えた。そして白洲情報をもとに鈴木ら共産党員6名の名前を挙げた。これを馬場は彼らをクビにしてもGHQが支持すると受けとった。その足で会社に戻った馬場は鈴木編集局長らに解雇を言い渡す。当然組合は荒れ狂うがGHQには無力だった。「こうして 讀賣新聞業務局の一反共主義者による手書きのリストが、まるで錬金術のようにマッカーサー指令に変身してしまったのである」(「日本占領革命」)』


『正力と讀賣にとり白洲は恩人となった。その後、彼は讀賣新聞系列の日本テレビ社外役員に就任し深い親交を築いていく。「降伏と第一次吉田内閣発足に伴い、首相はロンドン時代の友人に終戦連絡事務局を任せた。総司令部と日本政府の間の全文書は白洲のデスクを通過する。この時期にGHQの希望とは命令であり、それを知ることは権力であった。白洲は二つの政府の秘密を交わす中央交換台に座っていただ」(レイ・ファーク記者 1951年3月8日 ミルウオーキー・ジャーナル)』


『白洲はGHQ情報に精通し要人の素行まで目を通せたのだ。それは占領政策に影響を及ぼし公私混同と言える行動も生んだ。樺山愛輔の公職追放が良い例である。1846年1月、GHQは日本政府に軍国主義指導者の公職追放を指示した。そしてこの年8月、GHQは終戦連絡事務局に樺山愛輔の追放を指示した。愛輔は海軍大将樺山資紀の長男で、明治初期に米アマースト大学などに留学した。帰国後は千代田火災保険、日本製鉄所の役員や貴族院議員を歴任する。GHQは日本製鉄所が日本の軍拡に果たした役割から樺山を戦争協力者に分類したのだ。ところが約一年後、GHQはある事実を知って愕然とした。日本政府が樺山追放を実施してなかったのだ。』


『彼らは直ちに調査を開始した。ここで疑惑を持たれたのが連絡事務局次長の白洲である。彼の妻正子は樺山の次女で愛輔は舅に当たったのだ。その経緯を説明した報告書がある。「(追放の)覚書は吉田首相が受け取ったが実際の行動は保留された。これを命じたのは終戦連絡事務局次長で樺山の義理の息子白洲だったという。その後、吉田首相はマッカーサー元帥に樺山追放免除を要請する書簡を送った。(中略)これは拒否されたが白洲の命令で追放覚書は棚上げされたらしい」(1947年7月2日 民生局報告書)』


『白洲自身はどう釈明したのか。「彼が吉田首相に追放を伝えた時、吉田はこの問題は自分で取り上げると答えた。対象人物との個人的関係から白洲は関与を控えた。(中略)マッカーサーの回答がいつ来たかは思い出せないという」(同15日報告書)結局樺山は追放され、翌年のGHQファイルは「白洲の高潔さが疑われた」と記述したのだった。ここまで読んで私は言いようのない不快感、嫌悪感を覚えた。当時白洲にはGHQと日本政府のあらゆる文書が集まっていた。その中で最高司令官マッカーサーの回答を忘れる事があり得るのか。もし本当に樺山追放を見逃したなら明らかな公私混同だ。追放された軍人、官僚、実業家は失職し収入を断たれた。就職もままならず彼らの生活は困難を極めたのだ。』


『それ以上にアンフェアなのが白洲の徴兵忌避であった。戦前からの友人で東部軍参謀長だった辰巳栄一は次のような談話を残している。「ただ一回だけ、私は白洲さんをお助けしたことがあるんです。戦争も末期になって、ある日白洲さんが家に見えて、”辰巳さん、俺、招集されちゃったよ”と言われるんです。(中略)白洲さんの時は早速に招集主任に連絡を取りました。白洲次郎という人を説明し、そんな人を招集するなんてけしからんじゃないかと言いました。それで召集取り消しになったんです」(『風の男 白洲次郎』)一般庶民に白洲のようなコネは無縁だった。彼らは歯を食いしばり黙って戦地へ向って行った。』


『ニューヨーク市内のグランド・セントラル駅からメトロノース・ハドソン線に乗ると50分程でターリタウンという町に着く。デイトン通り15番地、ここがロックフェラー・アーカイブ・センター、世界有数の財閥ロックフェラーのあらゆる記録を保管する場所だ。ロックフェラー一族を初めロックフェラー財団、ロックフェラー兄弟基金など関連機関の記録だ。36000立法フィートの書類、50万点の写真は各国元首、王族、実業家の書簡も含む。「Shirasu,Jiro」、1950年代白洲がロックフェラーと交わした書簡リストだった。前述の通り、晩年の白洲は手元にあった大量の書類を焼却している。自分の過去はむろん活動の痕跡まで消そうとするかのように。これが彼の実像をわかりにくくする原因でもある。だが、さすがの白洲もロックフェラー・アーカイブの書類まで燃やすことは出来なかった。私はタリータウンに眠る記録から彼の足取りを追う事にした。』


『1951年1月25日、午後8時25分、羽田空港に一機の特別軍用機が着陸した。やがて機体のドアが開いて長身の米国人が現れた。ジョン・フォスター・ダレス、トルーマン大統領の特使である。マッカーサーや日本政府と協議して講和条約の中身を詰める、それがダレス訪日の目的だった。この軍用機からダレスに続いて一人の米国人が降り立った。年のころは40代半ば、ハンサムだが内気な雰囲気も醸している。彼の名前はジョン・ロックフェラー三世。二世の長男でロックフェラー財閥の継承者だ。今回は文化顧問の肩書きで動向していた。』


『ダレスが吉田と緊迫した交渉を進める中、2月1日の夜、ロックフェラー三世はある日本料理店を訪れた。ある日本人の夕食会に招待されたからだ。仲居に案内されて座敷に上がると数人が待っていた。一座の中心は痩身の老人である。若いときに米国留学して流暢な英語を話す。彼の名前は樺山愛輔、戦前の伯爵で日本政財界の重鎮だった。その横にある中年夫婦が座っていた。夫は平均的日本人より背が高く端正な顔立ちだ。長く英国で暮らしたらしく流暢なケンブリッジ・イングリッシュを話す。妻も米国留学しており英語ができるようだ。二人とも洗練された印象だった。彼らは白洲次郎と正子、樺山伯爵の次女と義理の息子だった。他に樺山の長男紐二(ちゅうじ)、三世の前からの友人松本重治(注 白洲次郎の秘密工作の実行犯)が同席していた。』


『1952年4月16日、ロックフェラー三世はダレスに80ページの報告書を提出した。テーマは「日米文化関係」、後の駐日大使エドウイン・ライシャワーらの協力で作成したレポートだ。講和後は政治・経済に加え文化交流を促進するカルチャー・センターやインターナショナル・ハウスを開設するという。後者は樺山愛輔らの支援で国際文化会館として実現した。同時に彼らが注目したのが知識層へのアプローチだった。権威主義の日本では知識人が世論に大きな影響を及ぼす。彼らを活用する事で親米派を増やせると見た。その候補者の一人が正子だったのだ。』


