http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/606.html
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安全プロパガンダ当事者としての『日本再占領』
中田君の『日本再占領』は福島原発事故を契機に書かれながら、
一番肝心な原発利権の闇と原発存続の是非については言及していません。
島唄様が教えてくださったリチャード・コシミズの動画
「低線量放射線の不思議を科学する」
http://www.youtube.com/watch?v=TiYc63tSVQk&feature=player_profilepage
15XEU14Dwc様が教えてくださった鹿児島編
http://www.youtube.com/watch?v=nnsly2f3qT8&feature=player_profilepage
これらを見て、リチャード・コシミズの講演内容とSNSIの類似性から
副島の派手なパフォーマンスと中田君の演出が仕組まれたものであることを実感しました。
リチャード・コシミズとSNSIの共通点は、の極端な論旨にあります。
両者とも被災者を即時帰宅させよ、放射性物質を積極的に摂取せよ主張しています。
(最近のSNSIの産直キャンペーンもその一端でしょう)
リチャード・コシミズの講演の導入部は、穏当なご当地ネタとして丸山遺跡の話題から始まります。
縄文時代が大好きというリ茶さんが、一番安定した時代として絶賛しています。
それから低線量レベルの被曝の演目に入るのですが、コンバットマーチをBGMに、
スライドショーが始まり、だんだんボルテージが上がっていって、
メインテーマの低レベル放射線の話になると、
「低線量レベル放射線にはわれわれの知り得ない力がある」
「低線量放射線の内部被曝は健康に良い」
「破損したDNAを修復しガンを抑制する」
「チェルノブイリでも帰宅し人は健康になった、帰宅しない人はガンで死んだ」
「福島県はいま健康に良い状態になったんだ、帰宅しないと健康被害に遭う」
「除染なんかしてもらっちゃ困るんだ」
「除染は非常にお金がかかる、だから高額な費用を除染にかけさせて、日本経済を潰すのが『やつら』の目的なんだ」
「燃料棒は最初から抜き取られてた、メルトダウンなんかしていない」
「メルトダウンしたらこんなこんじゃない、本当にメルトダウンしたっていうなら何故誰も死なないんだ」
「1人も死んじゃいないいんだよ、政府も東電もお芝居をしているんだ」
『しかしながら洪水のようにほとばしるヒトラーの言葉は、たんに本能的な衝動によって発されたものでは決してなかった。みずから告白するところによれば、プロパガンダの影響力を行使するあらゆる方法をマスターし、この技術の名人を自認するまでに、彼は二年の歳月を要したという。一見激しい興奮に動かされていると見えるしぐさも、猛り狂って流れ落ちる言葉も、自然発生的な感情の爆発であることはまったになく、入念に練習を重ねたポーズだった。ヒトラーは何時間も鏡の前に立ってはしぐさや表情を吟味し、そこに新たなヴァリエーションをくわえていった。専属写真家ハインリヒ・ホフマンに練習時のスナップ写真を撮らせ、特筆すべき徹底性とあきらかにナルシステイ
ックな自尊心でもってそれを研究し、最も効果的なポーズを見つけ出した。握りしめた拳、警告するように突き出した人差し指は、あるときは聴衆に向けられ、あるときは天を指す。厳しい審査に耐えたしぐさだけを、ヒトラーはそのあと壇上で使った。』
(グイド・クノップ著『アドルフ・ヒトラー』より)
ヒトラーの演説の基本方針は「聴衆は女だ」「ウソは大きいほど信じる」というものです。
