http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/674.html
Tweet |
五十六を連合艦隊司令長官に任命した人物は1919年パリ講和会議に出席している。
その人物はヨハンセングループの中にいると前回書いた。
ヨハンセングループとは、憲兵隊に付けられた吉田反戦グループをもじったものであるが、
牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎らが本命であって、他のメンバーは目くらましである。
その中でも本命はこの世に生まれおちた時からアヘン王の掌中にあった吉田茂である。
起きた事象を逆照射すると吉田茂が姿を現わす。彼こそがシナリオの主人公なのである。
CIAの最高傑作といわれる吉田茂とは何者か。
彼はザ・オーダーの隠し玉である。
1939年8月30日に連合艦隊司令長官に任命された人物は、
1919年ヴィンセント・アスター卿らによって準備され始めたシナリオを演じる宿命にあった。
アスター家は奴隷と麻薬貿易でオールドマネーに成り上がったドイツ移民である。
アスター卿と吉田茂はザ・オーダーの最終兵器である麻薬で繋がっている。
真珠湾攻撃のヤラセはまず人事移動から始まる。
人事の動きを見ると汚れ役が山本五十六に押し付けられると同時に、
舞台から退場したキーパーソンがいる。駐英大使・吉田茂である。
吉田はこの時以降現役から退き、戦時内閣とは一切関わらないようにしている。
吉田は1937年9月3日帰朝命令を受け、11月29日に帰国する。
帰国と同時に外務省を退官する決意を固めている。
吉田が退官願いを提出するや1938年3月20日付けで、
「願いにより本官を免ずる」との辞令が出され、戦争が終了するまで浪人生活を続ける。
浪人中の吉田茂は新橋の芸者通いをしながら、家族ぐるみでグルー米国大使一家と交歓する。
その吉田が引っ込んだ5ヵ月後、19398月3日付けで山本五十六が連合艦隊司令長官に任命され、
その二日後の9月1日ヒトラーがポーランドに侵攻、即座にチャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦が始まる。
一年後の1940年9月に三国同盟が締結され、同時期にナチス・ドイツがロンドン空爆を開始するのである。
「明治維新」によって確立した体制はトロイの木馬のようなものである。
「国体の精華」とはコンプラドールが権力の中枢を把握する体制なのだ。
この体制は戦後も不変である。邪魔になる人物は戦死か暗殺か戦犯処刑で始末された。
五十六の暗殺には吉田茂と白洲次郎と海軍主計が関わっている。
功を立てた海軍主計は、若手議員となって吉田内閣の予算委員会で原発導入を通過させた。
中曽根康弘である。原発利権の主役は中曽根&正力ではなく吉田茂&中曽根康弘なのである。
白洲次郎は原爆投下の交渉まで主役を務め、やがて講和条約締結の後は主流から外れる。
しかし彼は死ぬまで任を解かれることのない掟に生きなければならなかった。
彼は生まれた時からそのように育てられ墓場まで秘密を持っていった。
白洲次郎は生涯エージェントとして終わったが、吉田茂は第二の伊藤博文になった。
伊藤博文はアヘン王サッスーンが派遣したグラバーに魂を売り渡した下忍(インテリジェンス)である。
吉田茂も生後10日で吉田健三のもとに養子に出され長じて同じ道を歩む。
実父の竹内綱も養父の吉田健三もジャーデイン・マセソン商会の旨い汁を吸った仲間同士だ。
吉田健三は用済みになるや49才で心臓麻痺で急死させられ、茂に60億の遺産を残す。
茂は外務次官になるまでにこれを蕩尽したが、『使途は不明』というのが通説とされている。
吉田茂が白洲次郎と違って決定的に有利だったのは、自分のカネをもっていたことである。
ヴィンセント・アスターは「諜報活動には金がかかる」と言っている。
吉田茂は潤沢な資金を元手に、独自のコネクションを創って秘密工作を仕掛ける。
白洲次郎は独自のコネクションを持つことができないので、吉田茂の右腕となる。
吉田茂と白洲次郎には厳然とした違いがある。
『吉田茂は、明治11(1878)年9月22日生まれである。その業績は誰もが承知するところだが、奇妙なことながら吉田の出生にまつわるいくつかの問題にはまるで霧がかかったように曖昧なまま時間が過ぎてきた。昭和42年10月20日に没するまで、89年に及ぶ波乱の生涯を通じて、はっきりしているのは誕生日だけである。吉田がどこで生まれたか、母はどういう立場の女性だったのか−吉田茂という、これだけの人物にしてなお肝心な点が不明瞭なまま諸説乱れ飛んでいるのが実情である。吉田自身、長じて自らの出自や幼年時代を語ることをあまり好まず、かえって出生にまつわるなんらかの影を負っていたのではないかと後年指摘される素因ともなっている』(工藤美代子『赫ヤクたる反骨 吉田茂』日本経済新聞出版社より)
『さて、養父・吉田健三についてである。彼は嘉永2年(1849年)5月6日、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として生まれ、親戚の家を継いで吉田姓となった。元治元年(1864年)、15歳の時、大阪に出て医学を修めたが、これからは英学の時代だと思い直し、長崎への留学を決意する。そして慶応2年(1866年)には何と密航を企てる。見つかったら死罪だが、長崎から英国の軍艦にうまくもぐりこんだ彼は雑役夫として働かせてもらいながら、上海からシンガポールを経て欧州へと渡った。イギリスには二年滞在。この間に養った語学力がその後の彼の人生を決定付けた。ちょうど帰国した年に明治維新があり、健三は自分の時代が来たことを実感する。
まず手はじめに川村純義海軍卿(白洲正子の祖父)に食い込み、彼から軍艦二隻の発注を受けた。ジャーデイン・マセソン商会を通じて英国に注文を出した。当時、ジャーデイン・マセソン商会は極東における最大最強の英国商社である。とりわけ明治維新前後は最盛期に当たり貿易のみならず金融、海運、倉庫、保険、紡績等を世界各地に展開して巨利をあげていた。日本では横浜に支店を、長崎、兵庫、大阪、函館には代理店を置いていた。ちなみに長崎の代理店を任されていたのが、長崎名所のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーである。そのうちジャーデイン・マセソン商会は無給でなく月給300円(現在の600万円ほど)という破格の待遇をするようになる。土佐自由党の竹内綱は、高島炭鉱の経営に関してジャーデイン・マセソン商会・長崎支配人のグラバーと手を組んだことから、健三とも急速に親密の度を加えていった。』(北康利『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』講談社より)
『吉田健三には並々ならぬ蓄財の才があったことが証明されている。商才に加えて、自信と勤勉さが備わっていた。彼は真冬でも午前四時に起きて、家族や使用人を叱咤して仕事を始めた。蓄財を重ねていた吉田健三は、当時の金で実に遺産五十万円という大金を養子の茂に残して亡くなった。茂が相続した遺産五十万円はその割合でみれば、なんと六十億円という莫大なものである。ところが茂は昭和初年の次官就任時頃までにはその遺産の大部分を使い尽くしてしまった。』(工藤美代子前掲書より)
戦後吉田と組んだ昭和天皇は奇しくも言った。
「戦前戦中戦後を通じて私に矛盾は無い。天皇制も連続している。