『アーカイブの文書を読むと、当時ロックフラー家と白洲家が家族ぐるみの交際をしていたのが分る。来日した三世夫妻は軽井沢でゴルフを楽しみ、正子や長女桂子(かつらこ)にクリスマス・プレゼントを贈った。白洲との書簡も「ジョン」「ジロー」とファーストネームで始まり社交儀礼以上の関係だと分る。白洲は日本の財界人をロックフェラーに紹介する役も演じた。戦後間もない日本は経済復興に必死だった。その中でロックフェラーとのパイプは魅力的だったはずだ。白洲はロックフェラー三世と直接パイプがあった。一族の後継者とファーストネームで呼び合い、いつでも面会のアポを取れる。政財界が彼を頼ったのは当然であった。アーカイブは白洲正子のファイルも保管している。正子もロックフェラー三世、特に妻ブランシェットと仲が良かった。』


『一次書類が少ないため白洲の逸話は本人の言葉に頼りやすい。それは時に”白洲伝説”を生み一人歩きしていった。サンフランシスコ講和会議のエピソードが良い例だ。1951年9月8日、日本側全権代表の吉田首相は講和条約の受諾演説を行った。この結果、占領が終わり国際社会に復帰したのは歴史が示す通りだ。その演説直前ちょっとした騒ぎが起きたという。発端は白洲だった。この会議に白洲は全権団顧問の肩書きで参加していた。演説の二日前、彼は吉田から演説原稿に目を通すよう依頼された。一読して彼は激怒した。占領への感謝を並べた上、英語で書かれていたのだ。後に白洲は雑誌の回顧記事でこう述べている。「いかに敗戦国の代表であるとはいえ、講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手と相談した上に相手側の言葉で書くバカがどこにいるか。ぼくは、外務省の役人らの身体にすっかりしみついてしまった”植民地根性”に、ただただあきれかえるばかりだった」白洲の一喝で演説は日本語に変更された。急遽和紙と毛筆が容易され、巻紙に記された原稿を吉田は読み上げたのだった。白洲の気骨を示す逸話として今や史実とされる。』


◎『白洲気骨を示す逸話』を書いて『史実』にしているのが青柳恵介である。
その著書『風の男 白洲次郎』には、驚くべき白洲次郎の言動が描かれている。
吉田と白洲が組んで戦後占領期のドサクサにやっていたトンデモが、
彼らの手下の証言を引用しながら描かれているのである。
二人が組んでやった売国奴工作の実態が手に取るように分る。

しかし作者青柳の意識としてはそれをカッコいいと思って書いているらしい。
青柳恵介が白洲次郎の自己申告を『史実』にした代表例は、サンフランシスコ講和条約の逸話だろう。
NHKドラマでもこのエピソードソードが放映されて、白洲ブーム再燃となっているようだ。

◎青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より

『吉田茂が演説を行う二日前、白洲の許に吉田から電話が入り、主席全権の演説原稿に目を通してくれたかという。まだ見てないと答えると、早く見てくれという。「外務省は僕に見せると文句をいうと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感激とかいてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。英語のこういうものを日本の主席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろといったんです。(『昭和政治経済への証言』下)』


『白洲は外務省の随員に、書き直せと言いわたすと、その随員は草稿を抱え、白洲に渡すまいという姿勢をとった。白洲は怒り、渡せと、英語で怒鳴った(外務省では、その後白洲次郎は怒ると言葉が英語になってしまうという評判が立ったという)。草稿をひったくった白洲は外務省翻訳班長の小畑薫良(憲法の草案を白洲とともに翻訳した人である)を呼び、こういう趣旨の演説に改稿すると言い渡し、草稿の英文も生かしつつ日本語の原稿に改めた。そこに以前の原稿では一言も触れられなかった沖縄の施政権返還を白洲はもり込ませた。なるべく早期に沖縄を返して貰いたい、と。二日後、吉田茂は巻紙に書き記された日本文を読み上げた。しかし各国の高官たちには従来の英文が事前に配布されていた。』

『白洲は帰国早々、9月30日号の「週刊朝日」に「講和会議に随行して」という一文を寄せている。その一節に次の如くある。「調印の時も、演説の時も、総理の態度は本当に立派だった。その姿を見ながら、総理はやっぱり昔の人だなと言う感じが強かった。昔の人は我われ々と違って、出るべき所に出ると堂々とした風格を出したものだ。総理が、自分のポケットからペンを出してサインしたのも、いかにも一徹な総理らしかった。各国全権のうち、備え付けのペンを使わなかったのは、総理だけだったので、大変な反響を呼んだ。なぜ自分のペンを使ったのだろうかと、不審に思った人も沢山いたようだ。総理はなぜ日本語で演説したかという理由については、こまかいことは知らないが、英語でやるか、日本語でやるかを、前からはっきりきめていたわけではない。演説の草稿は英語で書き、それを日本語に直して演説したのだ。だから、議場で演説と同時にイヤホーンで放送したのは、その草稿の英文だった。」』


『「なぜ日本語で演説したかという理由」云々は、オトボケであると同時に皮肉であろう。吉田が巻紙の原稿を読み上げたとき、一部のアメリカ人は「あれはトイレット・ペーパーか」といぶかったという。自分のペンを使ったことを不審に思った人がいても不思議ではない。白洲は吉田を”昔の人”と言い、その堂々とした””一徹さ”に改めて感動を催している。』

以上抜粋。


◎青柳恵介は白洲次郎が掛けたバイアスの呪縛の中にいる作家である。
この白洲次郎の帰国直後の談話が、オトボケだと思い込んでいる。
白洲次郎が描くのはひとりカッコいい吉田茂像で、
そこには吉田の幇間としての白洲次郎がいるだけである。
白洲次郎が持っている権力はすべて吉田が与えたものだからである。
青柳恵介には、それが白洲次郎の実像であることが分らない。
彼は白洲次郎が吹聴する逸話と、帰国当時の談話との時間を考慮に入れない。
こういう迂闊な作家が白洲家の人間と協力して、
平成の世になってからも美麗なプロパガンダ本を量産しているのである。

『占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。』・・・はあ。
冗談でなく白洲次郎こそは占領に感謝感激していた当事者でなのである。
この時のためにこそ満を持して登場した男が白洲次郎なのだ。
もちろん吉田茂がいなければ為せないワザであった。
だから図式はこうである。