ヒトラーの人差し指を突き出すポーズは、副島隆彦も学問道場のホームページで取っていますね。
副島は「微量の放射能なんてガブガブ食べて馴れろ」と唆し、
自分も毎夜ホルミンシス効果を出す枕を抱いて寝ると自慢しています。
リチャード・コシミズはもっと凄い。
何とウラン鉱石を一袋仕入れ「高いけど孫の代まで放射能を出すから、孫にも使えてお得」と勧め、
「これから医学は変わって行くんだ、変らなきゃいけない、内部被曝すれば医者は要らない」
「私はウランを入れたコップの水を一晩置いたのを飲むのを日課にしようと思う」
「今日で二日目だけど」と言って、聴衆の目の前でウラン入りコップ水を飲んで見せています。
このパフォーマンスで思い出すのは中川恵一です。
副島隆彦と中田君たちSNSIは、原発安全プロパガンダを喧伝するために、
当初から山下俊一と中川恵一を支持し、その主張を重掲に貼り付けていました。
中川恵一は『原発の幽霊』という異名を取る怪しげな東大の医者で、
「プルトニウムを食べても大丈夫」と記者会見で請け負っています。
リチャード・コシミズも「プルトニウムは重いから飛んで来ない」と言っています。
リチャード・コシミズはこの講演を青森県でしています。
六ヶ所村がある青森県でです。
六ヶ所村にプルトニウムをもっていくことを決定したのは、
原発マフィア第二号こと中曽根康弘です。
鬼塚氏によれば
『中曽根が首相であった1982年11月から1987年11月までの5年間、
青森県下北半島、恐山近くの寒村、六ヶ所村は大きく変貌し、
プルトニウムの巨大施設になった』とのことです。
日本におけるプルトニウムの人体実験は1945年、
長崎に投下されたプルトニウム爆弾から始まっていますが、
この『マンハッタン計画』に関わった医師たちが、
すでにその四ヶ月前からアメリカの国民に対して
プルトニウム注射の生体実験をしていた事実が明らかにされています。
アイリーン・ウエルサム著『プルトニウムファイル』渡辺正 訳 翔泳社よりダイジェストを転載します。
(注 このダジェストにはヴィクター・ロスチャイルドはただの一度も登場しませんが、彼が「マンハッタン計画」の首謀者であり、真のアメリカハンドラーであり、、
「マンハッタン計画」の関係者たちは彼のカウンターパーツにすぎないことを念頭に置いてください。)
『シカゴ大学・冶金研究所、一九四ニ年
まだ顕微鏡をつかっても見えないプルトニウムを、まだ海のものとも山のものとも分らない原子炉で生産し、まだ爆発実験さえしていない原子爆弾に仕上げる計画が始まった。このプロジェクトには「冶金学計画」の暗号名がついた。ニ三ヶ月もすると、超有名科学者の集団が冶金学研究所に形をなしていた。ロスアラモす研究所ができるまで、これほど華々しい研究者が一同に会した例はない。冶金学研究所の首脳はプルトニウムの研究を「特殊機密」とみて、情報の流通はごく小さなグループ内だけにとどめさせた。プルトニウムだけには特別な暗号名がつく。「産物(ザ・プロジェクト)」だった。
原子爆弾が作れるかどうかわからなかった時期、やがてマンハッタン計画に加わる科学者・軍人の首脳陣は、すでに放射能戦争を心に置いていた。フェルミに宛てた四三年五月ニ五日付けの手紙に、オッペンハイマーがこう書いている。「計画を実行に移すのは、五〇万人を殺せるほど食料を汚染できる目途がついてからです。散布してもあちこちに広がるため、実際に殺せる数は予想をずっと下回るでしょうから」。