明治天皇が五箇条の御誓文で、すでに今日の民主主義の基礎を築かれていたからだ」
目を剥く方もいると思う。私もその一人だったが、しかしそれは思慮が足りないのである。
大宰相吉田茂に焦点を合わせ、明治以来の事象を逆照射すると確かに連続している。
彼を機軸にシナリオを読み解くと、福島原発事故に至る今日まで連続線が引かれている。
これを反対に遡れば、田布施村から輩出された連中が引いた始点に繋がっている。
その始点はアヘン戦争から始まる。
『「アヘン戦争」は調べれば調べるほど、むごい戦争(汚い麻薬戦争)だったことが分かる。1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳 舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)には、次のような言葉が書かれてある。「『アヘン戦争』は、単にイギリスによるアヘン貿易強行のための中国侵略戦争以上の意味を持っている。この“西からの衝撃”によって、我々の住む東アジアの近代史の幕が切って落とされたのである。」
この「アヘン戦争」は、イギリスの「サッスーン家(財閥)」を抜きにして語ることはできない。「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、バグダッド(現在のイラク)で活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへ進出(移住)した。
デビッド・サッスーンは、1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。(※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。
1773〜1842年の「三角貿易」体制 イギリスは、アジアとの貿易を行なうため、1600年に「東インド会社」を作った。アヘンを大量に送り込まれた清国では、アヘンが大流行して社会問題となった。やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。その意味では、「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。
ところで、中国大陸において「サッスーン商会」と並んで二大商社の名を馳せたのは、「ジャーディン・マセソン商会」である。この会社は、イギリス系商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、1832年に中国の広州に設立された貿易商社である。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。この「ジャーディン・マセソン商会」は、日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス・グラバーが長崎代理店(「グラバー商会」)を設立したことで知られている。横浜にも、1859年に英商ウィリアム・ケスウィックが支店を設立。商館は地元民から「英一番館」と呼ばれていた。
トーマス・グラバーは、1859年に英国から上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。その後、開港後まもない長崎に移り、2年後に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立。貿易業を営みながら、薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売した。幕末維新期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への洋銃売り渡しに関わっていたが、その中でも英商グラバーの販売量は突出していた。
彼はのちに「三菱財閥」の岩崎家の後ろ盾となり、キリンビールや長崎造船所を作った。日本初の蒸気機関車の試走、高島炭鉱の開発など、彼が日本の近代化に果たした役割は大きかった。1908年、グラバーは「勲二等旭日重光章」という勲章を明治天皇から授けられ、この3年後(1911年)に亡くなった。墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の観光名所になっている。ジャーディン・マセソン・グループは、今でも「マンダリン・オリエンタルホテル」を経営し、14ヶ国に26の高級ホテルを展開しており、現在もアジアを基盤に世界最大級の貿易商社として影響力を持っている』(http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe100.html『アヘン戦争の舞台裏』より)
『ジャーディン・マセソン商会の前身は東インド会社で、元は貿易商社。1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。同じロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。
清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。
1859年(安政6年)、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)が横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立。日本に進出した外資第1号としても知られる。後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を勤めていた。鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。1863年(文久3年)、ウィリアム・ケズウィックは井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の長州五傑のイギリス留学を支援する。彼らの英国滞在は、ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話した。
一方長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。グラバーは、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。その他、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。ウィリアム・ジャーディン - 創業者 ジェームス・マセソン - 創業者 ケズウィック・ファミリー - オーナー家 トーマス・ブレーク・グラバー - 「マセソン商会・長崎代理人」としてグラバー商会を設立 吉田健三 - 元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長(内閣総理大臣吉田茂の義父)』(ウイキペデイアより)