『風の男 白洲次郎』⇒『占領に感謝感激した男 白洲次郎』

占領期こそ売国奴工作に励んだ吉田&白洲の独壇場だった。
白洲はこの実態を韜晦すべく自ら『伝説』を吹聴する。


◎20年後の白洲次郎の自己申告

『昭和政治経済史への証言・下』1972年8月より
『講和条約への道 白洲次郎/ 聞き手 安藤良雄』

『−そこで、いよいよ講和会議となったわけですが、サンフランシスコでは順調にいきましたか』

『白洲 吉田さんの演説の二日前に、吉田さんから電話がかかってききまして、主席全権の演説を見てくれたかというのです。見ないといったら、そんなことない、見ろというのです。外務省はぼくに見せると文句いうと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。英語のこういうものを日本の主席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろといったんです。小畑さんにこういう趣旨で書くんだといって、ぜんぶ日本語で書いてもらったのです。それに書いたのは沖縄かえせということ。そんなこといったら困ると外務省はいったけど、困るもなにも、冗談いうなといったのです。いま施政権返還といっても向こうは驚きませんが、そのときは、それを聞いてアメリカの人がびっくりしたらしいですね。』


◎白洲次郎の24年後の自己申告


白洲次郎『占領秘話を知りすぎた男の回想』週刊新潮1975年8月21日号より


『占領下の日本人を語るためには、昭和26年の講和会議の舞台裏で起こったことにも触れておこう。僕はこの会議は、全権委員顧問の肩書きで列席したのだが、会議が始まる二日前、サンフランシスコのさる邸宅に宿舎を定めた吉田さんから、マーク・ホプキンズ・ホテルの僕のところに電話がかかってきた。僕が電話に出ると、吉田さんは「わたしの演説原稿に目を通してくれましたか」という。まだ拝見していなかったぼくは、さっそく随行の役人を呼んで、その原稿を取り寄せた。』

『ところが、僕は一読して、むらむらとくるのをどうすることもできなかった。その原稿は、日本の主席全権のものだというのに、なんと英語で書かれているのである。中身も、6年間にわたる占領について「感謝感激」と大げさな参事が述べられている一方、国民の悲願である沖縄返還については、一言も触れられていない。ぼくは思わず声高になった。「これはダメだ。全面的に書き直せ」。が、この外務省の役人は「これは、GHQ外交部のシーボルト氏と相談して書いたものですから、こちらの意思だけで簡単に書き直すわけにいきません」という。』


『いかに敗戦国の代表であるとはいえ、講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手側の言葉で書くバカがどこにいるか。僕は外務省の役人らの体にすっかりしみついてしまった”植民地根性”に、ただただあきれ返るばかりだった。幸い、演説原稿は二日間で全面的に書き改め、またこの恥ずかしいエピソードも外部に漏れなかったからいいようなものの、うっかりすれば、えらいことになっていたのである。』


『占領中の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいるとすれば、ただ二人。一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなり、ずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは、べつに国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども、一人ぐらいは、こういう人間がいてもいいと思い、べつにそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさた感ずる年でもないと思っている。』


◎これは白洲次郎のいわゆる”ネタ”なのだろう。
ではネタの実態を見てみよう。


◎徳本氏の前掲書の抜粋の続き。

『だが彼の足跡を追ううち、意外な事実が浮かび上がった。演説を日本語に変更させたのは米国だったのだ。東京の外交資料館は講和条約の過程を記録した文書を所蔵する。作成者は当時の西村熊雄条約局長、その中に次の記述があった。「5日夜、ホテルで入浴中、シーボルト大使から米国代表部のホテルに来るよう連絡があった。急いでいってみると大使は(中略)『総理の演説は日本語でされることがよろしいであろう」。デイグニテイのため、とサゼストするところがあった。この趣旨を白洲顧問をはじめ同僚諸君に伝えたところ、みな日本語で演説され、島内君が英語を読むのがデイグニテイのためのわが方の趣旨を議場に徹底さすためにも良かろうとの意見であった。ただ問題はそれをどう総理に進言するかであった」(「平和条約の締結に関する調書」)』


『日本語演説を提案したシーボルトは後年回顧録でこの件に触れていた。「(日本語に変更させた)理由は、根本的なものだった。吉田は、英語の知識こそ立派なものだが、発音は、多くの日本人同様に下手で、時々慣れない語句が出てくると、聞き取れないことがあった。非常に悪い演説原稿を、発音の下手な、妙な調子で読み上げる。それを考えただけで身ぶるいするほどだった」(「日本占領外交の回想」)』


『9月7日午前、米国代表部が演説原稿を見たいと申し出た。首相秘書官の松井明が英文を持参するとシーボルトらが待っていた。彼らはアジア諸国の記述で守勢を求め、より洗練された表現に書き換えた。この場で米側は日本語でやるよう重ねて要請した。「米代表部から日本のデイグニテイのため日本語でされることをすすめる旨が同時に松井秘書官よりもちかえられた。白洲顧問も総理にそうした方がよろしいと今朝手紙で申し上げたところであるが、総理は英語でやると言下に答えられ『そう白洲君にいいたまえ』とのことであった」(「平和条約の締結に関する覚書」)』


『こうしてみると白洲の「戦勝国の代表と同等の資格」云々は全くの作り話だ。”植民地根性”を一喝したのは白洲一流のカバーストーリー(事実を隠すための話)だ。』


以上抜粋。


◎カバーストーリーも何回も宣伝すれば『史実』となり、
イケメンの配役でNHKドラマで放映されるのである。
白洲次郎の”気骨を示す逸話”はほとんどが本人の捏造である。
白洲次郎には勇気も気骨もカケラもない。
正子にバラされているが、次郎は弱虫でケチで空襲が怖かった。

次郎は英国ダンデイズムで自身の身を一流品で飾るが、
正子はお誕生日を含めてプレゼントを一回ももらったことがないという。
(え?マジ?)
しかも正子が病気になる真っ青な顔になってトンズラしてしまったという。
「ほかの女性だったら耐えられなかったでしょうけど、私はこんな性格だから」
夫婦関係が保ったのだという。
「生まれ変わってもまた次郎さんと結婚したいですか?」と聞かれたら、
「迷っちゃうわねえ」と言う正子であった・・・
前々回次郎&正子の愛情は本物と書いたことを、
お詫びして撤回しなければならない。

◎『吉田茂 熱血ワンマン宰相』2007年刊行のビジュアル本には次のようにある。

『当初、茂は英語演説するつもりだった。ところが、アチソン議長が「ソ連がロシア語でやったのだから、日本語でやったらどうか」とすすめてきた。「まことに結構な申し出である」と、茂は了解する。慌てたのは随行員たちである。日本語でやるとなれば、草稿を和紙に書くのが正式だ。ところが、演説まで時間がない。手分けして書いたため、草書もあれば楷書もあり、しかも継ぎ目はにじんで見えにくいという、晴れの舞台にはいささかそぐわない珍妙なものになった。(講和会議に傾向した硯、筆、墨、水差しなど一式の写真の説明文⇒随行員たちは吉田の演説時間ぎりぎりまで草稿を巻紙に筆書していた)』