プルトニウムの危険はたいていの医師が気づいていた。四三年の暮れ、地球上にプルトニウムはまだ二ミリグラムもない。だがグレン・シーボルトは察した。四四年一月五日、シーボーグはロバート・ストーンに短いメモを送った。「私の見るところ、プルトニウムは、元素も化合物もじつに危ない。長時間アルファ粒子を出すから、体内にわずか一ミリグラム以下が止まるだけでも危険だ。ぐっと下、数十マイクログラムでもおかしくなる恐れがある。当地シカゴでアラモスでも、いずれ相当な量を扱う。よほど気を配らないと、色々なルートで微量が身体にはいる。事故を食い止める為には、安全基準を確立し、さらに、体内でプルトニウムが及ぼす作用をつきとめる研究が必要だ。以上が最優先である。」数十年後、あのメモは人体実験のことだったのかと聞かれたシーボーグは、「まさか、動物実験ですよ」と言い捨てた。別の会見でもこう言っている。「人体実験など、私は何ひとつ知らない。」
四五年三月ニ三日金曜日。ハイマー・フリーデルはロスアラモスの医師・科学者団と膝つきあわせ、実験の細部を話し合った。原子爆弾製造の遅さにいらついて睡眠薬を飲むようになっていたオッペンハイマーも「ときおり」加わったらしい。九十年代まで生きたフリーデルは、この会合の貴重な生き証人の一人となる。「先頭に立ってどんどん進めたのは、ライト・ランガムでした」。ランガムは有機化学の博士号をとったあとシカゴの冶金研究所に入り、一年後の四四年三月ロスアラモスに移って、プルトニウム分析法の開発を担当、やがて、プルトニウムの毒性にかけては世界でも指折りの大家となり、「ミスター・プルトニウム」の称号を奉られる。ランガムの同席した会合で、人体実験に向けた議論がくり広げられていく。水溶性のプルトニウム化合物は、肝臓に入るし、骨は骨でも血球を生産する骨髄に落ちつく。放射線にやられやすい骨髄をアルファ粒子が爆撃することになるから、ことは深刻だ・・・。こうした情報交換のあと、ロスアラモス側の科学者はフリーデルに言った。マンハッタン計画本部に、実験の許可を頼んでほしい。「ロチェスターかシカゴの入院患者を選んで、一〜一〇マイクログラムのプルトニウムを注射し、排泄物を当研究所で分析する」実験だ。所長オッペンハイマーはそれを承認し、ウオーレンに次ぎのメモを送る。「添付文書にある計画書は、私としては承認したい。現在、ロスアラモスの作業者は他機関に比べずっと高い危険にさらされ、この問題は、マンハッタン計画の医学研究の枠内で以前より真剣に考慮すべきだろう。」
「ついに四五年四月、最初の人体実験を行う日が来た。これで、試験法を確実に評価できるようになったのだ」とヘンペルマン医師は誇らしげに書く。一九九四年に公開された、ライト・ランガムが当時四月六日付けで書いたメモ「とくに、注射するプルトニウムの量を精密に決めるのが肝心。プルトニウムを入れたシリンジは五分から十分そのまま置く。そうしないとメモリより五〜一〇%ほど少ないプルトニウムしか身体に入らない。」
マンハッタン計画の医師は、三度だけの注射に満足しなかった。一九四五年の夏(広島・長崎原爆投下)のいつか、マンハッタン計画の医学部門は、プルトニウム注射の人体実験をもっと進めるべきだと決断する。続く二年間に、新しく十五人の人間がプルトニウムを打たれるこの計画が完了した一九四七年夏までに、インフォームド・コンセントはいっさいなしで、合計十八人の身体にプルトニウムが入れられたのである。「ひとりか二人、末期患者をやりますか?」「できればもっとやりたいね」しかしプルトニウム注射は、なぜか打ち切られる。
翌月サミュエル・バセット医師は、ウランの濃縮同位体を腎機能の健全な六人に注射する実験を始めた。ウランの注射は、戦後のマンハッタン計画が進めた大がかりな研究の一部をなし、腎臓障害を生む最小投与量を決めるのが目的だった。オークリッジでは数千人がウランをいじっていたから、医師はウランの放射能毒性と化学毒性を知りたかったのである。ランガムは、ウランの注射を進めているバセットに、プルトニウムの注射を打った患者が再入院してきたら尿と便を集めるように指示した。