『日本は、1842年、アヘン戦争の結果、中国の実権が皇帝から宋財閥のものとなったこと、そしてこの宋財閥はサッスーンの代理人であったこと、さらにはサッスーンは英国ロスチャイルド家の東アジア代理人であったこと、そして最後に、英国ロスチャイルド家は初代ロスチャイルドがヨーロッパ五カ国に張り巡らした金融寡頭権力体制オリガルキーの中核であったこと、このロスチャイルド家は19世紀中葉、世界の富の大半を支配下に置いていたこと、こうした東アジアをめぐる世界の激動について何も知らない。上海に拠点を構築した英国ロスチャイルド、サッスーンは、日本が欧米列強によって半植民地状態に置かれると、間もなくトーマス・グラバーを長崎に派遣して、英国系フリーメーソン駐日代表、および英国の日本占領作戦の前線総指揮たらしめた。グラバーは二十歳代の若者に過ぎないが、その背後にひそむ勢力が日本人には見えない。』(太田龍『長州の天皇征伐』成甲書房より)
『トマス・ブレーク・グラバーはスコッチ・メーソンで、上海経由で長崎に渡ったのは1856年、21歳の時である。グラバーは長崎で海産物の輸出をしていたが、薩摩、長州、土佐、肥前の諸藩に倒幕の機運が生じたので、鉄砲、弾悪、火薬を諸藩へ調達した、薩摩の小松帯刀と親しくなり、小松を通じて土佐の坂本竜馬を職り、坂本竜馬とは特別な関係を持った。薩長離反のときなどには坂本竜馬に薩長同盟の組み立てをさせて革命勢力の統一を計っている。また坂本竜馬を通じて岩倉具視と親しくなり、官邸にも接近、日本とヨーロッパを結ぶ楔の役目をしている。とくに木戸孝允、伊藤博文、井上馨、五大友厚、森有礼、寺島宗則などには、公私の交際を続け、明治革命の裏方の役目を果たしている。(山石太郎『世界の改造者−楽園を創るフリーメーソン物語』世界連邦国際学会より)
『伊藤は松蔭の推薦で米原良蔵に従って長崎に行き、約一年間イギリス人グラバーの下僕として英語を学んだ。伊藤博文が成功した理由は、彼がれっきとした武士ではなく貧農の出身であったために、グラバー邸のハウスキーパーとなり、その愛顧を得て鉄砲の買い付けに成功したこと、および力士隊の総長として大室寅之祐と親しくしたことの二つである。伊藤は自らイギリス人グラバーの下僕となって武器弾薬を入手し、ついにイギリスの差別と侵略の政治を模倣した。』(鹿島昇『日本侵略興亡史』より)
『明治新体制になると、グラバーは日本に帰化して「倉場」と改姓し、日本人女性と結婚して一家を構えている。今日でも長崎には「グラバー邸」跡が保存され、いわゆる観光名所である。そこにはフリーメーソンのシンボルが刻印されており、幕末、このグラバー邸が、西洋フリーメーソンの策源地であったことを証明している。日本帝国内閣総理大臣伊藤博文が、そのグラバーの下男であったとはどういうことだ。通常の歴史書には、グラバーは「英国商人」「英国武器商人」「グラバー商会の長」として、ほんの申し訳程度に登場するに過ぎない。』(太田龍『天皇破壊史』成甲書房より)
太田龍『麻薬とユダヤの陰謀史』成甲書房より
以下抜粋。
『英国が中国(清王朝)に仕掛けた「阿片戦争」は、日本の歴史の教科書でも、名前ぐらいは出てきます。ところが、どうしたことか、筆者の知る限り、明治以降今日まで、この阿片戦争を本格的に掘り下げて解明した本は、ただの一冊もないのです。これは決して偶然ではありません。日本の学会(東京帝大と慶応大学を起点とする)とジャーナリズムの中に、英国の恥部を究明することを抑止する絶対的な悪魔の手が伸びていたのです。ユダヤは、この英国の仮面をつけて麻薬ビジネスを取り仕切っている。英国の王室と貴族階級が闇の中で麻薬ビジネスに取り込まれており、彼らは、労せずして莫大な悪魔のカネを手に入れる立場にあった。つまり、それほどに、この英国の王室と貴族は、腐敗と堕落のただ中に生きていたのです。ユダヤが吸血鬼として英国に取り憑いてから、約350年。その英国の現状は、いや惨状というべきか、どうでしょうか?』
『「ドープ・インク(Dope INC.)という、戦慄すべき著作を入手しました。その日本語訳は「麻薬株式会社」でしょうか。ドープは麻薬、インクはインコーポレーション(株式会社)。実質的な著者はリンドン・ラルーシュというアメリカの政治家です。ラルーシュはアメリカ労働党という小政党の指導者だったようですが、彼は1977年に、アメリカ国民は、カーター大統領の政権によって推進されている非合法な麻薬ビジネス汚染に、反対する戦いに立ち上がらねばならないことを自覚しました。1978年春にラルーシュは、アメリカ労働党内に麻薬問題の調査班を作り、こうして、「麻薬株式会社ドープ・インク」の第一版が1978年に公刊された、とあります。ラルーシュは「麻薬に反対する政治活動家」であり、ラルーシュによって組織された調査班の結晶としての同書の第一版は、全世界に広がる麻薬ビジネスの全貌を白日のもとにさらけ出した最初の著作である、とされます。』
『同書の出帆の直後から、ヘンリー・キッシンジャーと、ブナイブリス(”誓約の兄弟たち” ユダヤ人のみの高級秘密結社)のアンチ・デフオメーション・リーグ(”ADL ユダヤ人名誉毀損防止法” ブナイブリスの下部組織 麻薬ビジネスに関与)は同書の著者たちを沈黙させるための謀略活動を開始した、と記されています。1982年には、キッシンジャーの提案によって「ラルーシュ退治機動部隊タスク・フォース」が組織されたのだそうです。』
『1986年に、同書の第二版が出版されました。その1986年10月に、400名以上の警察官が動員されてラルーシュの関係する幾つかの事務所を襲いました。そして、ラルーシュと彼の仲間たちは逮捕され、外国の情報部と結びついていたなどとの理由で裁判にかけられた、というのですが、この事件の経過については、筆者の知る限り、日本のマスコミはたったの一行も報道しておりません。陪審員はラルーシュらに対し、無罪の票決を下したにも拘わらず、裁判所はこれを破棄して、1989年1月、ラルーシュに懲役15年の刑を言い渡したとありますから、現在、ラルーシュはアメリカの刑務所に幽閉されているわけです。』
『筆者が入手したものは、1922年発行の第三版で、697頁という大著です。これほどの著作(そして筆者)が、これまで日本人に全く知らされていなかった、一語も報道されなかった、というのはどういうことなのか。ラルーシュの本は、麻薬ビジネスを遂行しているのはアメリカ政府である、いや、アメリカ政府を背後で動かしているより大きな世界地下帝国であることを論証している、従って、アメリカ政府とそれよりも大きな世界的権力そのものをまな板の上に乗せて料理しようとするのが、ラルーシュの立場です。』
『ラルーシュは「麻薬株式会社ドープ・インク」の第七部で「組織された犯罪」を論じ、「犯罪インターナショナル」の実在を検証し、更に、英国の「国際暗殺局(ブリテイッシュ・インターナショナル・アサシネーション・ビューロー・バーミンデックス)」が1963年の米ケネデイ大統領の暗殺に関与した、としています。1963年の春から夏、秋にかけて、カリブ海のジャマイカ島モンテゴ湾の某所で、ケネデイ大統領を葬り去るための英国の秘密諜報部が主催する国際会議が開かれた、というのです。彼らがケネデイを暗殺しなければならなかった理由は、同大統領が麻薬ビジネスを抑止することを本気で考えたことである、つまり、地下世界帝国にとってケネデイは除去すべき障害物となったらしいです。』
『リンドン・ラルーシュらの「麻薬株式会社ドープ・インク」の第三部八章は、「RIIA(英国王立国際問題研究所)は、どのようにして麻薬その他の汚いお金を動かしているか」を詳細に解き明かしています。RIIAは1919年に設立された、と記録されています。つまり、まぎれもない、第一次世界大戦の終了の直後です。王立と名が冠せられているからには、れっきとした英国王室公認の機関であることが分ります。RIIAとその周辺、その関係諸団体の実相について、必ず参照しなければならない古典的学術書は、アメリカ、ジョージタウン大学(これはイエズス会系です)の教授をしていたキャロル・キグリーの「悲劇と希望−我が時代の世界史」という1300頁余の大著といわれています。』