◎白洲次郎の『自己申告の逸話』には外務官僚を貶めるものが多い。
これはおそらくは白洲次郎の劣等感からくる嫉妬であろう。
彼は吉田茂の独裁権力を嵩にきた『私的外務大臣』と恐れられたが、
ついに公式に外務官僚の立場を得ることはかなわなかった。

白洲は外務官僚をけなす一方で、内務官僚はベタほめである。
むべなるかな、内務官僚は吉田&白洲のコネクションの尽きぬ源泉である。
その代表例が正力松太郎と中曽根康弘である。


◎さてジークムントに戻る。彼はケンブリッジ大学で講座を取る。
ロビン・ストラッドフォードが次郎の親友になったのは、
ウオーバーグの依頼でお目付け役になったからだろう。
そのロビンと次郎の二人のオイリーボーイは車で北部に卒業旅行に行く。
恐らくここで二人はジークムントに取り込まれ、MKウルトラのような洗脳が施される。
薬物を使った人格破壊・再凍結である。
白洲次郎は死ぬまでその任を解かれることのない任務に就く。

◎再び青柳恵介の前掲書より抜粋。

『シグムンド・ウオーバーグは日本を訪れ「almost his Japanese double(まるで双子の)」白洲次郎と出会う。ウオーバーグと白洲は意気投合し、白洲の紹介で野村證券の社長に会い、以後ウオーバーグは積極的に資本を日本に投資することになるのである。白洲は「S・G・ウオーバーグ」の顧問となる。ただし、顧問といっても、シグムンドへの友情の上に立った非公式な個人的なアドバイザーである。今回S・G・ウオーバーグのスタッフのマーチン・ゴードンが寄せてくれた白洲の思い出の記から一部引用しておこう。』

『「白洲氏とウオーバーグ氏の関係は、遠距離であるにもかかわらず、非常に親密なものだった。ウオーバーグ氏が最後に日本を訪れたのは、1978年の11月で、日本政府から勲一等瑞宝章を受授章した時である。私は当時の福田首相がウオーバーグ氏トウオーバーグ夫人と同席し、白洲氏が隣のイスで微笑んでいる写真を持っている。白洲氏とウオーバーグ氏およびS・G・ウオーバーグ会社の同僚との何年にもわたる交友関係の間、ウオーバーグ氏と私たちは白洲氏や彼の親しい交友サークル、すなわち宮澤氏、永山氏、故森永日銀総裁の目を通して日本を見てきた。その結果、ウオーバーグ氏は白洲氏の指導の下で、過去25年間に日本が経済大国になる原因となった多くの注目すべき資質を見ることができた。白洲氏はウオーバーグ氏やS・G・ウオーバーグ会社の長老であるエリック・ロール氏やデヴィッド・シューロイ氏等に、最も興味深く影響力のある日本人を紹介した。その結果、日本での仕事はS・G・ウオーバーグ会社の幹部達にとって、常に楽しみであり、私たちにとって日本は決して外国のように感じられなかった。」その東京事務所ではサー・シグモンドの肖像画と並んで白洲の肖像画を掲げている。』


◎ジークムントは本家の跡取り息子であるが、父親がウダツのあがらない人だったので、
息子であるジークムントは若いころは不遇の時代を過ごしている。
しかし非常なやり手であるので、後年S・G・ウオーバーグという投資銀行の経営者になる。

ジークムントはスイスに所有している製薬会社にLSDを製造させる。
それをOSSにいた甥のジミー・ウオーバーグが、CIAのMKウルトラとして活用する。
ウオーバーグ一族とフロイトは懇意であり、両者は深くタビストック研究所に関与している。
(白洲次郎の父親アビーはフロイトの治療を受けている)

◎ジミーの父親ポールはFRB創設者として知られているが、
ポールの本当の姿はドイツ諜報機関のトップである。
つまりドイツ諜報機関のトップがクーン・ローヴ商会の娘婿になり、
アメリカの中央銀行を創設したのである。

ポールは1918年から27年にかけ、連邦諮問評議会の副会長・会長として、
連邦準備制度理事会の際策を計画決定している。

◎ユースタス・マリンズ 著『世界権力構造の秘密』より抜粋

『1918年12月2日付けの「合衆国海軍情報部報告書」に次の記述がある。−ポール・ウオーバーグ ドイツ人、1911年に合衆国市民権を獲得。皇帝より勲章を受領。ドイツ銀行家よりレーニンおよびトロッキーに提供された巨額資金を取り扱う。兄マックスあり。ドイツ諜報組織の長官。』


『ヒトラーのドイツにおいてさえ、マックス・ウオーバーグの会社は迫害から除外されていた。マックスが合衆国に向けて出発したのは1939年のことだが、一般に想像されるようなユダヤ人に対する制約規制になんら拘束されなかった。』


『ポールの甥のエドワードは1941年にドノヴァン将軍の跡を継いで情報調整官に就任し、その後の第二次大戦中はロンドンのSHAEF連合国派遣軍最高司令部でアイゼンハワー将軍に特別政治顧問として仕えた。』


◎ウオーバーグはロスチャイルドと並んで、シナリオを画策するもう一つの雄である。
昨今の正子&次郎ブームは、連中が仕掛けたプロパガンダである。
『白洲次郎と正子 乱世に生きた二人 お互い、自ら信じた道に妥協はしない。
風のように韋駄天のごとく、激動の時代を駆け抜けた−』

実態
『白洲次郎と正子 乱世に楽した二人 お互い、他人が用意した道に妥協した。
コンプラドールとして激動の時代を食い物にした』   

私は思う。
自分のお世話を自分で出来ない連中を、
『貴族』と呼称する慣わしはいい加減やめたらどうだろう。
『人類の寄生虫』という真実の名前で呼ぶべきだ。
ノーブレス・オブリージ(高貴な者の義務)などという言い草もタワケだ。
人のお世話がないと生きていけない人種に高貴な義務も何もない。
どうか自分のお世話を自分でできるよう努力されたい。
今まで人類にかけた迷惑を考えたらもうそれだけで十二分である。

次郎&正子も自分で自分のお世話ができない。
風の男次郎と韋駄天お正は、寄生虫階級の価値観の中で生きた。
正子は次郎を指してこう言う、本当の本物は贋物と見まがうばかりの妖しさがあると。
ホワイツ・クラブのようなトップクラスの場所に出入りした吉田と次郎は本物だと。
彼女は人類の寄生虫ザ・オーダーの価値観を共有しているのである。
そんな白洲正子に何の真贋を見きわめる目などあろうか。