マンハッタン計画でプルトニウム注射にかかわった医師は、多くは戦後の研究でも助言者や推進者になった。原子爆弾は、ゼネラル。モーターズと肩を並べる規模の産業を米国に生んだ。戦後になると、大金を惜しげもなくつぎ込む核実験が、太平洋とネヴァダの実験場で始まる。その中で医師団も新しい課題を見つけた。アメリカの子どもは放射性か鉱物(死の灰)から来るストロンチウムをどれだけ骨にためたか、あと何回くらいの核実験なら安全なのかと、ロスアラモスやワシントンの秘密会議で、医師たちは他分野の科学者たちと論じあった。
神経科の研修医だった若いジョセフ・ハミルトンは戦後に核兵器産業の安全性を吹聴しまくったマンハッタン計画関係者のひとりだが、最初の犠牲者の1人でもあった。ハミルトンは病気を治す医師のはずなのに、人間味に欠けていた。人命の尊さをしっかり教わったはずなのに、敵の食べ物や飲み水に毒物を入れようと企む人間だった。冷徹と謹厳に服を着せたようなハミルトンが、戦後の晩年、途方もなく無鉄砲になる。部屋がまだ放射能いっぱいなのに、マシンに身をかがめ、手で試料をつかんだ。おそらく、静まり返った夜更けの実験室で、プルトニウムの放射能がフィルムにつくった星型の像を顕微鏡で見ながら、ハミルトンは突然、自分の身体には痛んだ細胞がそこらじゅうにある事実、あるいはケネス・スコットの表現を借りると「もうやられちまった」事実を悟ったのだろう。1950年代のどこかで顔が蒼白になり、感染症と歯茎の出血、挫傷に苦しんだ。放射能のせいで白血病になったのだ。低レベル放射線の悪影響について論文をいくつも書いたバークレーの科学者ジョン・ゴフマンによると、発病後のハミルトンは「幽霊にしか見えなかった」という。
スタフォード・ウオーレンは、一九四五年から四六年まではレスリー・グローブスの忠実な部下だったが、トリニテイ実験の現場に立ち、日本の惨状をつぶさに調べ、ビキニの放射能汚染を目のあたりにして、民間人に戻って原子爆弾の恐さを警告する講演行脚に乗り出した。ウオーレンはグローブスに手紙で、一般市民にもプルトニウムの危険性を語りかけたいと打診した。「医学研究が機密解除となった暁には、プルトニウムの毒性がきわめて高い事実、ごく微量が骨髄に入るだけで貧血から死に至る事実が明るみに出ます。」機密を洩らす恐れのない聴衆には、こんな警告も付け加えた。「プルトニウムをはじめとする長寿命の放射性核種は、数マイクログラムで貧血を起し、五〜十五年内にガンを生む恐れがあります。どちらも気づかないうちに進み、打つ手はありません。全身の破壊に至るのです。どこにでもあって、逃れようもなく、服や住居、飲み水、ミルク、あらゆる食品に忍び込む・・・・そんな物質で汚染された世界に、皆さん住む気になれますか?」
ウオーレンの不吉な物言いは、多くの科学者の気分を害し、プルトニウムはさほど危険でもないと言い張る研究者を怒り狂わせた(それが現在まで続いている)。その急先鋒ともいえるロスアラモスの化学者ドン・マステイックが、ルイス・ヘルマンにこう書き送った。「最近、ウオーレン博士が深刻で含みの多い講演をされたと聞きました。長崎クラスの原子爆弾千発で、長寿命の副産物プルトニウムニ四〇〇〇年が地球の生命をそっくり滅ぼしかねない、と。事実なら、あと九九五発しか許されないことになります」ヘンパルマンは、ウオーレンの発言は聞き流せと返事した。「一件は私より君の方がよく知っているはず。私の見るところ、千発の原子爆弾がばらまくプルトニウムは、むしろ人間に益をなす(たとえば精子を活性化して・・・これは冗談)。プルトニウムは、たぶんアルコールに次いで役に立つ物質だ。歯磨き粉に入れるのもよさそう」。