『キグリー教授の説明によれば、19世紀の末に大英帝国の支配層の中に、ジョン・ラスキン、セシル・ローズを中心とする秘密結社が結成された。そしてこの秘密結社が次第に成長して、円卓会議(ラウンド・テーブル)、セシル・ローズ奨学金、ミルナーグループ、などとなり、アメリカにもその支部のごときものがつくられた(それをアメリカでは東部エスタブリッシュメントなどと称する)、この秘密結社の「フロント組織」としてRIIAが設立された、というのです。一応こんな具合に記述されるのですが、セシル・ローズもミルナーも、実は、英国ロスチャイルド財閥の使い走りに過ぎないように見えます。』
『ラルーシュらの「麻薬株式会社ドープ・インク」によると、世界の麻薬貿易(及びその他の汚い商売)の頂点に、RIIA司令部(ロンドン、セント・ジェームス・スクエア、チャタムハウス)が位置している、とあります。RIIAは英国の国家そのものと言ってもよい。英国政府の政治的承認及び、世界の金融市場、世界の金とダイヤモンド市場の力のすべてをもってする支援と便宜なしに、RIIAが管理する世界麻薬ビジネスの運営は不可能である−と、ラルーシュらは述べています。』
『幕末の尊王攘夷の志士たちは、英国が清国に仕掛けた阿片戦争の不正、邪悪をしっかりと意識批判していました。ところが、手品でも使ったように、明治の新政府から英国への警戒感、英国が悪魔的麻薬ビジネスに関与していることへの批判が消えてしまうのです。のみならず、世界の超大国、大英帝国への崇拝、媚びへつらいの感情が支配的になっていくのです。その結果、「日本の皇室のモデルは英国王室である」などという、途方もなく愚かな見解が、堂々とまかり通っているのです。歴史の真相を知ると、真に日本人として、顔から火が出るかと思われるほど恥ずかしい話です。「ユダヤ陰謀説は狂人の幻想だ!」などと、フリーメーソン直結の国賊、小和田元外務事務次官(雅子妃の父君)は口走ったそうですが・・・フリーメーソンは「三百人委員会」の下部組織であり、従って必然的に国際敵麻薬貿易を支えているものと推定されますので、日本民族のその最高指導層の、少なくとも三人(中曽根元首相、竹下元首相、金丸元副首相)が麻薬ビジネスとの関係を云々されるという、非常事態に突入しました。』
『筆者は最近、アメリカで発見され、復刻公刊されている、一冊の超極秘文書を入手しました。それは「静かな戦争のための沈黙の兵器(サイレント・ウエポンズ・フォー・クワイエット・ウオー)と題されています。この秘密文書は、1986年にカリフォルニアで、全く偶然に発見されたそうです。それによれば、1954年、国際エリートが会議を開き、全世界の大衆を家畜化(そして集団的大量殺害)するための第三次世界大戦をひそかに宣戦布告した、というのです。この静かな戦争の主たる兵器は、コンピューターであり、生物兵器、心理兵器であり、戦争を仕掛けられている大衆は、それに気づかない。この「国際」エリートが依拠する根本思想は、あの初代ロスチャイルドが発見した、と銘記されていますから、「彼ら」の正体が国際ユダヤ指導部であることは自明のところでしょう。現代の麻薬は、実に、この沈黙の兵器体系の一つ(しかも最も重要なものの一つ)として位置づけられているらしいのです。』
以上抜粋。
太田龍は中曽根と麻薬ビジネスについて言及している。
中曽根元海軍主計は吉田茂のコネクションである。
では吉田の「右腕」といわれた白洲次郎とは何者か。
昨今白洲次郎&正子ブームが到来する陰で、
次郎叩きも同時進行している。
次郎は「日本一カッコいい」「風の男」なのか。
はたまた「プリンシプルのない」「日本一最低の男」なのか。
次郎の相反する言葉の中にヒントがある。
『素朴な正義感は貴いものだと思う。これだけは死ぬまで捨てない。僕の幼稚な正義感にさわるものはみんなフッとばしてしまう。』
『僕は知らんよ!知ってたとしても僕は何も喋らんよ。僕は口が堅いからここまで生きてこれたんだっ!』
次郎は「葬式無用」「戒名無用」と正子に遺言した。
これはカッコいいセリフとして写真付きで公開されている。
しかしそこには無惨な心情が潜んでいると私は思う。
次郎の一見カッコいいセリフの裏には常に別の本心が隠されている。
私は白洲次郎という男は、正義感どころか誇りさえ持てなかったと思う。
白洲次郎はそういう宿命を負って生まれてきた子どもである。
彼は生涯『素朴な正義感』を持つことが許されなかった。
いざというときフッとばされるのは『僕の幼稚な正義感』の方だったのだ。
真実を知ってたとしても喋ることはできない。口が堅くなければ生きて行けない。
エージェントとして宿命づけられた白洲次郎のプリンシプルである。
『私が、学校の宿題などで辞書を引くのが面倒くさいときに英単語の意味を問いますと、父は英語を日本語に訳せないことがしばしばありました。息子さんの留学の相談にみえた方に、「僕のようになるからあまり小さい時に外国にやらない方がいいよ」と言っていたそうです。父の生涯を通じてのイギリスの友人、ロビンおじによりますと、ジローは大学に入ってきた時にはもう英語が出来たというのです。父にそのことを聞いてもはっきりとは答えてくれず、後年不思議に思って叔母に聞きますと、ハイカラだった彼等の家庭では、子ども達を神戸の日曜学校に行かせていて、教会の牧師様に英語を教わっていたということでした。』(牧山桂子『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』より)
日曜学校で英語を習った程度で、次郎のような言語的奇形にはならないだろう。
兄弟姉妹もケンブリッジ入学レベルを修得していたとでもいうのだろうか。
次郎は物心ついた時から有用な道具となるべく、言語矯正を受けさせられていた。
彼がどもる癖があったのは強制的な言語教育のストレスが考えられる。
友達と口論するとどもりながら次第に激昂し相手に手を出したという。
次郎は正子との日常会話でも英語を使っている。手紙はほとんどが英語である。
次郎のスマイソンのスケジュール帳も9割がた英語で予定が記録されている。
Masa:You are the fountain of my imspirationand the cliuax of my ideals. Jon
次郎が正子に送ったラヴレターも英語である。
二人には本物の情愛があったと私も感じる。
婚約者正子へ書き送ったこの最大級の賛辞も次郎の本心だと思う。
彼は最愛の正子への手紙の最後にジョンと署名している。これが彼の本当の名前なのである。
だから正子も「私の愛するJon」と返信している。彼にとって本名はジョンなのである。
S・G・ウオーバーグ投資銀行の元東京支店長クリストファー・バービスの証言
『次郎は吉田茂元首相の右腕だったと聞きましたが、なぜ彼が戦後、あれほど力を持っていたか分らないのです。また、彼は普段、手紙もメモも作成せず、口頭でメッセージを伝える事が多かった。電話でも多くを語らず、アポなしでぶらりとオフィスを訪ね、用件だけ言うと、すっと消えていきました。だから、彼のメモすら残っていないのです。 』(徳本英一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』より)
しかし彼は家族のためにシナリオの一部を洩らしている。