◎さて白洲次郎は第二次吉田内閣の初代貿易庁長官に就任する。
ザ・オーダーのシナリオには「ここからが茂&次郎の本番」と書かれていだろう。


『ボクは昭和23年10月、第二次吉田内閣が成立した直後に、マッカーサーじきじきの”お名指し”で貿易庁の長官に就任する。貿易庁は商工省の外局にすぎなかったが、占領下わが国の貿易は、当時、まだ”政府貿易”しか許されていなかったために、海外への輸出は、政府のライセンスを必要とし、このライセンスの順番をめぐって、汚職のウワサが絶えなかったのである。貿易庁汚職のウワサは、国際的にも喧伝され、ワシントンでは”ボウエキチョー”という言葉が、一時、汚職の代名詞として使われた。ここに至り、マッカーサーは連合軍最高司令官の威信にかけ、占領下日本のスキャンダル摘発に乗り出すべく、ぼくを貿易庁長官に任命したらしいのである。が、それにもかかわらず、ついに貿易庁の汚職を根絶するまでには至らなかった。ぼくはやむなく、貿易庁の廃止を決意する。このほうが汚職を撲滅する早道と思われたからだ。そして貿易庁はやがて商工省に吸収され、通商産業省に衣替えするが、通産省誕生のきっかけは、実に貿易庁の汚職防止から始まったわけである。』(週刊新潮昭和50年8月21日号「占領秘話」を知りすぎた男の回想)


◎事実は真逆である。


再び徳本氏の前掲書より抜粋。


『日本国憲法制定に携わった後、白洲次郎は終戦連絡事務局を退任した。そして、第二次吉田内閣発足に伴い、1948年12月1日、貿易庁の長官に就任する事になっていた。その白洲は、以前から商工省の抜本再編論者で知られた。国内産業育成から、輸出産業の振興に軸足を移し、外貨獲得を目指すべきというのが持論だった。長官に就任した彼は、直ちに組織再編に取りかかった。翌年の19449年2月8日、通商産業省(仮称)の設置が明らかにされ、5月には設立されるスピードだった。その後、通産省は強力な輸出振興策を打ち出し、「日本株式会社」の代名詞になった。』


『だが一つの疑問が残る。この組織再編は、当の貿易庁はもちろん、商工省内でも反発が強かった。国内産業重視の看板を降ろすのに、官僚の抵抗が強かったからだ。現に彼らは、組織再編を進める白洲長官に最後まで抵抗した。ところが英国側文書によると、すでに1948年9月初め(つまり次郎が長官に就任する3ヶ月前)、貿易庁は駐日英国代表団に組織再編のアドバイスを求めている。』


『ちょうどこのころロンドンのボード・オブ・トレードに、駐日英国代表団から機みょな問い合わせがあった。組織再編を検討している日本の貿易庁が、英国のボード・オブ・トレードを模倣したいと言っている。至急、機構図や関連資料を送って欲しいという。当時貿易庁は商工省の外局で、本来商工省は国内産業育成を重視し、海外貿易は二の次だった。そこで抜本的な組織改革を行い、通商貿易全般をカバーする英国の組織を模倣したいとの事だった。』


『「貿易庁が英国式に再編される事で、わが国が日本の経済政策に影響を与えやすくなるかどうかの判断は、われわれよりボード・オブ・トレードが適している」「これが占領下の日本での、英国の地位向上にどれほど重要かは分らない。しかし、民主主義は米国の独占ではない事を日本人に示すため、あらゆる機会を生かすべきである」(1948年9月15日英国外務省報告)』


『明らかに(商工省の)組織として矛盾する、二つの力が働いていた。ここで一つの仮説が真実味を帯びてくる。それは、貿易庁に近い関係者が、独自に英国代表団にアプローチしたという推論である。その人物は、英国の政府機構を熟知し、ボード・オブ・トレードを貿易庁の再編モデルにしたいと考えていた。そして英国がGHQに焦りと反発を募らせている事も熟知し、彼らが飛びつくと見抜いていた。当時、日本側でこれだけの動機と知識を持った人間はごく限られてくる。白洲次郎である。戦前、日本水産幹部として渡英をくり返し、英国政府とGHQの内情に通じた彼なら可能性がある。』


『さらに興味深いのは、当時の日本市場を狙った英国企業の動きである。戦前、彼らは日本と活発な貿易活動を行ったが、GHQの占領下、身動きが取れないでいた。民間人の来日は厳しく制限され、現地の情報収集やコネクション開拓もできない状況だった。一方、米国企業は独自のGHQルートを築き、虎視眈々と日本でのビジネス拡大を狙っていた。このままでは、貴重は日本市場をむざむざ米国勢に明け渡してしまう。次第に英国企業は焦りを募らせ始めていた。日本国内に、彼らの目や耳として強力な代理人が必要だ。そして、これが白洲の人生の大きな転機となるのである。』


◎徳本氏は人格高潔なためか連中のシナリオが読めない。
吉田茂と白洲次郎の悪辣さが実感できない。
白洲次郎は予定通りの転機を迎えたに過ぎないのだ。
GHQで特権と情報を掌握して下地が整ったのだ。


◎徳本氏の前掲書の続き。


『白洲は戦後、数々の英国企業の顧問、アドヴァイザーを務めた。商社のジャーデイン・マセソン、石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェル、投資銀行のS・G・ウオーバーグなど錚々たる企業だ。しかも白洲はトップと個人的親交を結んでいた。S・G・ウオーバーグ創業者のシグムンド・ウオーバーグ卿、ロイヤル・ダッチ・シェルのジョン・ラドウン会長など経済界の重鎮ばかりだ。白洲はGHQの集中排除命令で四社に分割された日本製鉄の、広畑製鉄が富士製鉄に返還されようとしたのをジャーデイン・マセソンと合併させようと吉田首相に根回し話を進める。これに激怒したのが後の富士製鉄社長の永野重雄だった。永野の必死の政治工作で阻止した事、銀座のクラブで白洲と乱闘を起したことは前著で触れた。もう一つは四日市の級海軍燃料払い下げである。各石油会社が落札に奔走する中、三菱石油と組んだのがロイヤル・ダッチ・シェルだ。そして彼らを協力に支援したのが白洲だった。紆余曲折の末、昭和石油が落札に成功する。その後、彼らは三菱シェルグループと連携し一大石油コンビナートを建設する。ここで白洲批判が噴出した。通産省を動かし力づくで落札させたとの告発だった。』


◎徳本氏の前著『英国機密ファイルの昭和天皇』より該当箇所抜粋。


『戦後、日本製鉄はGHQの集中排除命令で、八幡製鉄・富士製鉄・日鉄汽船・播磨耐火煉瓦の四社に分割される事が決まった。その広畑製鉄所は、当時、日産一千トンの高炉二基、二百万坪の工場を持つ最新鋭施設だった。奇跡的に戦火を免れ、やがて富士製鉄に返還されると見られていた。その広畑を白洲は、英国のジャーデイン・マセソンと合併させようとしたのだ。彼は吉田首相らに根回しして、話は順調に進んだ。』