一九四七年一月一日午前零時、マンハッタン計画のもとにあった軍の大帝国が、民間人をトップにすえる原子力委員会(AEC)にそっくり移管された。(注 初代委員長はヴィクターの優秀なエージェントであるルイス・シュトラウス)AECは四月十七日、一通の包括的な指令を出す。「人体実験を述べた文書は、悪評や訴訟を生む恐れがある場合、外部にいっさい出さないのが望ましい。文書は『秘密』とし、今後、当該分野の研究は事務局長が禁ずる。」以後、三十年に及び冷戦時代、倫理にもとり、治療効果もいっさい期待できない放射能人体実験が何千も、AECの助成で行われる。
人体実験がどれほど大規模にくり広げられたか、それはようやく一九九四年、会計検査院の調査で明らかになる。一九四〇年から七四年にかけ、放射能、マスタードガス、神経ガス、生体物質、LSDなどを使う軍の実験で、数十万の米国民が被験者になっていたのだ。軍は爆心から一・五キロそこそこの塹壕に兵士をしゃがみこまたり、莫大な放射能を持つ水素爆弾のキノコ雲にパイロットを突っ込ませたりもしている。
凄惨な人体実験には、例えば産婦人科クリニックで妊婦に放射性物質入りのカクテルを飲ませる実験がある。また貧困家庭や問題行動を起す児童を収容する施設から被験者を脱け出させて、放射性カルシウムを摂取させ、骨の特別な部位に濃縮されるホットスポットを確認する実験もあった。「ご両親さま 私どもは数年来、マサチューセッツ工科大学と協力し、お預かりしたご指定の栄養状態と体力の改善を図る研究をしております。ときにはご子弟の血液を採って分析しました。一定量のカルシウムを含む特別な朝食を摂ったあとに採血します。月に一度、三ヶ月にわたる血液検査のボランテイアを募ったところ、ご子息が応じてくれました。と申しますのも、サイエンス・クラブに入ると、ほかにも数々の特典があるからです。検査期間中は牛乳を毎日飲めますし、野球の観戦、ビーチの遠足、外の夕食会など、子どもたちはたいへん喜んでいます。」
アメリカの兵士も生体実験の材料にも使われた。ネヴァダと太平洋の大気中核実験に借り出された兵士は合計で二十万人を超す。クリントン大統領の放射能人体実験委員会の見積もりで、本物の人体実験に使われた兵士は2000〜3000人にのぼる。』
以上です。
冶金研究所があったシカゴ大学は、ロス茶代理人ロックフェラー財団の大口寄付によって運営されています。
ミルトン・フリードマンもここの教授ですが、彼が吹聴したマネタリズムの元ネタは、
イギリスの王立直轄植民地協会専属の経済学者アルフレッド・マーシャルの「通貨主義理論」です。
ロスチャイルドは一世紀もの長い時間を掛けて、慎重に代理人のイメージ作りをし、
自分と代理人たちに直接の関係がないよう思わせるのに成功しました。
『アメリカの金融界ではロスチャイルドもほとんど取るに足らないという通念は、
一世紀以上かけて合衆国で入念に育て上げられてきたものである。
この偽装によって、この国の政治的金融的発展を自分に有利に操ることができたのだ。』
(ユースタス・マリンズ『富と権力の強奪史 世界権力者構造の秘密』より)
ジェイとデーヴィッドの跡目争いの話題に耳目が集まるのも、イメージ操作の一つと言えるでしょう。
副島隆彦と中田君がその印象操作に加担していることは、あのカルタ図鑑を見れば一目目瞭然です。
もう10年以上も前に広瀬隆によって、ウオール街が空洞化されている内情が書かれているのです。
私にはアメリカとロックフェラーをバッシングする請負仕事に励んでいるのがリチャード・コシミズであり、
副島隆彦と中田くんたちSNSIに見えます。
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