『白洲夫妻が東京郊外に移住を決めたのは、太平洋戦争開戦前夜の1940年のこと。それは白洲次郎がこのころ既に「日本とアメリカが戦争になれば日本が負けることが明白であり、物資の不足が懸念される」という予測を立てていたから。そこで二人は食料不足となっても困らないようにと田畑付きの農家を探したのです。鶴川で見つけたその家に移住したのだ43年のこと。その際は疎開のつもりだったものが、結局は終の棲家となり、それが現在公開されている、「武相荘(ぶあいそう)」なのです。』(和楽ムック『白洲正子のすべて』より)
もちろん次郎は日米開戦の正確な時期も知っている。
43年4月18日に五十六が暗殺され前半の区切りがつく時期も。
シナリオでは戦局が悪化していく合図なのである。
だから次郎は翌月の5月11日にに家族を連れて鶴川に疎開する。
彼は東京大空襲も事前に知っている。
『「確か昭和20年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ・・・・と来たんです。私は本所に住んでいたんですが、あと二〜三日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が三月の九日か一〇日だと言ってました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです・・・」これは不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか・・・』(柴田哲孝『下山事件 最後の証言』より)
『戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥の癒着のなかから誕生した昭和通商と結びつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父がこの会社の重役であった。柴田は「我が家に白洲次郎と思われる人物が祖父や矢坂玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。』(鬼塚英昭『原爆の秘密 国外編』より)
『クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウオーバーグから肩書きも受けとっていなかった。しかも1982年創業者のシグムンド・ウオーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見役を続けた。「ウオーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウオーバーグ卿に頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」』(徳本英一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』より)
『創業者のシグムント・ウオーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠地を持つウオーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウオーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。そのウオーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。FRBをつくりあげたのはポール・ウオーバーグ。その息子のジェームス・ウオーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当者となる。白洲次郎はウオーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループに流していく』(鬼塚英昭『原爆の秘密 国外編』より)
鬼塚氏は次郎がジミー(ジェイムス)・ウオーバーグの庶子だと推察している。
僭越ながら私も同意である。ジミーが次郎の父親だと言われても首肯できる。
次郎は父親の白洲文平より、はるかにジミー・ウオーバーグに風貌が似ている。
北康利は『次郎は母親似だ。兄弟姉妹の中で誰よりも顔立ちがよし子に似ている。
なかでも目から鼻筋にかけてのあたりはそっくりである。』
とその著書『白洲次郎 占領を背負った男』の冒頭に書いている。
しかし写真を見るとそっくりなのは、鼻筋は通っているがしょうゆ顔の長兄・尚蔵である。
よし子が小さい次郎を連れて港に行った時、「お父さんはもうすぐ外国から帰ってくるからね」
と慰められたエピソードがある。よし子にそっくりだったら言われるはずがない。
次郎の横顔を見るとかなり彫りが深く、彼の目にはアジア人の特徴である蒙古ヒダがない。
ジローという名前は白洲文平が適当につけたことになっているが、
本来ジミーをもじったものかもしれない。次郎はジローでありジョンなのである。
OSSに所属しドノヴァンの配下にいたジミーは、ジョンを通してヨハンセングループの極秘情報を得る。
スプリングマイヤー氏によると、イルミナテイは血のつながった子どもを養子に出すという。
二十年先三十年先の計画のために営々と育て、大事な局面で駒として使うためである。
『「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのが、ロスチャイルドとウオーバーグのユダヤ財閥である。一度彼等のエージェントになった者は、死ぬまで、その任を解かれることはない。FRBをつくりあげたのはポール・ウオーバーグ。その息子のジェームス・ウオーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当者となる。白洲次郎はウオーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセングループに流していく。
徳本英一郎が「一九八五年白洲次郎は生涯を閉じたが、英国流ダンデイズムと気骨あるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起している。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した”密使”であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の”エージェント”としての顔だ」とあるのはなんとも甘い表現である。「白洲次郎はシグムント・ウオーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。』(鬼塚英昭『原爆の秘密 国外編』より)
次郎は小さな子どものころからエージェントとして養育され、
望むと望まないに拘わらずケンブリッジに留学させられ、
生家の破産にともない帰国して任務についた。
次郎が外車を乗り回しているのは少年のころからである。
四万坪の敷地で高級車を乗り回していたオイリーボーイが、
ケンブリッジに行っても変らなかったというだけの話である。
「親が破産しながらウオーバーグの援助を受けて外車を乗り回していた」
という言い方は不当である。彼はそのように育てられていた。
彼は破産した親の肩代わりとして捧げられた生贄なのだ。
『白洲文平は築地大学校(一致学校、現・明治学院高校)卒業後、ハーバード大学、ボン大学に留学。帰国後は三井銀行や鐘紡に勤めるが中途で退社。その後、兵庫県神戸市中央区栄町に貿易会社白洲商店を創業し綿貿易により発展して巨万の富を築いた。豪放ながら傲慢な性格で、周囲からは『白洲将軍』と畏れられた。