『これに激怒したのが、後に富士製鉄社長を務める永野重雄だった。永野は「広畑を取れなければ腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と政治工作を行い、ぎりぎりで阻止する事に成功した。後に永野は、銀座のクラブで鉢合わせちあた白洲を怒鳴りつけ、彼の頭をテーブルに押しつけてしまった。外貨獲得の大儀名文があるとはいえ、白洲のやり方に相当頭に来たのだろう。』


『前述した通り、講和条約締結の直前、ジャーデイン・マセソンは、日本のビジネスを進める上で白洲に目をつけていた。白洲の影響力に冠する東京支店長の報告は、ロンドン本社から英国外務省に転送されたくらいだ。その後、彼がジャーデイン・マセソンへの広畑売却に動いた事実を考えると、両者が裏で手を組んだと見るのが自然だ。』


『さらに白洲は政治情報も先方に渡していた。サンフランシスコ講和会議の翌月、1951年10月3日つけの東京支店長報告は、白洲から入手した日米安全保障条約締結の内幕を記述している。当時の白洲は、東京電力会長に就任した直後だが、講和会議に主席全権顧問として出席した。帰国後、ジャーデイン・マセソンの東京支店長と会い、講和会議について意見交換したようだ。』


『最近英国大使館のカクテルパーテイーで太田一郎外務次官は同席した英国人外交官に、こう吐き捨てたという。「吉田首相と一緒に仕事なんか出来ないですよ。あの白洲次郎が、私的な外務大臣のように振舞っていますから」(1951年2月6日英国外務省報告)。吉田首相は外務大臣を兼ねている。その正確は倣岸不遜、手法はワンマンで、圧倒的存在感を持っている。その私的外務大臣という白洲次郎とは何者か。占領中、主な外務官僚が追放された間に、この男が日本外交を牛耳っているのではないか。直ちに彼らは、白洲の経歴と性格を調査し、「東京・パーソナリテイ・レポートbV0」という報告書にまとめた。その翌月の3月22日、今度は、ジャーデイン・マセソン商会という英国商社から報告が入った。差出人はエリック・ポロックという東京支店長だ。』


『その中に「只見川水力発電所」という記述がある。「次郎は、日本の権力構造で比類のない立場にある。公益事業委員会の松本烝治委員長や松永(安左エ門)委員長代理も、彼の影響力と友情に恩義がある。次郎は今、日本で最も強力な人間となりつつある」(1951年3月22日ジャーデイン・マセソン商会報告)。白洲をファーストネームで呼んでいるところを見ると、ポロックと白洲は、以前から面識があったようだ。その上でポロック報告は、英国の電力会社の代表団が翌月来日するが、只見川水力発電計画に彼らも参加させるべきだと提言した。何のことはない、東北電力で絶大な権限を持つ白洲を、商売に利用しろと言っているのだ。吉田内閣の私的な外務大臣、政財界に強力なパイプを持つ男として、白洲の存在は大きかった。日本に於ける強力な代理人として、彼の名は英国政府と企業に広がっていった。』


『さらに、白洲の政治工作は、四日市の旧海軍燃廠払い下げでも発揮された。この燃料廠は、旧海軍が太平洋戦争に備えて建設した施設だ。数隻のタンカーが同時に接岸でき、パイプラインで精製工場に陸揚げできるのが魅力だ。戦後、無傷でGHQに接収された燃料廠を、石油業界は熱い視線で狙っていた。日本石油、出光興産、日本鉱業など各石油会社が、何とか落札しようと奔走した。そのバックには、提携先の英米の国際石油メジャーがついていた。』


『その中で、三三菱石油と組んだのが英国系石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルだ。そして彼らを強力にバックアップしたのが白洲だった。紆余曲折の末、1955年、昭和石油が落札に成功した。その後、彼らは三菱シュエルグループと連携して四日市に一大石油コンビナートを建設していくのだが、白洲への批判が噴出した。貿易長長官時代、彼の部下だった通産省の永山時雄官房長を動員し、力づくで落札させたとの批判だった。強引な行政指導を行った永山は、退官に追い込まれたほどだ。』


『これら白洲の働きぶりを、私が会った英国人は「次郎は、我々の良き”コンタクトマン”だった」と評した。持ちかけられた案件によって、ある時は情報収集を行い、ある時は仕掛け人、工作者となる。日本進出を狙う外資の総合コンサルタント業である。吉田首相の側近で、通産省の産みの親ろいう立場は、白洲が国際的ブローカーの地位を築くには最高だった。』


『その彼を批判する者は英国にもいた。元英国外務省職員の証言によると、ある元駐日英国大使は、白洲を「蛇みたいな男だ」と忌み嫌っていた。二枚舌を持つヘビと同様、自分の立場を使い分ける狡猾な男とい意味だ。また、ある英国人ジャーナリストは、苦笑いしながら、「次郎はとてつもなく傲慢で、1920年代のケンブリッジ・イングリッシュを話していた」と語った。次郎は終生、若い頃に英国で身につけた英語を話していたらしい。良く言えば格調高い、意地の悪い言い方をすれば、骨董品のような英語をはなしていたのだ。その白洲らしさが如何なく発揮されたのが、戦後の占領期だった。焼け野原の東京で、格調高いケンブリッジ・イングリッシュを話す、傲慢で狡猾な日本人と出会い、GHQの将校もさぞ面食らったはずだ。』


◎白洲次郎は流暢なケンブリッジ・イングリッシュを話す。
それをGHQ民生局の将校に褒められた時
「あなたも私のように勉強すれば上手くなりますよ」
と切り返したという。
これは次郎のカッコいい逸話として伝えられている。
しかし実のところは古色蒼然とした英語を話す自分が得意で、
それをからかわれているとは本人に分らなかったのだろう。


◎再び徳本氏『1945日本占領』より抜粋。

『「なるほど、その白洲とは一種のコンプラドールだったようだな」「コンプラ・・・何ですか、それは」一瞬面食らって訊ねた。デービスがにっこりと笑った。「コンプラドール、19世紀の中国っで外国企業は中国進出を狙っていた。時は帝国主義ノ全盛期、巨大な市場は大きな魅力だった。だがそこで彼らh厄介な障壁に直面する。言葉や商習慣の違い、現地有力者とのコネクションだ。それを同克服するかがビジネスの成否を左右した。ここで一部中国人が強力な助けを提供した。英語に堪能で有力者と太いパイプを持つ者だ。彼らは仲介者として中国進出を支援した。これがコンプラドールと呼ばれた中国人だった。その見返りに彼らは莫大な報酬を手にした。中でもジャーデイン。マセソンのコンプラドールは有名で中国の政治に関与する者も現れた」。』