建築が趣味で多くの邸宅を次々に建て、それらは『白洲屋敷』と呼ばれた。兵庫県伊丹市に建築した邸宅は4万坪の敷地にコロー、モネ、マティス、ピカソなどの作品を収めた美術館や煉瓦造の給水塔などを備えたものだったという。
白洲商店は1928年(昭和3年)に昭和金融恐慌により倒産。その後は阿蘇山麓の大分県竹田市荻町に洋館を建てて移り住み、その地で死去した。』(ウイキペデイアより)
4万坪の敷地にコローやモネやマテイスやピカソを収める美術館・・・桁外れである。
白洲商店のこの繁栄もその後の破産も、すべてウオーバーグの掌の上で転がされていたと思う。
ニューヨークの大恐慌もポール・ウオーバーグが絡んでいる。彼らは好きな時に自由に恐慌が起せる。
シナリオのタイミングを見計らって恐慌を起こして白洲商店を潰し袋小路に追い詰める。
次郎はその宿命の中で「生涯を捧げなければならなかった」と私は書く。
昨今の次郎&正子ブームには、鬼籍に入った当人たちも困惑していることだろう。
白洲家の人間は二人をネタに商売しているようだ。
特にブームに乗じて紀行文やアルバム本を何冊も出している白洲信哉。
彼は小林秀雄の孫でもありながら、上っ面しか書けない不肖のボンボンである。
次郎&正子のスネをしゃぶるような本やエッセイをものして悦に入っている。
小林秀雄の名折れである。
近現代・系図ワールド参照
http://kingendaikeizu.net/seizi/asou.htm
http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm
吉田茂の孫が三笠宮に嫁いでいるのが分る。
◎山本五十六を指名したのは吉田茂である。
◎山本五十六を暗殺させたのも吉田茂である。
◎吉田茂を中心にしてヤラセが行われた。
◎吉田茂が憲兵にスパイされたり逮捕されたのもヤラセ。
◎吉田茂が白洲次郎をGHQに対抗させたのは国益のためではない。
◎吉田茂は自分のものとし日本国を独立させたかったのである。
◎吉田茂はトロイの木馬の継承者である。
◎白洲次郎はプリンシプルを持てない宿命を生きた。
◎白洲次郎に中曽根康弘が取って代わった。
◎主計士官としてトラック島にいた中曽根は五十六暗殺に協力した。
◎白洲次郎と吉田茂のプロパガンダ本を量産している北康利は怪しい。
次に約束した中田君の五十六プロパガンダに反証します。
中田安彦『山本五十六の「聖書」』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/489.htmlより
以下抜粋。
『(五十六は近衛に呼ばれて)その際に「2年、3年なら暴れて見せる」と有名なセリフを語っている。これは一種のブラフであっただろうが、山本の心理を推察すれば、「最長でも2年か3年で講和に持ち込む事ができる」という彼の自信を表していたように思う。』
以上抜粋。
中田君、『2、3年』ではなくて「半年、一年」である。
これをいい加減にして山本五十六の早期講和の構想を検証しても、
仮説自体が成立しない。
もともとシナリオでも2、3年で終わらせる予定だったのだ。
五十六のブラフでも自信のほどを示すセリフでもない。
半年というのが悲願だったろう。
五十六は航空本部長として航空隊を育てているが、殉死した若者に寄せる哀悼は尋常ではない。
彼はヤラセによる戦争で犠牲者が出ることに堪えられなかったと思う。
五十六が原田熊雄に語る黙示録的予言は君も知っていることと思う。
自分の意に反して開戦しなければならない苦衷を語るものである。
自信とかブラフという言葉ほど五十六の心情から遠いものはない。
『半年や一年暴れて見せる』
というセリフが一人歩きして自信満々という誤解を生んでいる。
彼は海軍兵学校の面接試験で人生のモットーを訊かれて
『やせ我慢』と答えた人なのである。
避けられない開戦なら半年か一年は意地にかけて暴れてみせる。
どうかその期間内に講和してくれと懇願している真意を汲み取るべきだ。
五十六の黙示録と同じことを白洲次郎も語っている。
東京大空襲を予知して事前に避難しているのである。
二人ともシナリオを知っていたのだ。
同盟通信社は次郎と前出のOSSの連絡ルートだったようだが、
同盟通信社の松本重治もシナリオに一役買っている。
松本重治は神戸一中の同窓生である。
彼は広島原爆投下の演出に協力している。
この松本重治は牛場友彦ともに、近衛服毒自殺の前夜に荻外荘を訪ねている。
吉田茂は近衛服毒自殺の部屋に寝泊りし荻外荘を買い上げている。
私は吉田茂と昭和天皇が図って近衛を排除したと思う。
五摂家の筆頭である近衛家の当主は、昭和天皇の退位を勧めて抹殺された。
吉田茂にとって昭和天皇は絶対に退位してはならない掌中の玉である。
道徳的見地から退位を勧めた東大総長・南原繁を指して、
「曲学阿世の徒」と吉田茂が唾棄したエピソードは有名である。
再び「山本五十六と聖書」より以下抜粋。
『ハーヴァードではシェイクスピアなどを通じて語学を専攻した山本五十六だが、その際にトランプ遊びを覚えていって現地でのアメリカ人との交流を深めたのではないかと私は仮説を立てている。同時に半分はキリスト教徒ともいえる彼が現地人と共通の話題を持ったことも考えられる。』
『そのような「欧風かぶれ」の気質が日本の天皇教原理主義の愛国右翼たちからは、疎まれていったのだろう。その結果、山本五十六フリーメーソン説が反ユダヤ系の国際政経学会に出回るようになったのだろうと考えられる。他にも海軍士官の立場でイギリス、豪州、米国の海軍人脈を持っていたはずである。だから、メーソンはなくとも「トランプ・ブリッジ結社」のメンバーではあったかもしれない。』
『山本は阿川弘之などの提督三部作ではこのようなキリスト教とのかかわりは一切紹介されていないはずだし、アメリカ駐在中に長岡出身の油田経営者の岸吉松とともにテキサス州のオレンジ油田を視察してもいる。そして、ハーヴァードではシェイクスピアなどを通じて語学を専攻した山本五十六だが、その際にトランプ遊びを覚えていって現地でのアメリカ人との交流を深めたのではないかと私は仮説を立てている。同時に半分はキリスト教徒ともいえる彼が現地人と共通の話題を持ったことも考えられる。』
以上抜粋。
「トランプ・ブリッジ結社」というのは初耳であるが、
トランプで現地でのアメリカ人との交流を深めて良かったではないか。
情報収集が五十六の任務なのであるから少しは役に立ったかも知れない。
仮に五十六が「半分はキリスト教徒ともいえる」としても、
「現地人と共通の話題をもったことも考えられる」ことがどうして不都合なのだろうか。
駐日大使グルー一家とヨハンセングループの家族たちは、
敬虔なキリスト教徒として家族ぐるみ交流してお互い情報収集しているのである。
また確かに五十六記念館には小さな古ぼけた聖書が展示してあり、
その説明書きには”駐在時代に買い求めたものである”とあるし、
シェイクスピア全集もコンパクトなものが数冊展示されている。
それは語学修得のテキストして買ったものであると同時に、
「仮想敵国の人間性を知るのが勝機につながる」という五十六の考えによる、
という説明がパンフレットに書かれている。
海軍大学選科(東京外語大委託生)では英文学をやらされる。
シェイクスピアを踏破するのは慣例のうちである。
再々度『山本五十六と聖書』より以下抜粋。
『その背景にはいざとなれば自分のアメリカ人脈を駆使して戦争をやめることができると考えていたのだというのが私の仮説。もしかすると、五十六は実際に開戦前後も裏で交渉をしていたはずである。これは悪いいいかたをすれば「二重スパイ」のようなものだ。ところが、太平洋戦争はアメリカ国民を団結させてしまい、講話どころではなくなり、最終的には広島・長崎への原爆投下で終わった。』
そもそも駐在大使付き武官というものは情報将校ということある。
山本五十六がアメリカ国情に精通する情報将校というのは秘密でも何でもない。
油田の視察は最重要事項である。同郷の者が経営する油田を視察するのはほとんど義務といっていい。
以上抜粋。
山本五十六が二重スパイだったら、駐在付武官は全員二重スパイである。
大使館付海軍武官は、駐在員を指導する任務も帯びている。
五十六が新米駐在員に心構えを説いて聞かせている箇所を参照されたい。
反町栄一著『人間・山本五十六 元帥の生涯』
昭和39年9月15日光和堂発行(売国奴呼ばわりされる遥か昔)より
以下抜粋。
駐米大使館附武官
大正八年四月五日には本職(軍務局局員)並びに兼職(教育本部技術員)を免ぜられ、米国駐在を仰せ付けられた。これは米国の敵情視察のためで、最初の駐屯地を米国発祥の地ボストン市に選ばれた。山本大佐の米国駐在武官たりし様子は、伊藤整一さん(元海軍中将)が最もよく語っておられた。(以下、伊藤氏の証言)
山本武官は、私が海軍大学校学生時代の軍政教官であり、また霞ヶ浦におられた時、私は航空隊附きとして三ヶ月余その部下であったが、ワシントンでお会いしたその日は、なかなか話の種が多く、全く時の移るのを忘れていたが、そろそろ空腹を感じたので、時計をのぞいて見ると、いつの間にか午後一時近くなっているが、全然昼飯は出そうにもない。二時にもなったが一向何のこともない、とうとう私も腹の虫に根負けして、「昼飯は食わせないですか」と質問した。山本武官は一寸妙な顔をされたが直ぐ「昼飯を食うのか」と反問された。
「食いますとも、腹が減ってやりきれんですよ」と答えた。武官は腕時計を見ながら「それなら早く言えばよかったに、もう二時だからレストランもホテルの食堂も刻限が過ぎている。やむを得ないから近所のイタリヤ料理にでも行こう」という事になった。私は食事をしながらどうも腑に落ちない。「武官は二食主義ですか」と質問して見た。武官は素朴な調子で「二食だとか三食だとか、そんな窮屈なことを考えるもんか。一食のこともあり二食三食のこともあり、その時に応じて融通自在さ。」との事であったが、まだ私には合点が行かぬことろがある。
その点を質すと、山本武官いわく「駐在員が一日三度の食事をしかも定刻にしよう等はもってのほかの贅沢だ。三度の食事をするの日本での話さ。君たちもアメリカに来れば、是非とも自動車は持たねばならぬ。生活費の高いこの国で、海軍士官としての体面を保たねばならぬ。何を勉強するにも高い月謝は掛けねばならぬから、極端に貧乏するに決まっている。その間にでき得るだけ視察旅行をする必要がある。否、米国の隅々、残る隈なく踏破してもらいたいのである。この旅行が将来のため、何より為になる勉強であり、研究である。室に閉じこもって英語の本を読むことも勉強かも知れぬが、それは日本にいてもできる。駐在中はこの国にいる時でなければ他所ではできないことに主力を注ぐべきで、そのうちでも旅行が一番重要だ。ところが米国は旅費がかさむことは世界一だから、平常あらゆる節約をして、旅費を蓄えることを心がける必要がある。それが為に食事なども我慢して、いよいよ空腹でやり切れなくなったら、昼食夕食を問わず食べるのだ。これで栄養不良になることもなければ元気の衰えることもない。僕が駐在時代に体験済みだ」
私はこれを聞いてすべてが氷解した。この言葉の中に山本元帥の面目躍如たるものを直感するのである。私どもはワシントン滞在中、今後の駐在地についても色々研究したり相談したりした時、山本武官の言われたことは、第一に日本語を使う機会の最も少ない所を選ぶこと、また出来得るなら大学の寄宿舎に入って、米国学生と起居を共にせよ、とのことであった。でその旨を体して、私はニューヘブンのエール大学に、小林少佐はパリストン大学に行くことにし、武官の同意を得た。
以上抜粋。
たかだか任務で計5年駐在員や駐在付武官をした五十六が「二重スパイ」なら、
アマースト大学に留学してクーリッジ(米大30代大統領)や
モロー(モルガン商会重役)とクラスメートだった樺山愛輔、
ハーバードに留学し、ウイルソン大統領を操ったマンデル・ハウス大佐と面識がある牧野、
若い頃ずっとフランスに留学して贅沢して遊んでいた西園寺公望、
グラバーに抱きかかえられ遊学していた長州ファイヴ、
官費で贅沢三昧に遊学していたこういう連中は何というのだろう。
再々再度『山本五十六と聖書』より以下抜粋。
『ここで今日になって米国のホルダー司法長官がビンラディンの暗殺について山本五十六の暗殺を例に正当化したことが思い出される。ビンラディンも当初は米国の同盟者であった。異なる勢力の間で「連絡がある」ということは重要なことである。山本五十六は戦時中、一定期間の間、泳がされていたのではないか。』
(ホルダー長官の発表)
『敵の指揮官を攻撃目標にすることは合法だ。例えば、第2次大戦中に山本(五十六・連合艦隊司令長官の搭乗機)を撃墜した時も行った
と証言し、殺害が正当だったと強調した。』
以上抜粋。
ホルダー長官のコメントには五十六をアセットと示唆する要素はない。
『敵の指揮官』という言葉以外何も提示されていない。
五十六がビン・ラデインと同類であるアセットであるという仮説は、
『すり替え』によって立てられている。
『すり替え』は中田君の全てであるといっても過言ではない。
彼のあまたの粗製濫造本はこれを機軸にして書かれている。
ブログでも同様である。
私が意見投稿をすると、即座にチャチを入れる人物の得意ワザでもある。
文章から共通の言葉を探し出して、因数分解してすり替えるのである。
ビン・ラデインは暗殺された。山本五十六も暗殺された。
暗殺で因数分解する→暗殺(ビンラデイン+と五十六)と括る。
これがすり替えの基本テクである。
括ってから違うカテゴリにすり替えるのである。
こんな風
↓
暗殺(ビンラデイン+と五十六)=アセット。
中田君の『日本再占領』はほとんどすり替えである。
検証するためには今後も不毛な作業に耐えなければならない。
中田君のことだから、
『五十六は空軍の創設に反対し、航空戦力を削ぐことに腐心した』
という言い掛かりも信じているかもしれない。
海軍航空隊は五十六の指導のもとにゼロから始まり、血の滲むような研鑽を重ねて創ったものだ。
五十六は航空隊産みの親としてつとに知られている。民間の航空会社を指導したのも五十六である。
その五十六を差し置いて『空軍創設』が建議され、五十六が猛反対したということ自体が初耳である。
再び反町氏の前掲書より以下抜粋。
当時の思い出を美和義和氏は次のように詳しく語っておられた。(以下、美和氏の証言)
昭和二年二月から同年三月春まで、元帥が米国在勤帝国大使館附武官としてご在職中の後半を、私は後任補佐官として御仕えした。このころ武官は米国航空のことについて、犀利な眼で注視しておられた。当時大西洋横断飛行ということが米国航空界の大問題であったが、遂にリンドバーグがこれ成功し、続いてバードが最期に不時着したけれど、事実上はこれをなし遂げた。遺憾ながら我が航空界は、まだまだこれと比肩するまでに立ち至っておらぬ。