『デービスの話を聞いて私は目の前の霧が晴れる気がした。19世紀の中国で外国企業のため働いたコンプラドール、占領下の日本で外資系を支援した白洲、両者の役割はピタリ重なる。持ち掛けられた案件の情報収集を行い、ある時は仕掛け人、工作人となる。日本進出を目指す外資の総合コンサルタントだ。そしてその働きにふさわしい報酬の支払われていた。私のインタヴューに応じた白洲の長女牧山桂子はこう証言した。「これらの会社と父には正式な契約書もなく個人の信用でやっていたはずです。定期的ではないけど報酬はもらっていたのではないかと思います。英国や米国の銀行に預金口座があったようです」。皮肉だが白洲がコンプラドールとして活躍できた理由、それは占領の賜物だった。』

以上抜粋。

◎白洲次郎は雑誌の対談で平然と「自分が貧乏なのはみんなが知っている」
「じぶんが一番嫌いなのは嘘つきだだ」などと言ってのけている。
次郎は大金持ちである。彼の英米の銀行口座には、
外資系企業からちょうだいしたリベートがたっぷり貯まっている。
白洲次郎の言動のほとんどは、傲慢なあるいは巧妙なウソでできている。

白洲次郎が付き合った文士たちは、揃いも揃ってボンクラである。
白洲次郎著『プリンシプルのない日本』には、彼ら文士たちとの座談会が収められている。
そこでは白洲次郎がいち早く日米開戦を予見し、悲惨な敗戦を見越して疎開していることを、
文士連中が「先見の明がある」「その通りになった」と激賞している。
次郎の自己申告を鵜呑みにして死後も虚像をベタほめしてやまない。

『若い友人の堤清二は語る。「私利私欲をもってつき合おうとする人間を白洲ほど敏感に見抜き、それに対し激しい反応を示した人を他に知らない。そして、そういう人間は白洲を怖い人と思うだろう。白洲が晩年に至るまで、仲良くつき合っていた人に共通した性格があった。私心のない人、大所、高所に立って、自分の考えや行動すらも客観的に捉えられる人、本当の愛情のある人。白洲次郎は真の意味での国際人であったが、『国際化』という言葉が叫ばれる今日、むしろ国際化の逆コースをたどっている。経済界で本当の”国際人”が何人いるか。白洲の目には寥々たるものに映ったであろう。日本の経済が発展し、孤立している、その孤立していることにすら気づかず、あるいは孤立していることを、諸外国が日本経済の発展をやっかんでいるとしか思わない、そういう人間を白洲は”イヤシイ奴だ”と言っていた。白洲次郎に、もしわがままな所があったとすれば、そういう”イヤシイ奴”と決して付き合おうとしなかったことだろう、・・・』(青柳前掲書より)

私利私欲をもってつき合おうとする代表者が白洲本人である。
『それに対し厳しい反応を示した人を他に知らない』というのは、
いかに私利私欲の塊であったかの証左として私は取る。
自分と同類項の人間を見ると鏡に映された自分を見るようで耐え難かったのだ。

私の知人に数年間かつての白洲次郎を接待したことがある人がいる。
接待場所はたいてい銀座のマキシム・ド・パリ、白洲は話す相手を区別していたという。
例えば裸一貫で成功した食品会社の社長には絶対に話しかけなかったという。
白洲はいわゆる『成り上がり者』を軽蔑していたという。
白洲の人品を物語るエピソードである。
『イヤシイ奴』とは白洲次郎のことだ。
どんなにイヤシイ小心者であるかを、茂&次郎コネクションの辰巳栄一が青柳にバラしている。
青柳恵介にはそれをイヤシイと思う思考回路がない。
『風の男 白洲次郎』なのである。

◎青柳恵介の前掲書より抜粋。

『昭和62年の夏、私は白洲正子夫人に伴われて世田谷区成城にある辰巳栄一氏のお宅を訪れた。辰巳氏は小柄な方であったが、92歳とはとても思われぬ、カクシャクとした様子だった・・・辰巳の知り合いで、戦前から疎開を実行し、実際に百姓を始めたのは白洲次郎一人であった。「まあ、白洲次郎さんというお人は、実に単刀直入な方で・・・」と嬉しそうに、野菜を放り投げて足早に去って行った人の後姿を追うように辰巳氏は遠くを眺めた。』


『「ただ一回だけ、私は白洲さんをお助けしたことがあるんです。戦争も末期になって、或る日白洲さんが家に見えて、”辰巳さん、俺、召集されちゃったよ”と言われるんです。”白洲さん、あなたもう40を過ぎてるじゃありませんか。丙種でしょ”というと”ああ丙種”と。東部軍の参謀長なんていう役職についていると、方々の人から召集についてはいろいろ頼まれるんです。軍人の奥さんなんかからですね。私は一切そういうのを断っておったんですが、白洲さんの時は早速に召集主任に連絡を取りました。白洲次郎という人を説明し、そんな人を招集するなんてけしからんじゃないかと言いました。それで召集取り消しになったんです。そうしたら白洲さん喜ばれましてね、いろんな缶詰を山のように持ってこられまして、”これは辰巳さんの分、これはその召集主任にやってくれ”と、とても感謝されました。」』


『辰巳の話を聞き、白洲正子夫人は一寸びっくりして「あら、私そんなこと何も知りませんでした」と呟いた。すると、辰巳氏は間髪を要れず、「そうです。あの方はご自分のことなど一切お話になりません」と断言したのだった。』


◎白洲次郎は『ご自分のことなど一切お話になりません』のである。
辰巳栄一が断言したことを胆に銘じてほしい。
白洲次郎の伝説は後年になって本人が吹聴した作り話であることを。
辰巳の箴言を念頭に置いて、白洲伝説を翻訳し直してほしい。
差し出すものは命だけしかない民草は、戦いに赴いて多くは異国の地で果てたのである。
そして召集令状をチャラにした非国民白洲次郎が、戦後の「占領を背負う男」になった。
吉田の私的外務大臣として最高権力を掌握し外資系企業との利権に繋げた。

吉田茂&白洲次郎の最強の売国奴コンビの独壇場である。
彼らは田布施王朝以来の、コンプラドールの掟と伝統をよくわきまえている。
アヘン王の出先機関ジェーデイン・マセソンの日本進出を助ける掟。
国際金融犯罪組織の便宜を図っておこぼれを頂戴して優雅な生活を送る伝統。
こんな野郎に「プリンシプルがない日本」と言われたらお終いである。