武官はこれらの飛行を研究して、意見を出せ、と言われたので、あれやこれや調べ、かつ考えている間に、フト気がついたことは、洋上長距離飛行上、計器飛行天測航法が絶対必要なことで、米国はすでにこれに着目して、立派な計器も使用していれば、またバードの飛行あたりは機上天測を実用している。これに反し、わが国では、海軍の航空でさえまだセンピル飛行から教わった、あの勘偏教育の域を脱していない。私たちはその前年、鳳翔で着艦訓練をしたが、その時でもまだ計器は当てにならぬ、勘を養わねばならぬ、と教わっていた。「チャント計器に合わせて来ました」と答えたら「何の計器が当てになるか、おれの勘の方が確かだ」となぐられてことがある。そのころは笑い事ではなかった。
そこで私は、我が海軍航空もすべからく勘飛行を脱却して、計器飛行を尊重するよう進めねば行き詰る。それにはこれこれの対策を執らねばならぬ、という意味で一文を草して武官に差し出した。武官は一読されて「その通りだ、僕も全然同意だ、ちょっと貸せ、少しなおしてやる」とて結論のところを注意を喚起さすためにか、だいぶ激しい論調に直された。その筆の跡を見ると、計器飛行及びその対策を、早く我が海軍航空に取り入れねばならぬことについては、武官の方が私よりはるかに明瞭に認識されているのが分かった。これは月報として所要の向きに送られた。
航空本部技術部長−航空技術陣の大刷新−
昭和五年九月一日には海軍省出仕航空本部長出仕を仰せ付けられ、次いで昭和五年十二月、海軍航空本部技術部長に任ぜられたのであった。ロンドン会議に於いて五・五・三を押し付けられた日本では、朝野を挙げて大論戦・大政戦が展開されていたのであったこの間にあって山本少将は、黙々として日本海軍の強化、国防の安全、ということについて、研究を重ねられたのであった。その結論が「航空建軍」であった。海軍航空を以って海軍の主力とせよ、との大結論に到達されたのであった。これは海軍に於いては、画期的な大革命であった。
しかし、当時における飛行機の実情は尚、すこぶる幼稚にして、その頃の海軍機は、母艦に搭載せる車輪付き艦船機と、軍艦に積まれた浮船付きの水上機とで、行動範囲もやっと二百海里くらいであったのだから、爆撃による補助的任務を果たすことは一般に認められたが、しかし決戦における主要兵力たるべし、とは何人も予想しなかった。「現実の飛行機は過去わずか十年間にこれだけの進歩を遂げた。将来十年における発達はさらに驚くべきものがあるに相違ない。されば将来、航空部隊が海軍の主役たるは、大地を打つよりも確かである」とは山本少将の信念であった。
本部内の消息通は次のごとく語っておられる。
「十二月、航空本部技術部長に就任した山本少将は、山梨勝之進時間の努力によって保証された政府の諒解の覚書中、航空兵力の整備、実験研究機関の奨励、及び充実のために、渾身の手腕をふるうことになった。昭和五、六年頃のわが国の飛行機の性能は、海上作戦における捜索偵察用として認められていたが、陸海軍の主要兵力としては、誰も予想している域に至っていなかった。この際、技術出身でない山本少将が、技術部長になったのには、相当の決心があったといわなければならぬ。すなわち前から胸中に描いていた『海空軍』を『空海軍』に成育させようとのどえらい抱負であった。
その具体的な方策として、航空技術神の大刷新であり、また軍部の補助に惰眠をむさぼる航空関係民間会社の徹底的な覚醒であった。飛行機は従来の幼稚な木製から、金属製の高性能機へと強推進されていった。これらの革新は、単なる言葉の上ではまことに容易であるが、利潤に生きる民間会社を指導し培養することは、決して技術問題に止まらなかった。このため山本少将の採った奨励策は、『すべてを国産品』というのであったが、他方、また外国新鋭機には惜しまず特許料を払って、この長所を学ぶことにも極めて勇敢であった。
かくて昭和六年には、基地航空隊十四隊の新設予算が成立し、同七年には、航空機の造修実験研究の綜合研究機関としての航空廠が新設されることとなった。後年雷名を馳せた中型攻撃機も、零式戦闘機も、いずれも当時苦心の結晶を結んだものであった。とにかく抽象的観念論に終始しがちの軍部の中に在って、進歩した生産設備、兵器及び技術の三拍子そろった具体的基礎の上に、海軍航空をすえ付けてやる、というのが、山本少将の根本念願であった。そしてその実現には、兵学校以来互いに心を許し合った無二の親友、堀少将が、軍務局長として相協力したことを看過できない。」
当時の航空技術につき、山本部長が血のにじむような苦心と努力をせられた事について、山県正郷氏(元中将戦死)の談話には次の如きものがある。
先ず第一の困難は、国内における航空関係工業の未発達ということであった。未発達よりも、むしろ皆無といった方が適当であった。それ程当時の海軍航空関係工場は貧弱なものであった。米・英はもちろん、伊・仏にも比較にならぬほど憐れなものであった。これを指導し充実して先進国を凌駕するの域に達せしむるのが、山本技術部長に与えられた任務であったのである。しかもこの立ち遅れた日本航空工業に対して、少将の与えられた方針は、「すべてを国産で」「国産品を使え!でないと日本の航空は独立もしないし、発達もしない」と徹底した国産品第一主義であった。
少将は、さればとて外国製品を無碍に排斥するのではなかった。外国で優秀な飛行機が製作されたとか、すばらしい発明が行われたとか聞くと、高い特許料も厭わず、真っ先に注文するのはいつも日本であった。勿論それをそのまま採用しようというのでないから、いつも注文するのは二台か三台であった。それが余りにもはげしいので、しまいには「新製作機のご注文は喜んで受けるが、どうかまとまった数を買っていただきたい」と悲鳴をあげて来たのであった。
輸入された外国機の長所はどこか、短所はどこか、長所はどうすれば国産機に採用できるか、短所は如何にして改良し得るか、こうして惜しみなく外国機を私見材料に供することにより、外国機を凌駕する国産機がどしどし製作されることになった。「外国機の輸入は我が航空科学技術の恥辱と思わねばならぬぞ、それは日本科学の試験台なのだ。もし国産機が外国の単なる模倣に終わったら、欧米科学に降伏したものと思え、その代わり、それを凌駕する優秀機が作られたら、勝利は日本科学の上に輝いたと思え。」
山本少将はこう言って、絶えず激励の言葉を送っていった。同時に山本少将は革製の回転イスに腰掛けたまま、関係者を叱咤激励するのみの、技術部長ではなかった。技術化出身でもない少将が、自ら航空工学の難問を買って出て、遮二無二技術の発達のため挺身する姿は、むしろ悲壮なものであった。それこそ真の陣頭指揮であった。少将が手がけた部品設計は、一々列挙に暇がないという。その後日本の飛行機が優秀になったのも、山本少将の精密なる頭脳と、精力絶倫の努力によるところであった。
当時の海軍航空関係の工場も貧弱であった。これを直接指導促進する技術部長の任務は並大抵ではなかった。この時までは海軍の航空機は、母艦または軍艦から発進する小型機以外、基地から発進するものは飛行艇のみであった。しかし将来海上作戦における、陸上基地より出発すつ大型機が必要なりと認められ、三菱に陸上攻撃機を製作せしめられたのは、松山部長・山本技術部長であった。この陸上攻撃機は幾多の困難があって、実用機として相当数が整備せられるまでは長年月を要したが、昭和十二年シナ事変が勃発するや、開戦劈頭、荒天を冒して渡洋爆撃を敢行し、世界を驚倒せしむるの遺功を奏したのは、要するに山本少将の先見の明と努力の賜物である。
以上抜粋。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。