『ボクは人から、アカデミックなプリミテイヴ(素朴)な正義感をふりまわされるのは困る、とよくいわれる。しかしボクにはそれが貴いものだと思ってる。他の人には幼稚なものかもしれんが、これだけは死ぬまで捨てない。ボクの幼稚な正義感にさわるものは、みんなフッとばしてしまう。』(昭和26年11月18日号週刊朝日)

私は自分の不明をお詫びして訂正しなめればならない。
白洲次郎は自己申告のプロパガンダの達人である。
ソエジなどは足元にも及ばないほど狡猾である。
白洲次郎に正義感などあろうはずもない。
彼が貴いと思うものは、階級と権力と金である
そもそも素朴で幼稚な正義感を貴いと思う者が、
白洲次郎のような利権漁りを生業とするだろうか。

第三者の目撃談が語る白洲次郎の人物像は、
傲慢で特権意識に凝り固まった貴族主義者である。
特権階級と成り上がり者を峻別して対応したという。
(友人や女性には例外的に接したようである)
しかしユダヤ財閥の元をたどれば、ゲットーからの成り上がりである。
白洲次郎がカブレていた英国貴族たちも同様である。
彼らのそのほとんどは濃淡の差はあれ、ゲットーのユダヤ人の血が混じっているのだ。
白洲次郎が成り上がりものをバカにするのは、目くそ鼻くそを笑うの類である。
名家といわれる家系もずっと元をたどれば、
ネアンデルタールとかアウストラロピテクスに行き着く。

白洲次郎とは何者か。
ユダヤ国際金融同盟の諜報員でありコンプラドールである。
「占領を背負った」「日本一カッコいい」「風の男」とは、、
戦時中の召集を免れて安全地帯に隠れていたくせに、
戦後占領期に颯爽と登場するや、吉田茂の私的外務大臣として、
あるいは終戦連絡局次長としてその特権を最大限に濫用した男である。
商工省の外局にすぎない貿易庁長官でありながら、
商工省の大臣・次官に一切関与させず、吉田首相と謀略を練り、
外資系企業とくに英国系企業が進出するための抜本改変を敢行した男である。

白洲次郎とは何者か。
吉田茂が戦後台頭すべく画策された秘密工作の全てに関与した男である。
2・26の時から抹殺される要人は決定されている。
戦後占領期までに昭和天皇と吉田茂の邪魔になる要人はことごとく排除された。
この中に山本五十六や近衛文麿が入る。
近衛は五摂家筆頭の血統が昭和天皇の劣等感を刺激したのだろう。
白洲次郎と牛場友彦と松本重治は近衛親子に貼り付いて工作している。
白洲次郎は弱虫なので汚れ仕事の現場には行かない。

吉田茂&白洲次郎のコネクションには牛場と松本の他に、
寺崎兄弟、奥村勝三、辰巳栄一、中曽根康弘、正力松太郎がいる。
寺崎英成と奥村勝三は真珠湾攻撃を騙まし討ちにする工作をした後、
戦後になって昭和天皇・マッカーサー会談で通訳として再登場する。
このようにコネクションのメンバーは重要な場面でリサイクル活用されている。

吉田茂が退場すると白洲次郎も表舞台から消える。
そしてワンマン宰相と風の男の伝説が捏造され『史実』となったのである。  

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コメント
 
01. 2011年12月02日 22:28:47: p99eS1woHc
鬼塚英昭の本は1冊だけ読んだ。
仮説は独創的で面白いが、仮説の裏づけのため事実を捻じ曲げ妄想で書いていると確信がもてたので、以降まったく相手にしていない。

歴史を書くときには真摯な態度が必要だ。


02. ♪ペリマリ♪ 2012年1月05日 08:18:54 : 8qHXTBsVRznh2 : KxhwWQU3KY
>>01

鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが、
これはその典型的なものである。

一、あなたが鬼塚氏の何の本を読み

二、どこの箇所を指して事実を捻じ曲げて妄想で書いていると確信を持てたのか

三、その根拠たる文献資料を示されたい。

鬼塚氏ほどあらゆる文献資料を網羅し、
かつ眼光紙背に徹するが如く読み込んでいる人を私は寡聞にして知らない。
プロパガンダをまんま信じて洗脳されている歴史作家があまたある中で、
まさに掃き溜めの鶴、恩寵、僥倖のような存在である。


>>01のコメントは、
秦郁彦がバーガミニの『天皇の陰謀』を偽書と決め付けた手法と同じ。
”バーガミニの主張に該当する資料は、杉山元メモのどこにも見つからなかった”
などとと事実無根の主張をしている。

秦は防衛庁に職員として潜入していた草である。
秦のような田布施村王朝の関係者が、国家規模の資料改竄をしていると私は思う。
日中戦争拡大の現場証言も同様である。
池田純久が近衛文麿に責任転嫁する有名な証言は、その代表例である。


>歴史を書く時は真摯な態度が必要だ。

これはそのままそちらにお返ししよう。
田布施村王朝は実に真摯な態度で、一貫して偽史を捏造してきた。
秦や白洲次郎や松本重治などの確信犯がプロパガンダを流布し、
それに御用作家やマスコミが追随してきたが、
あなた方が真摯な態度で歴史の真実に直面する時が今や到来しようとしている。


鬼塚氏が膨大な資料を微分積分して導いた結論は、『仮説』ではなく真実である。
それらはやがて出てくる本当の資料によって裏づけされるだろう。
7月27日以降、それらの資料は出てくる。


03. 2012年1月18日 22:58:56 : 0tYDet6q6Y
 これを書いて何がしたいんですか?真実が知りたいと言いましたがこれを書いて快楽に浸っているようでは悪趣味というしか言いようがありません。白洲次郎のことでも松下幸之助、上杉鷹山のことでもいいですけどその人の歴史を紐解いて個人を糾弾することを歴史とするならば歴史にあらず。その人から一つでもいいから何か学びとり今の生活の糧に役立てる。それが歴史というものではないでしょうか?
 最後になりますが鬼塚氏もあなたもかわいそうな人ですね。一生出口のない世界に閉じこもって書き続けてください。

04. 2012年10月11日 03:26:53 : qhvh6OwKiE
違います。人から学び役立て糧にするのも歴史なら、
その人の歴史を紐解いて個人を糾弾することも歴史です。

05. 2013年1月20日 14:37:32 : HSJmG17tXg
松下幸之助、上杉鷹山と 白州次郎は 陽と陰 同時代の知名度もまったく違う。。
学者の用に、歴史を生活の糧や飯の種にしては絶対駄目。従来の見方では謎や疑問だらけの歴史も、鬼塚先生の様な見方や仮説だと合理性がでてくる。

06. 2015年5月15日 19:55:28 : GpYSA1qr2Y
03>さん
可愛そうなのはあなたです。
おためごかしなきれいごと世界に
一生住んでください。
あなたの世界観では何も見えてきませんが、
それをよしとしたい自称前向きな方だと
私は判断しました。

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